14.禁断症状のダックワーズ(2)
胡桃はぷんぷんと憤りつつも、佐久間のためにインスタントコーヒーを用意した。リアルなフクロウを模ったマグカップは、先日実家に帰った際に、佐久間のために購入したものだ。
「これ、こないだ佐久間さん用に買ったんです! 可愛いでしょ」
「……きみのセンスは一体どうなってるんだ」
佐久間はギョロリと大きな目をしたフクロウを見て微妙な顔をしたが、おとなしくインスタントコーヒーを口に運んだ。胡桃は彼の隣に、いそいそと腰を下ろす。
「原稿、無事終わったんですね」
「ああ。何度も逃げ出してやろうかと思ったが、死ぬ気で終わらせた。……人間、本気を出せば意外となんとかなるものだな……」
「それはよかったです。今回も読むの楽しみにしてます!」
「発売したら買ってくれ。予約も忘れるなよ」
まるで先ほどの抱擁などなかったかのように、普段通りのやりとりが続く。もしかしたらさっきの出来事は夢だったのかしら、とさえ思う。未だ、抱きしめられた身体は彼の熱を覚えているというのに。
(やっぱり、佐久間さんにとっては深い意味はなかったんだな……)
落胆したけれど、変な空気にならなかったことに安心してもいた。せっかく久しぶりに会えたのだから、二人で楽しくお菓子を食べたい。
佐久間は皿に乗ったダックワーズを見つめて、ほうっと感嘆の息をつく。
「ダックワーズか。マカロンとはまた違う、素朴な愛らしさがあって良いものだな……俺はどちらも好きだ」
「わたしもです。でも、わたしはもうおなかいっぱいなので、たくさん食べてください」
「喜んでいただこう」
佐久間はそう言って、ありがたやとばかりに両手を合わせる。よほど食べたかったのだろう、いつもより性急な様子で、フォークにダックワーズを突き刺した。一口食べた瞬間、しみじみと目を閉じて噛み締めている。
「……美味い……外側のざっくり感と、内側のねっとり感とのコントラストが素晴らしい。中に入ったガナッシュクリームも滑らかで口当たりが良く、品の良さが感じられる。なにより、オレンジピールのほのかな苦味がポイントになっているな」
久々に真正面から浴びせられた褒め言葉は、ぱりぱりに渇いていた心にじんわりと染み込んでいく。やはり彼の言葉は麻薬だ。こんなに全身全霊で褒められたあとなのに、もっと褒めて、と言いたくなる。どうやら禁断症状が出ていたのは、佐久間だけではなかったらしい。
「帰って来てくれて、よかったあ。佐久間さんがいないと太っちゃう」
「俺のせいで太ると言ったり、俺がいないと太ると言ったり、どちらにせよ太るんじゃないか」
「もう、細かいことはいいでしょ。ね、佐久間さん。美味しいですか?」
「ああ。……本当に、食べられてよかった……」
まるで地獄から帰還したかのように、しみじみと言った佐久間に、胡桃はくすくすと笑みをこぼす。
「大袈裟ですね……そんなに辛かったんですか? 甘いもの、ぜんぜん食べられなかったの?」
「いや、定期的に筑波嶺くんが差し入れはしてくれた。彼のセンスはなかなかだが、ただ……なんというか……」
「なんというか?」
「……やはり、きみの作ったお菓子が一番だな」
佐久間はしみじみと言ったあと、ぱくりとダックワーズに齧りついた。胡桃の頬に、ぽっと熱がともる。
(……一番、だって。佐久間さん、わたしのことが一番好きだって!)
