13.禁断症状のダックワーズ(1)
杏子とカヌレを食べた三日後、土曜日の昼。胡桃は余った卵白でダックワーズを作った。
カヌレやクッキーなどを作ったあとは、どうしても卵白が余りがちだ。アーモンド風味のメレンゲで作るダックワーズは、そういうときの強い味方である。
材料はマカロンと似ているけれど、メレンゲの気泡を潰して作るツルツルふわふわのマカロンに比べて、気泡を潰さずに作るダックワーズはザラザラさくさくだ。胡桃はどちらも好きだし、それぞれの美味しさがあると思う。
今回はココア味のダックワーズのあいだに、チョコレートガナッシュとオレンジピールを挟んだ。専用の型を持っていないため、少し歪な楕円形だ。ちょっと不格好だけれど、これはこれで愛おしいので良しとする。自分が生み出したお菓子は、例外なく可愛いものだ。
佐久間がいないので、ダックワーズに合う飲み物が何なのかわからない。いずれにせよ、胡桃の部屋の飲み物のバリエーションはそれほど多くないのだが。少し悩んだあと、インスタントコーヒーをマグカップに注いだ。
「いただきます」
ローテーブルの前に腰を下ろして、一人手を合わせる。フォークは使わず、手掴みで大胆にダックワーズに齧りついた。
(……うん! 美味しい!)
生地の外側はザクッとしているけれど、内側はしっとりとしており、チョコレートガナッシュの甘さにオレンジピールがちょうど良いアクセントになっている。たとえプロの腕には程遠くても、自分が好きなように作ったお菓子は、自分にとっては世界で一番美味しいと思う。
(……でも。もっと、お菓子作りが上手になりたい)
カヌレを杏子に食べてもらってから、胡桃は自身のお菓子作りの腕について、真剣に考えることが多くなった。たとえお世辞混じりだとしても、アドリエンヌのオーナーに手作りのお菓子を褒めてもらったことは、胡桃のささやかな自信に繋がっていた。
もっともっと、美味しいものを作れるようになりたい――それは、何のために? 誰のために?
(自分以外の、他の誰かに……美味しいって、思ってもらいたい)
自分のストレス解消のためだけだったお菓子作りが、少しずつ外の世界に広がりつつあるのがわかる。もっといろんなひとに、わたしの作ったお菓子を食べてもらいたい。それでも一歩踏み出すのは、まだ恐ろしくて――胡桃は現状に甘んじたまま、いつまでも動けずにいるのだ。
マグカップに入ったコーヒーをすっかり飲み終えても、お皿の上にはまだダックワーズがたくさん残っていた。張り切って作ったけれど、やはり自分一人で食べ切れる量ではなかった。
(うう……佐久間さーん……お願いだから、早く帰ってきて……)
彼に会えなくて寂しいのは当然だけれど、それ以上に――このままでは、胡桃の体重の史上最大値をどんどん更新してしまう。最近は恐ろしくて体重計にすら乗らなくなっているが、いよいよまずい。会社の制服のスカートが入らなくなったらどうしよう。
そんな不安に駆られていると、テーブルに置いてあるスマートフォンが鳴った。悲しいことだが、交友関係が著しく狭い胡桃のスマホが休日に鳴るのは珍しいことだ。
誰かしらと思いディスプレイを見ると、水羽からの着信だった。以前に一緒に飲みに行ったときに、連絡先は交換したものの、実際に電話がかかってきたのは初めてだ。驚きつつも、受話ボタンをタップする。
「はい、糀谷です」
『お休みの日にごめんね。水羽です。今大丈夫? 糀谷さん、家にいる?』
「は、はい」
このひとは、電話越しでもやたらと爽やかだ。柑橘系の芳しい香りが、電話の向こうから漂ってくる気さえしてくる。休日は眼鏡にジャージでゲームか読書をしていると言っていたけれど、あまり想像できない。今日はいったい、どうしたのだろうか。
『……実は今、糀谷さんちの近くまで、たまたま来てるんだけど……前に言ってたオススメの本、よかったら直接渡せないかなーと思って』
「えっ」
