18.眠れぬ夜の焼きドーナツ
眠れない。
ベッドに潜り込んだ胡桃は、布団の中でモゾモゾと寝返りを打った。目を閉じると余計なことばかり考えてしまい、どうにも寝つけない。ここ数日は寒さが厳しいことも輪をかけて辛く、モコモコの靴下を二重履きしているにもかかわらず、胡桃の足先は氷のように冷え切っている。
(……わたし、本当にお菓子作りを仕事にしたいと思ってるのかな……今の安定した生活を捨ててまで? ほんとに、そんなことできるの……?)
こういうとき、考えてしまうのは自分が進むべき道のことだ。
先週の飲み会で柏木の話を聞いてから、余計に思い悩むようになってしまった。やりたいことやらずに後悔するよりいい、という声が頭に響いて、胡桃はどうしようもない焦燥感に駆られる。行き場のないモヤモヤが胸を満たして、それを吐き出すように「うーっ」と唸ってみたりする。
(……ええい! こういうときこそ、お菓子作ろう!)
胡桃はベッドから勢いよく跳ね起きると、部屋の電気をつけた。今日は金曜日だし、幸いにも明日は休みだ。胸に揺蕩うモヤモヤは、甘いお菓子にぶつけるに限る。
胡桃は悩んだ結果、焼きドーナツを作った。工程は至って単純、混ぜて焼くだけの簡単なものだ。本当はアイシングをしたりチョコをかけたりナッツを乗せたりした方が豪華で美味しいのだろうけど、今日は時間も時間だし、プレーンな生地の中にチョコチップを入れただけのシンプルなものにした。
胡桃はタッパーに山盛りのドーナツを抱え、隣の部屋のインターホンを押す。佐久間は仕事をしていたのか、すぐに顔を出してくれた。
「きみか。一体どうしたんだ」
「ごめんなさい。なんだか眠れなくて……ドーナツ作ったんだけど、食べませんか?」
胡桃がタッパーを持ち上げると、佐久間は一瞬ぱあっと瞳を輝かせる。しかしすぐに渋い表情になり、何故だか口をモゴモゴとさせた。
「……こんな時間に。女性がひとりで、男の部屋に来るのはどうなんだ」
「ええ? いまさら何言ってるんですか」
佐久間の部屋を、このぐらいの時間に訪れることはべつに珍しいことではない。生地を寝かせたり焼いたりしていると、お菓子が完成するのはどうしても遅くなる。夜型の彼は深夜に仕事をしていることが多いし、今まではまったく気にせず突撃していた。
「いろいろと……常識的な問題があるだろう」
「でも、こないだはお泊まりまでしたのに」
「ご、語弊のある言い方をするな! きみが勝手に酔い潰れて寝てただけだろう!」
「……もしダメなら、ドーナツ持って帰ります……」
胡桃がしょんぼりと言うと、佐久間はぐっと言葉に詰まる。難しい顔で腕組みをして、常識とドーナツを天秤にかけているのだろうか。考えたところで、どうせ答えは決まっているのに。
「……入れ」
苦悶の表情を浮かべた佐久間は、そう言って胡桃を迎え入れてくれた。スイーツ魔人の佐久間が、焼きたてのドーナツの誘惑から逃れられるはずもないのだ。胡桃はにんまり笑って、「はあい」とダイニングへと進む。
胡桃がドーナツを皿に乗せているあいだに、佐久間がお茶を用意してくれた。陶器のポットからは、いつもの紅茶とは少し違うフローラルな香りが漂ってくる。
「わ、いい匂い。これ、なんですか?」
「ラベンダーとカモミールのハーブティーだ。リラックス効果がある」
「へえ。これ、ドーナツに合うの?」
「今日は安眠効果優先だ。眠れないのなら、カフェインが入っている紅茶はやめておけ」
どうやら、胡桃を気遣ってのチョイスらしい。さりげない優しさに、胸の奥がきゅんと鳴った。
ぶっきらぼうの皮をかぶった彼の本質に触れるたび、胡桃の胸に秘めた恋心が暴れ出してしまう。そのうち心臓を突き破って、飛び出してしまったらどうしよう。
テーブルにドーナツとティーセットを並べて、「いただきまーす」と手を合わせる。今までハーブティーを飲んだことはほとんどなかったけれど、控えめな甘さの中にほんの少し苦味が感じられて、なかなか美味しい。ふわりと漂う花の香りもあいまって、ほっと心が落ち着く。
