16.修羅場のカルーアミルク(2)

 水羽直樹は生まれてこのかた29年、自分から好きになったひとと付き合えたことがない。

 自分の見た目に興味がなく、教室の隅っこで陰鬱でグロテスクな本を読んでいた高校時代は、ちっともモテなかった。「水羽、気持ち悪い本ばっかり読んでる」と馬鹿にしてくる女子たちは嫌悪と恐怖の対象だったし、誰かに告白することも、当然告白されることもなかった。

 高校を卒業し、地方の国立大学に進学した水羽は、眼鏡をコンタクトに変えて髪型や服装に気を遣うようになった。いわゆる大学デビュー、というやつだ。見た目を変えたことで社交的に振る舞えるようになり、高校時代が嘘のようにモテた。

 今まで付き合ってきた歴代の恋人たちとの交際のきっかけは、強引で積極的な女性に押し切られ、流されるように付き合う、というものがほとんどだ。しかし水羽の内面の地味さに気付いた女性たちは、すぐに「こんなにつまんない男だと思ってなかった」と言って、水羽の元から去ってしまう。その繰り返しだ。

 歴代の彼女は皆一様に美人で気の強いタイプだったが、水羽はどちらかと言うと、地味でおとなしい、ほんわかしたタイプが好きなのだ。休日にはジャージ姿でだらだら過ごして、一緒に読書をしてくれるような女性がいい。

 そんな水羽にとって、糀谷胡桃はまさに自分の好みど真ん中だったのだ。「営業二課に配属されました、糀谷胡桃です」と言った彼女がふわっと笑った瞬間、水羽はいともたやすく恋に落ちた。




「……今日はありがとうございます、お疲れさまでした! お気をつけて!」


 滞りなく新年会が終わり、水羽は店の前でタクシーに乗り込む部長を見送った。タクシーが見えなくなるまで頭を下げ続けて、はあーっと深い息をともに顔を上げる。


(くそっ……! せっかく糀谷さんと隣になれたのに、ぜんっぜん喋れなかった……!)


 うまく言いくるめて胡桃とともに店に向かい、隣の席をキープしたところまでは順調だったのだが。部長や課長に気を遣って練り歩いているうちに、飲み会は終了してしまった。水羽も営業部内での立場があるので、仕方がないことだ。しかし胡桃が同期の柏木と親しげに話しているのを横目で見て、内心歯噛みする思いだった。


(……せめてタクシーで一緒に帰ろう……二軒目誘う……のは、無理だよなあ……)


 去年の五月頃に、どうやら恋人と別れたらしい、という噂を聞きつけて以来、水羽は胡桃に積極的なアプローチを繰り返している。しかし胡桃には今ひとつ気持ちが伝わっていないようで、どうにも距離を詰めかねている状態だ。


 店に戻ると、胡桃が座敷の隅っこで猫のように丸まっているのが見えた。その傍らには、困り果てた表情の柏木が立っている。


「柏木! 糀谷さん、どうしたの?」

「あ、水羽主任……それが糀谷さん、ちょっと目を離した隙に、堂本課長に捕まっちゃって。容赦なく飲まされたみたいっス」

「うわー……」


 状況を想像して、水羽は天を仰いだ。

 営業一課の堂本課長は、常識が昭和からアップデートされていないタイプの上司であり、部下に対して「俺の注いだ酒が飲めないのか」などとのたまうタイプだ。女性社員に対しては特に高圧的で、馬鹿にして見下しているような気配さえある。普段は気の強い栞にやりこめられている鬱憤を、従順な胡桃で晴らしたことは想像に難くない。あのパワハラくそじじい、と水羽は内心で上司を罵った。


「おれも、ちゃんと気を付けてたらよかったんですけど……いつのまにか酔い潰れて寝ちゃって。全然起きないんスよ」


 柏木は遠慮がちに胡桃の肩に触れ、「おーい」と軽く身体を揺すっている。真っ赤な顔で目を閉じた胡桃は「うぅん」と唸ったが、起きる気配はなかった。


(……この子、危機感なさすぎだろ……良からぬこと考えてる奴がいたら、ホテルに連れ込まれて終わりだぞ……)

 

 よくもまあここまで無事に生きてこられたな、と思ったが、香西彰人に弄ばれていた時点で、あんまり無事じゃないのかもしれない。いずれにせよ、胡桃のそういう危なっかしいところも、水羽にとっては庇護欲をそそる部分であった。


「……柏木。俺、糀谷さんのマンション知ってるから送っていくよ。店のひとに頼んで、タクシー呼んでもらえる?」

「あ、そうすか。じゃあお願いします。水羽主任なら安心っスね」


 柏木の言葉に、水羽は無言のまま笑みを返す。自分で言うのもなんだが、水羽の営業部内での信頼は非常に篤い。上司からの覚えも良いし、後輩からも慕われている。


(ただ……ほんとに安全かって言われると、そうでもないよなあ)