胡桃は驚いた。そのために、わざわざ休日に連絡してくるとは。以前から、ずいぶん熱心に布教してくるものだと思っていたが、本の趣味が同じひとに出逢えたことがよほど嬉しいのだろう。
唐突な提案に戸惑っていると、水羽はやや慌てたように言い繕った。
『あ! もちろん、部屋に上がり込んだりしないから! マンションの下で会って、渡すだけ。……ダメかな?』
「うーん……そ、そうですね……」
胡桃はそう答えて、チラリ、とテーブルの上のダックワーズに視線を向ける。てんこもりのダックワーズは、自分一人では消費できそうにない。
もちろん家に上げるつもりはないけれど、マンションの下で本を受け取るぐらいなら、まあいいか。適当な部屋着にほぼすっぴんだけれど、優しい水羽なら笑って許してくれるだろう。ついでに、余ったダックワーズを持って帰ってもらおう。
いいですよ、と答えようとしたところで――ピンポーン、と部屋のインターホンが鳴った。ざわり、と不思議な予感が胸をざわめかせる。
「……ごめんなさい! 今、誰か来たみたいなので! またの機会に!」
『あ、そうなんだ……わかったよ。じゃあ、また会社で』
「はい! では失礼します!」
そう言って電話を切った胡桃は、すぐさま小走りで玄関へと向かう。はやる心臓を押さえながら、扉を開けた。
「……佐久間さん!」
そこに立っていたのは、胡桃の予想通り――まさしく佐久間凌本人だった。どこか焦点の合わない虚ろな目で、ぼんやりとこちらを見ている。
彼の顔を見た瞬間に、胡桃の心はふわふわと羽根のように浮き上がった。今すぐ全力で抱きつきたい気持ちをぐっと堪えて、胡桃はニッコリ笑ってみせる。
「佐久間さん、おかえりなさい! わたし、ずっと佐久間さんのこと待ってたんですよ」
「……」
佐久間は何も言わず、黙って胡桃のことを見つめたままだ。なんだかぼうっとしているようだが、よほど疲れているのだろうか。
しばしの沈黙のあと、佐久間が腰を屈めて、ずいっと鼻先を寄せてきた。少し伸びた黒髪が、胡桃の頬をくすぐる。驚くほど近くに彼の顔があって、胡桃の心臓はどきどきと高鳴る。ややあって、彼がポツリと呟いた。
「……甘い匂いがするな」
「へ!? あ、はい! そ、そうだ、お菓子作ったんです。よかったら、食べ」
食べてください、と胡桃が言い終わる前に、ふいに腕を掴まれて強く引かれた。あっと思う間もなく、胡桃は彼の胸の中に抱きしめられる。
「……!? さ、さ、さ、佐久間さん!?」
ぎゅう、と背中に回された腕に力がこもる。力が強くて、ちっとも身動きが取れない。顔を埋めた黒のニットからは、ほのかな香水と煙草の匂いがする。バクバクとうるさい心臓の音は、胡桃のものなのだろうか、それとも佐久間のものなのだろうか。すり、と彼の頬が胡桃の髪に擦り寄せられる。
「……会いたかった」
耳元で低い声で囁かれて、へなへなと腰が抜けそうになる。全身の血液がすごい勢いで巡り出して、発火するんじゃないかってぐらいに身体が熱くなる。
(……あの、佐久間さん。そ、それって……どういう意味ですか!?)
胡桃は彼の背中に手を伸ばして、おそるおそる抱きしめ返そうとする。わたしも会いたかったです、と言いかけたところで――佐久間が胡桃の両肩を掴んで、勢いよく身体を引き剥がした。真剣な表情で、まっすぐにこちらを見据えたまま言い放つ。
「……この十日間。きみの作ったお菓子が食べられなくて、死にそうだった!」
「……は、はぁ!?」
(もしかしなくても……会いたかった、のは、わたしじゃなくてお菓子の方!?)
最初からわかっていたことだけれど――やはり彼は、胡桃の作ったお菓子以外に興味はないのだ。期待した自分が恥ずかしくて情けなくて、それ以上に腹が立つ。
「頼むから、何か食べさせてくれ。もう限界だ」
「……このっ……佐久間さんの、スイーツバカ!」
胡桃は怒りに任せて、間近にある彼の両頬を全力でつねる。それから思い切り舌を出して、もう一度「バカ!」と罵倒してやった。
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