胡桃はフォークでドーナツを切り分けて、ぱくりと一口食べた。ふんわりとした生地の中にある、チョコチップの食感が楽しくも美味しい。焼きドーナツは油で揚げないため比較的ヘルシーではあるのだが、それでも深夜に食べるにはなかなか罪深いカロリーだ。
「焼きドーナツにありがちなパサパサ感が一切なく、フワフワでありながらしっとりしている。生地の配分が良いのだろうな」
「ありがとうございます。時間があったらもっと豪華にしたかったんですけど」
「いや。このバターの味わいとチョコチップのみで勝負している潔さも良いものだ」
佐久間はうんうんと頷いてドーナツを堪能したのち、つと視線を上げてこちらを向いた。胡桃の内にある何かを探るような視線に、ドキリとする。
「な、なんですか?」
「……眠れなかったんだろう。何かあったのか」
表面上はそっけない佐久間の声には、胡桃への気遣いが滲んでいる。胡桃はハーブティーを一口飲んで喉を潤したあと、「大したことじゃないんですけど」と前置きしてから話し始めた。
「……このあいだの飲み会で。同期が、転職するって話聞いて」
「ふむ」
「やりたいことやらなかったら後悔する、って言ってて……それ以来なんだかわたし、焦ってるんです」
「なにを焦ることがあるんだ」
「……わたし……その、佐久間さんに出逢ってから……お、お菓子作りを、仕事にする……みたいなことを、考えるようになって……」
まだぼんやりとした輪郭しかない漠然とした夢を、口に出すのは初めてだった。言ってしまってから、やっぱりわたしなんかが畏れ多かったかも、と恥ずかしくなる。
しかし佐久間は胡桃を馬鹿にすることなく、「いいんじゃないか」と真面目な顔で頷いてくれた。
「……でも、勇気がないんです。今の仕事辞めてほんとに大丈夫なのか不安だし、貯金だってそんなにないし……ちゃんと、お菓子作りの勉強してたわけじゃないし……わたしの作ったものなんて、ほんとはお金取るレベルじゃないんじゃないかって……」
「……」
「でも、そうやって。挑戦できない理由ばっかり探してる自分が一番嫌です……」
胡桃は俯くと、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。歳を重ねるたびに言い訳ばかりが上手くなって、今いる場所に根が生えたように動けなくなる。足を掴んで引き留めようとする弱気なんて篩い落として、新たな世界に漕ぎ出して行ければいいのに。
「……どうして佐久間さんは、作家さんになったんですか?」
胡桃が尋ねると、佐久間はつまらなさそうに頬杖をついて答えた。
「べつに、なろうと思ってなったわけじゃない。高校時代に書いた作品が賞を獲って、気付いたら小説家になっていた」
「途中で、作家辞めて就職しようかな、とか思わなかったんですか?」
「思わなかった。俺にはこういう生き方しかできないし、小説が書けなくなったときは死ぬときだ。今は運良く、生きながらえているだけで」
「そんな……」
胡桃は絶句した。大和も以前「目を離した隙にフラッと死にそう」と佐久間のことを評していたが、まさか本当にそんなに危なっかしい生き方をしているとは。
知らず握りしめた拳が震えて、胡桃は心を落ち着けるように甘いドーナツを齧る。
「いつか沈む泥舟に乗っているようなものだな。ただ、運が良かったのは……俺の才能を信じて、一緒に泥舟に乗り込んでくれる男がいたことだ」
「……筑波嶺さんの、ことですか?」
胡桃の問いに、佐久間はティーカップを持ち上げて、昔を懐かしむような遠い目をする。
「筑波嶺くんが担当についたとき、俺は何作も連続で鳴かず飛ばずだったが、彼は〝まだ先生の存在に世界が気付いてないだけです〟と言ってくれた。あの男は有能だぞ。筑波嶺くんがいなかったら、俺はとっくの昔に落ちぶれて野垂れ死んでいただろう」