当然、彼は胡桃の
「……じゃあ、これからも。佐久間さんのために、お菓子を作ることにします」
「引き続き、よろしく頼む」
お互いに大真面目な顔で、ぺこりと頭を下げているのがなんとも滑稽だ。そのとき胡桃の頭に浮かんだのは、先日聞いた杏子の言葉だった。
――誰かが自分のために作ってくれたお菓子ほど、美味しいものはないわ。だからこそ、凌はあなたを手放したくないんでしょうね。
(佐久間さんが、わたしを必要としてくれるのは。わたしが、
「……杏子さん、〝自分のために作ってもらったお菓子が一番美味しい〟って言ってました。佐久間さんもそうなの?」
佐久間は胡桃の質問には答えず、モグモグとダックワーズを頬張る。
「なんだ。いつのまに、杏子と話したんだ」
「三日ぐらい前です。部屋の電気が点いてたから、てっきり佐久間さんが帰って来たんだと思って……」
「……あいつ、また勝手にひとの部屋に……」
「あっ、そういえば! 佐久間さん、なんで杏子さんがアドリエンヌのオーナーだって教えてくれなかったんですか!」
あのときの恥ずかしさを思い出すと、無性に腹が立ってきた。ポカポカと拳で背中を叩く胡桃に、佐久間は悪びれもせずに「べつに、言う必要はないだろう」と答える。
「でもわたし、何も知らずにあのひとに手作りのカヌレ食べさせちゃいましたよ!!」
「なんだと。どうして俺がいないときに、そんな美味そうなものを作るんだ。俺はカヌレが、全ての菓子の中で5本の指に入るほど好きなんだ」
「知りませんよ、そんなの!」
「くそ、食べたかった……」
佐久間は心底悔しそうにしている。仕方ないから、今度また作ってあげることにしよう。次はショコラとレモン味にして、中にクリームを入れ込んでみるのもいいかもしれない。
「……それで。杏子はきみのカヌレを食べて、何か言っていたか」
「美味しい、って褒めてくれましたよ。また食べたいって言ってくれました。……お世辞かもしれないけど」
胡桃が言うと、佐久間はまるで自分が褒められたかのように、誇らしげな表情を浮かべた。うんうんと満足げに頷いて、マグカップを持ち上げてコーヒーを飲む。
「心配しなくても、杏子はお菓子に対しては嘘をつかない女だ。アドリエンヌのオーナーに認められたのだから、きみはもっと誇ってもいい」
「……そう、でしょうか」
「あいつが、また食べたい、と言うのはよっぽどだ。きっときみのことが気に入ったんだろう。よかったな」
佐久間がやけに嬉しそうにしているので、胡桃も改めて喜びがこみ上げてくる。「はい」と微笑むと、佐久間も僅かに口元を綻ばせた。目と目が合って、どきりと心臓が跳ねる。いつも仏頂面の彼の笑顔は、かなりレアだ。写真でも撮っておけばよかった。
内心の動揺を誤魔化すように、胡桃は「で、でも!」と声を張り上げる。
「帰り際にチューされたのには、ビックリしました。美女にキスされるとドキドキしますね……なんかものすごくいい匂いしたし……」
「はあ!? 何をしてるんだ、あいつは!」
佐久間は途端に眉間に皺を寄せて、やれやれと首を振る。それから、びしりと胡桃に人差し指を突きつけてきた。
「きみも、どうしてされるがままになってるんだ。前々から思っていたが、きみは隙が多すぎる。もっと周囲を警戒しながら生きろ」
「……その隙だらけの女に、いきなり抱きついてきた佐久間さんに言われたくありません」
胡桃は拗ねたように、唇を尖らせて指摘する。そこで佐久間は、ようやく自分の行動の突飛さに思い至ったのか、真っ赤な顔でしどろもどろになった。
「…………それは……たしかに、すまなかった。その、なんだ……我慢していた揺り戻しというか、脱稿ハイというか……」
「もう、いいです。許します」
相手が佐久間でなければセクハラで訴えるところだが、胡桃は彼のことが大好きなので、許すしかない。むしろ、もっとぎゅっとしてほしいぐらいだ。悔しいけれど、惚れた弱みである。
「……それに、わたしだって。誰に対してでも、隙だらけなわけじゃありません」
「……どうだか。それは到底、信じがたいな」
そう言って、佐久間は胡桃を睨みつけた。じっと見つめられてドキドキしていると、そのままじりじりと顔を近付けてくるので、反射的に目を閉じる。その瞬間、「……やっぱり隙だらけじゃないか」と呆れてデコピンをされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます