17.修羅場のカルーアミルク(3)

 警戒心を露わにしながらこちらを睨みつけている男に、水羽は無抵抗の意を示すために両手を上げた。まずは自分が間男ではないことを証明しようと、慌てて口を開く。


「あの、すみません。僕は水羽直樹といいます。糀谷さんと同じ部署で働いていて、彼女の先輩です」

「……ああ、なるほど。あんたが〝先輩〟か」


 男は妙に含みのある口調で呟くと、チッと大きな舌打ちをした。まるで値踏みするかのように、じろじろと無遠慮な視線を向けてくる。

 そのあいだも胡桃はムニャムニャと唸りながら、男の腰のあたりに抱きついていた。見ていてあまり気持ちの良い光景ではない。


「……あの。もしかしてあなたは、糀谷さんの恋人……ですか?」

「ち、違う! 断じて違う!」


 おそるおそる尋ねたところ、予想以上の勢いで否定されてしまった。水羽はガッツポーズをしたくなるのを必死で堪える。やった! 彼氏じゃなかった!


「あ、じゃあご家族ですか? お兄さんとか?」

「…………まあ。みたいな、ものだ」


 男はボソボソと答える。もしこの男が胡桃の身内ならば、愛想を振り撒いておくにこしたことはないだろう。のちのちのことを考えるなら、感じの良い男だと思われた方が得だ。

 頭の中で素早く算盤を弾いた水羽は、上司からのウケも抜群な爽やかな好青年スマイルを取り繕う。


「夜分遅くに、本当に申し訳ないです。今日は営業部の飲み会だったんですが、糀谷さんが酔い潰れてしまって……」

「……なんで、こんなになるまで飲ませたんだ。部屋まで連れてきてあわよくば、という下心があったんじゃないだろうな」

「ま、まさか! 酔っ払って前後不覚になっている女性をどうこうしようなんてつもり、微塵もありません!」


 水羽は慌てて否定した。言い訳をしているわけではなく、本心からの言葉である。なし崩しに関係を始めるのではなく、きちんと順序を踏んで結ばれたい。胡桃のことを、ずっと大事にしたいと思っているからだ。


「……どうやら、あの男ほどのクズではないようだが……腹の底では何を考えているのか、信用できないな」


 男は腕組みをしながら、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。チラリと胡桃を一瞥したあと、水羽に問いかけてきた。


「単刀直入に訊くが。あんたは、この女のことをどう思っているんだ」

「好きです」


 迷わず、ほぼノータイムで答えていた。男は驚いたように目を丸くする。胡桃は未だ男に抱きついたまま、「うーん」と唸っている。

 もしかすると胡桃に聞こえているかもしれないが、それはそれで構わない。ここはきっちり、誠実な男アピールをしておいた方がいいだろう。水羽は追撃するように畳み掛ける。


「本当に、好きなんです。生半可な気持ちじゃありません。真剣に、お付き合いしたいと思ってます」

「……」

「……もちろん、糀谷さんの気持ちが最優先ですけど。いずれにせよ、お酒の力を借りて、つけこむような真似はしません。こんな状況ではなく、いずれきちんと告白するつもりです」


 水羽はそう言って、深々と頭を下げた。


「今日は本当にすみませんでした。糀谷さんにも、よろしくお伝えください」


 男は苦いものを口いっぱいに含んだような顔で、黙りこくっている。水羽は最後に「失礼します、おやすみなさい」と言ってから、踵を返してエレベーターへと向かう。がちゃん、と扉が閉まる音が背後から聞こえた。


(……さっきの男。どっかで、見たような……)


 涼しげな顔立ちで、なかなかのイケメンだったが、記憶を辿ってもさっぱり思い出せない。仕事柄、一度見た人間の顔は絶対に忘れないのだが。どこで見たのだろうか、とエレベーターの中で一人首を捻る。

 しばらく考えたが、最終的に気のせいだろうと結論づけた。エントランスを通ってマンションを出ると、胡桃がいるであろう部屋を見上げる。まだ、電気は点いていた。


(……今度ここに来るときは、彼女が酔っ払ってないときでありますように……!)


 次こそはあわよくば、という願望はあるが、家族と一緒に住んでいるのならば難しいかもしれない。水羽はがっくりと肩を落として、地下鉄の駅に向かって歩き出した。この時間だと、終電にはまだ間に合うだろう。

 


 

 ぬかるみのような夢と現実のはざまで、佐久間さんの匂いがする、と胡桃はぼんやり思った。先日ぎゅっと抱きしめられたときに嗅いだのと、同じものだ。

 閉じた瞼ごしに、あたたかな太陽の光を感じる。驚くほど肌触りが良い、ふわふわの毛布にくるまれている。朝が来たのだということはなんとなくわかるが、頭が重くて起き上がれない。倦怠感に包まれながら、ゆっくりと目を開けた。


「……やっっっっと、起きたか」

「……!!??」


 その瞬間、目の前に好きなひとの顔があった。いつも以上に不機嫌そうな顔で、こちらを睨みつけている。

 勢いよく跳ね起きると、頭がズキズキと痛む。「イタタタ……」と頭を抱えていると、キッチンに向かった佐久間がグラスに入ったミネラルウォーターを持って戻ってきた。


「飲め」

「……あ、ありがとうございます……」


 ごくごくと水を飲み干すと、ほんの少しだけ気分がすっきりした。キョロキョロと周りを見回すと、やはりここは勝手知ったる佐久間の部屋だった。リビングにあるソファの上で、毛布にくるまっている。


(な……なんでわたし、ここで寝てるの!?)