「……」
佐久間の大和への信頼は胡桃にとって眩しく、また羨ましいものでもあった。二人が積み重ねてきたものの重みは、きっと胡桃の想像に及ばないものなのだろうけれど、ほんの少し嫉妬してしまう。
小説を書けなくなったときは死ぬときだ、と佐久間は言った。果たして胡桃に、そんな生き方ができるだろうか。――おそらくできないだろうな、と思う。
「わたし、正直言って……そこまでの覚悟は、ないです」
「べつに、好き好んでこんな生き方をすることはない。人生の選択肢があるのは幸せなことだ」
「……なまじ選択肢があるぶん、怖いです。将来、ああしておけば、ああするんじゃなかった、って……後悔するんじゃないかって」
何年もあとになって、選ばなかった方の未来を想像して、もう手遅れだと泣くことになるかもしれない。安定を手放しても、夢を諦めても、どちらも後悔するような気がする。
佐久間はふたつめのドーナツに齧りつくと、もぐもぐと美味そうに咀嚼し飲み込んだあとで、言った。
「……以前一緒に行った、〝
「……ああ、バターサンドの」
二人で初めておでかけをしたときに行った、週替わりのバターサンドがあるお店だ。年配の女性が二人で切り盛りしていた。あそこの焼き菓子全部美味しかったなあ、と思い出してうっとりする。
「あそこのオーナーは、40も半ばを過ぎてから製菓学校に通い、あの店をオープンしたらしいぞ」
「えっ。そうなんですか!?」
「……だから、まあ。あまり焦ることもないんじゃないのか。きみが〝挑戦したい〟と思ったときが、そのタイミングなんだろう」
「……」
「こうして悩んでいる時間だって経験のひとつだ。きっと無駄にはならない。正解なんてないんだから、気の済むまで悩んで答えを出せばいいんじゃないのか」
「……そう、ですね」
「大事なのは、他の誰かのせいにしない選択をすることだ。……自分の周りの人間を責めることになるのは、きみ自身が辛いだろう」
佐久間の言葉は、驚くほどすとんと胡桃の中に落ちてきた。胡桃の中にある問題が根本的に解決したわけではないけれど、それでも気持ちが軽くなる。
(佐久間さんの言葉が、こんなにも胸に響くのは。きっと彼が、真剣にわたしのことを考えてくれてるからだ)
「……ありがとう、ございます」
胸の奥から溢れてくる感情のまま、胡桃は佐久間に礼を述べる。すると彼はコホンと小さく咳払いをして、むすっとした顔で口を開いた。
「……ちなみに、これはべつに参考にしなくてもいいんだが。個人的な意見をひとつ述べさせてもらうなら」
「はい。なんでしょう」
「俺個人としては、きみの作ったお菓子が安定的に供給される状況が整うことは、喜ばしいことだ。合法的に金も払えるしな」
やや回りくどい言い方だが、きっと胡桃の背中を押してくれているのだろう。胡桃はティーカップを両手で握りしめて、おずおずと尋ねた。
「……佐久間さんは、わたしが、その……そういう道を選んだとして。成功すると、思いますか?」
胡桃の問いを、佐久間ははっと鼻で笑い飛ばした。
「愚問だな。筑波嶺くんの言葉を借りるなら、〝まだ世界がきみの才能に気がついていないだけ〟だ」
迷いなく答えた佐久間に、胡桃はへにゃりと微笑んだ。霧がかかった道の先に、まるで道標のような光が灯ったような気がする。
(……佐久間さんが、居てくれたら……答えを出せる日も、そんなに遠くないのかもしれない)
カップを持ち上げて、彼が淹れてくれたハーブティーを一口飲む。いつのまにか身体がポカポカ温かくなってきて、ぼんやりと心地良い眠気が襲ってきた。ハーブティーの効果なのか、それとも佐久間がそばに居てくれるからなのか。
冗談半分で「今日もお泊まりしてもいいですか」と尋ねると、怖い顔で「ダメに決まってるだろう」と叱られてしまった。残念、半分は本気だったのに。
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