 

 もちろん酔い潰れている女性をどうこうするつもりは毛頭ないが、下心という点においては存分にある。

 丸くなっている胡桃の身体を、腋の下に手を入れて無理やり持ち上げる。掴んだ二の腕が驚くほど柔らかくて、どきりとした。ふわふわの髪からは、バニラのような甘い香りが漂ってくる。


「……糀谷さん、歩ける?」

「んん……」


 小さく唸った胡桃は、目を閉じたままこくんと頷く。起きているのか寝ているのかよくわからないが、隣で身体を支えていれば、なんとか歩けるようだ。


「水羽主任。タクシー来ました」


 水羽は胡桃にパンプスを履かせると、ほとんど引きずるようにして店の外まで連れていく。タクシーの後部座席に押し込んで、自分もその隣に乗り込んだ。


「柏木も乗ってく?」

「いえ。おれ、これから彼女と会うんで。じゃあ水羽主任、おつかれース。糀谷のことよろしくお願いします」

「うん。お疲れさま」


 柏木はぺこっと頭を下げると、タクシーの発車を待たずに立ち去っていった。少々適当なところもあるが、よく気の回るいいやつだ。あと二ヶ月で退職するのが惜しいな、と寂しくなる。


 運転手に行き先を告げ、タクシーは滑るように走り出す。目的地に着くまでのあいだ、水羽は胡桃の無防備な寝顔をじっと見つめていた。ふっくらとした頬は驚くほどあどけなく、ときおり、むにゃむにゃ、と口元が動く。まるで小動物のようだ。


(……可愛いな)


 彼女のような女性と付き合えたらどんなにいいだろうか、と水羽は思う。可愛らしくておとなしくて家庭的で、しかも本の趣味まで合う。こんな女性には、もう二度と巡り会えないだろう。

 胡桃が佐久間諒のファンだと知ったとき、水羽はその場で飛び上がりたくなるほど嬉しかった。今まで馬鹿にされ続けてきた趣味に、共感してくれる女性をようやく見つけたのだ。絶対に逃してたまるものか、と彼女の肩を抱く手に力をこめる。


 そうこうしているうちに、胡桃のマンションに到着した。運転手に金を払い、彼女の身体を支えながらタクシーを降りる。


「糀谷さん! 起きて、着いたよ」

「うう……」

「部屋どこ? 一人で戻れる?」


 問いかけたが、胡桃からの返答はない。これは、一人で部屋まで辿り着くのは無理だろう。仕方ないので心の中で彼女に詫びてから、バッグを漁り、革のキーケースについた鍵を探し当てた。オートロックを解除して中に入る。エレベーターの前にあるセンサーに鍵をかざすと、勝手に8階のランプが点灯した。

 さて。フロアはわかったものの、肝心の部屋番号がわからない。8階でエレベーターを降りた水羽は、ずらりと並んだ扉を前に途方に暮れる。


「……糀谷さん! 起きて! 糀谷さんの部屋、どこ?」

「……ううん? わたしの……?」


 ようやく薄く目を開けた胡桃は、ふにゃふにゃの声でそう言った。水羽に支えられつつ、フラフラと歩き出す。そのままひとつの扉の前で立ち止まり、迷いなくインターホンを押した。ややあって、目の前の扉が開く。


「……なんだ」


 顔を出したのは、剣呑なオーラを纏った見知らぬ男だった。ボサボサの黒髪で、人でも殺しそうな目でこちらを睨みつけている。よくよく見れば顔立ちは整っているのだが、それを凌駕するほどに人相が悪い。


「さくまさーん! ただいまあ!」


 胡桃はぱあっと顔いっぱいに笑みを浮かべると、男に勢いよく抱きついた。男はぎょっと目を見開く。


(ひょ、ひょっとしてこのひと……糀谷さんの彼氏!?)


 もしかして彼氏と同棲しているのか、と水羽は内心がっくりと肩を落とす。

 しかし男は明らかに動揺しているようで、慌てたように胡桃の両肩を掴んで引き剥がした。あからさまに悲しそうに、しゅんと眉を下げた胡桃を見て、ぐっと眉間に皺を寄せる。


「なっ……なんなんだ! どういう状況なんだ、これは! あんたは誰だ!」


 男はそう言ってこちらを睨みつけると、人差し指をびしっと突きつけてくる。もしかするとこれは人生初めての修羅場なのかもしれない、と水羽は引き攣り笑いを浮かべた。

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