 

 胡桃は慌てて、あやふやになっている昨夜の記憶を手繰り寄せる。

 そうだ、昨日は会社の飲み会で――コーヒーゼリーの入ったカルーアミルクや、生クリームのたっぷり乗ったチョコレートリキュールのカクテルが美味しかった。柏木と仕事の話をしていたら、隣に堂本課長が座ってきて、断りきれないままにお酒をどんどん飲まされて――それ以降の記憶が、一切ない。

 胡桃はさーっと青ざめる。とりあえず、自分が着ているものを確認した。昨日と同じ、ケーブル編みのゆるめニットと裏起毛のストレートパンツだ。万が一〝何か〟があればおそらくわかると思うが、身体に違和感はなかった。最悪のパターンではなさそうだ、とひとまず安心する。


「あの、佐久間さん。わたし、どうしてここに」


 佐久間は怖い顔で、床に敷いたラグの上であぐらをかいている。


「……ゆうべ、ここに来たのはきみだろう。覚えていないのか」

「え!? う、嘘……」


 佐久間の言葉に、胡桃は愕然とする。覚えていない。が、お酒を飲まされながら「早く帰って佐久間さんに会いたいなあ」と考えていたのは事実だ。もしかするとアルコールの力により自制心のブレーキが壊れ、一目散に佐久間に会いに来たのだろうか。自分で自分が恐ろしい。


「あの、ほんとにごめんなさい……」

「……」

「……わたし、変なこと言ってませんでした……?」


 酒の勢いに任せて、告白でもしていたら最悪だ。もしかすると既に言ってしまったあとで、それで佐久間がこんなに怒っているのかもしれない。


「……特に、何も言っていない。

「わたしは? 他に、誰かいたんですか?」


 胡桃は首を傾げて訊き返す。佐久間は苛立っているのか、カタカタと落ち着きなく貧乏ゆすりを始めた。


「……きみの〝先輩〟も一緒だったぞ」

「え? 先輩?」

「……なかなか爽やかな、いい男じゃないか。きみの元恋人よりは、多少まともそうだ」


 爽やかないい男、と言えば――水羽のことだろうか。おそらく彼は酔い潰れた胡桃を、ここまで送ってくれたのだろう。会社の先輩に多大なる迷惑をかけるなんて、穴があったら入りたくなる。月曜日に会ったら、誠心誠意謝っておかないと。


「彼が、ゆうべ何か言ってたんですか?」

「きみは、本当に何も覚えてないのか」

「はい……」


 胡桃が頷くと、佐久間はなんだかホッとしたような顔をして、小さく息をついた。


「……覚えていないのなら、俺からは何も言わない」


 佐久間はそう言って、話は終わりだとばかりに首を横に振る。佐久間はなんだかやけに疲れた様子で、目の下には隈ができていた。朝から佐久間さんの顔が見れるなんてラッキー、と思ったあとで、はたと気がつく。

 よく考えたら、ゆうべは化粧も落とさずに寝たんじゃないかしら。寝起きでメイクがボロボロの顔なんて、好きなひとに見られたいものではない。すっぴんの方がまだずっとマシだ。突然彼に顔を見られていることが恥ずかしくなり、両手で顔を覆う。


「ギャーッ! 佐久間さん、見ないでください!」

「……いまさら何を言ってるんだ。もうさんざん見たぞ」

「やだー! なんで見るんですかー! まさか寝顔とか見てないですよね!?」

「……ひとの部屋で朝まで呑気に寝ておいて、そんなことがよく言えたものだな」

「そ、それはほんとにごめんなさい! でも、佐久間さんに見られるのは恥ずかしいです!」


 半目になったり、涎を垂らしたりしていたら最悪だ。もし彼に寝顔を見られるならば、もっとロマンチックなシチュエーションがよかった。幻滅されていたらどうしよう、と不安になる。

 半狂乱になっている胡桃の額を、佐久間は人差し指で強めに突いた。怒りが滲んでいるのか、いつもより痛い。


「俺に見られるのがそんなに嫌なら、酔っ払った状態で恋人でもない男の部屋に来るな。相手が俺じゃなかったら、大変なことになっていたぞ」

「……うう……」

「そもそも、酔い潰れて訳がわからなくなるまで外で飲むな」

「……おっしゃる通りです……」


 突然現れた酔っ払いを追い返すことなく、一晩ソファで寝かせてくれた佐久間は優しすぎる。よく見ると、ふかふかの毛布までかけてくれているではないか。おそらく彼がいつも仮眠に使っているものだろう。佐久間さんの匂いがする、と思ったけど、口に出すのはやめておいた。本当は自分の部屋に持ち帰って、存分に匂いを嗅ぎたいところだったが。

 胡桃はソファの上で正座すると、毛布にくるまったまま、佐久間に向かって深々と頭を下げた。


「……迷惑かけて、ごめんなさい」

「そもそもきみは、なんでここに来たんだ」

「……たぶん、佐久間さんのこと考えてて、佐久間さんに会いたいなって思ってたから……」

「え」


 佐久間はやや狼狽したように視線を彷徨わせ、ガシガシと黒髪を掻きむしってから、言った。


「……ああもう、頭が回らない……とにかく俺は、眠くて仕方がないんだ。今すぐ寝る。さっさと部屋に戻ってくれ」

「えっ、佐久間さんまた寝てないんですか。ダメですよ、ちゃんと寝ないと。身体に悪いですよ」


 悪気のない胡桃の言葉に、佐久間はギロリとこちらを睨みつけてくる。「誰のせいだと思ってるんだ」と言った彼に、毛布を思い切り剥ぎ取られてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る