15.修羅場のカルーアミルク(1)
半強制的に参加させられる会社の飲み会ほど憂鬱なものはない、と胡桃は常々思っている。
そもそもそんなにお酒が得意じゃないのに、飲み放題の代金を払わされるのも納得できない。お酌やサラダの取り分けをしなければ、「気が利かない」という目で見られるし、酔っ払った同僚や上司からセクハラめいた発言を投げかけられることもある。
平常時なら即刻セクハラホットラインに通報されるような事案が、飲み会では平然とまかり通っているのが不思議だ。あの場にだけ、治外法権が適用されているのだろうか。
「ええー!? 今日の飲み会、夏原先輩来ないんですか!?」
業務終了後のロッカールーム。制服のブラウスのボタンを外しながら、胡桃は悲痛な叫び声をあげた。隣の栞は涼しい顔で「ええ」と頷く。
「会社の飲み会、嫌いなの。毎回参加してないの、知ってるでしょう」
「知ってますけど……でも、今回こそは来てくれるかもって思ってたのに。夏原先輩がいないなんて嫌だぁ」
「そんなに嫌なら、あなたも行かなければいいじゃない」
「……行きたくないのはやまやまですけど……断れる空気じゃなくて」
胡桃はがっくりと肩を落とし、深々と溜息をついた。胡桃だって本当は、早く帰ってお菓子のひとつでも作りたいのに。こういうとき、自分の気の弱さにうんざりする。
一月最後の金曜日、今日は胡桃が所属する営業部の新年会である。営業一課と二課の合同で、それなりに大規模な集まりになるようだ。
営業部には胡桃と栞以外の女性はいない。もともと日程を決める時点から「糀谷さんの都合に合わせるから予定空けといて」と言われており、逃げ場がなかった。今日もおそらく、セクハラ部長の隣に座らされてお酌をすることになるのだろう。ひとのことをホステスか何かだと思っているのだろうか、と胡桃は憤る。
「はぁ、やだな……絶対二次会行かずに帰ろう……」
「それがいいわね。あまり飲みすぎては駄目よ。あなたは隙が多くて心配です」
「もう、何なんですか夏原先輩まで」
先日佐久間に「隙だらけだ」と言われたことを思い出して、胡桃はむくれる。自分ではそれなりにしっかり生きているつもりなのだが、そんなに危なっかしいように見えるのだろうか。男運がないことは否定できないが。
「今日の飲み会、どこでするの?」
「それが、聞いてないんですよ。会社の近くらしいんですけど、水羽主任が店まで連れてってくれるって」
「……あらあら。水羽主任、意外と抜け目ないわね」
「帰りも、一緒にタクシー乗って帰ったらいいよって。水羽主任、優しいですねえ」
のほほんと言った胡桃を、栞はジト目で睨みつける。そして、「そういうところが心配なのよね」と呆れたように溜息をついた。
水羽とともに店に到着すると、幹事の田山が「おつかれー」と出迎えてくれた。どこにでもあるチェーンの居酒屋だが、人数が30人ほどいるため、広々とした座敷を貸し切っているらしい。ブーツ履いてこなくてよかった、と思いながら胡桃はパンプスを脱ぐ。
どこに座ればいいのかとキョロキョロしていると、水羽が田山の肩にポンと手を置く。
「田山。糀谷さん、俺の隣ね」
「えー。部長の相手してもらおうと思ってたのに。部長、糀谷さんのことお気に入りだから」
「いいじゃん、たまには俺にもいい思いさせてよ」
「もー、仕方ないっすねー」
水羽は田山を丸め込んだあと、胡桃に向かってこっそり目配せをしてきた。きっと、胡桃のためにセクハラ部長を遠ざけてくれたのだろう。胡桃は両手を合わせて彼を拝んだ。
水羽は胡桃を座敷の一番端っこに座らせると、その隣に自分が腰を下ろす。正面に座っているのは入社一年目の新入社員と、胡桃と同期である
そうこうしているうちに、どんどん営業部の面々が集まってくる。胡桃から一番離れた上座の席に部長が座ったので、胡桃は安堵の息をつく。
19時になり、営業一課の
(はぁ、早く帰りたい……明日はこのあいだ買った新しい型使って、焼きドーナツ作ろうかな……プレーンとココアとチョコレートの三種類……)
さっそく新人社員を捕まえて説教をしている冴島の声をBGMに、胡桃はぼんやりと考える。すると、隣に座った水羽がトントンと肩を叩いてきた。
「糀谷さん。無理して飲まなくてもいいからね」
「あ、はい。大丈夫です。飲めないわけじゃないので」
この店の飲み放題メニューは意外と豊富で、ビールや酎ハイのみならず、カクテルの種類もたくさんあった。(佐久間ほどではないが)甘党の胡桃は、甘いお酒は結構好きだ。
「同じお金払うなら、飲まなきゃ損だし……」
「はは、たしかに。あ、デザートカクテルっていうのもあるみたいだよ。中にコーヒーゼリーとか入ってる」
「え、ほんとに!? あとで絶対頼みます!」
「次は何頼む?」
「とりあえず今は、ファジーネーブルにします」
「了解」
水羽が店員を呼んで、スマートに注文をしてくれた。冴島課長がグラスを空けたタイミングを見計らい、飲み物を頼むのも忘れない。仕事のできる男は違うなあ、と胡桃は感心してしまった。
だんだん場が盛り上がってくると、水羽は瓶ビールを持ってあちこちのテーブルを回り始めた。胡桃にはよくわからないのだが、会社の飲み会というのは社内政治の場でもあるらしい。部長の周りには入れ替わり立ち替わり社員が訪れ、ビールを注いでは去っていく。四月には人事異動もあるし、みんなにこやかな笑みを浮かべつつも、いろんな打算が渦巻いているのだろうか。
他の社員がウロウロとテーブルを移動する中で、正面に座る柏木は黙々とポテトフライを食べていた。疑問に思った胡桃は、彼に尋ねる。
「柏木くんは、部長のとこ行かなくていいの?」
柏木はポテトを咥えたまま、「あー、いいのいいの」と軽い口調で答えた。
「おれ、三月末でこの会社辞めるから」
「えっ、そうなの?」
それは初耳だ。柏木とは同期入社だし、他の社員よりは多少気安くしているが、プライベートな話をするほど親しいわけではない。
「転職すんだよ。……実はおれ、子どもの頃からゲーム作るのが夢で」
「え、そうだったの!?」
「とはいえ就活では片っ端から落ちて、今の会社入ったんだけど……やっぱり諦めきれなくてさあ。半年ぐらい前から、こっそり転職活動してた」
「そうなんだ……」
「給料も下がるし、待遇は今より悪くなるけど。でも、やりたいことやらずに後悔するよりいいかなって。今が一番若いんだし」
そう言った柏木の瞳はキラキラと輝いていて、水面のように澄み切っていた。なんだか突然彼が眩しく感じられて、胡桃は俯いてカルーアミルクのグラスに口をつける。底にはコーヒーゼリーが沈んでいて、ストローでかき混ぜて飲むのだ。
(……柏木くんは、すごいなあ。わたしはうじうじしてばっかりで、一歩も動けてないのに……)
漠然と、「自分の作ったお菓子をもっといろんなひとに食べてもらいたい」とは思うけれど、そのために何をすればいいのか、具体的なことは何ひとつわからない。少なくとも、このまま何もせずにいれば、現状はまったく変わらないだろう。
「でも、もう栞さんに叱ってもらえないのは残念だなー。あの絶対零度の視線に睨まれるのが好きだったのに」
「ちょ、ちょっと! 夏原先輩のこといやらしい目で見ないで! 馴れ馴れしく栞さんとか呼ばないで!」
「あのひとも、あんなに仕事できるんだったら、もっとキャリアアップできるだろうになあ」
「……うん、そうだよね」
栞がいなくなったら寂しいな、と思いつつ胡桃は頷く。アルコール風味のコーヒーゼリーをもぐもぐ食べていると、柏木が尋ねてきた。
「糀谷は、このままずっとこの会社にいるつもりなの」
核心をつく質問に、胡桃は内心ぎくりとする。少し考えてみたけれど、当然すぐに答えは出せなかった。
「……まだ、わからない……」
「そういや、糀谷のことで変な噂聞いたけど。技術課の香西さんに迫って婚約破棄に追い込んだとか、妻子持ちの男と不倫してるとか」
「そ、そんなの嘘だよ!」
前者はともかく、後者の噂はまったくの事実無根である。憤る胡桃に、柏木は「やっぱりな」と唇の端を上げて笑った。
「まあ、ウチの課の奴らはそんな噂信じてないよ。あんま気にすんなよ」
「……うん……」
遠慮のない質問だったが、ストレートに訊いてくれたことできちんと否定できてよかった。あんな噂が流れたあとでも、今まで通りに接してくれる営業部の面々には感謝だ。
「糀谷、仕事遅いけど優しいし丁寧だし、俺は結構助かってたよ。いろいろありがとう。仕事辞めたらもう会うこともないだろうけど、糀谷も頑張れよ」
そう言って柏木がジョッキを差し出してきたので、胡桃は「ありがとう」と言ってグラスをカチンとぶつけた。
(……頑張るって、何をどう頑張ればいいんだろう)
自分が向かうべき道は靄がかかったまま、いつまで経っても明確にならない。その道を手探りで歩いていく勇気もないまま、胡桃は今も同じ場所に立ち止まっているのだ。
(……佐久間さんに、話聞いてほしい……)
胡桃の頭に浮かぶのは、自分の才能ひとつで生き抜いている男の顔だ。早く会いたいな、と思いながら、胡桃はカルーアミルクをコーヒーゼリーごとぐいっと飲み干した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます