12.美女とキャラメルカヌレ(3)
何度も訪れた佐久間の部屋は、家主がそこにいないだけで妙なよそよそしさを感じた。
いつも彼が仕事をしているデスク周りは綺麗に片付いており、リビングにあるローテーブルの上に見覚えのないノートパソコンが広げられていた。もしかすると、杏子のものだろうか。
「やっぱりラム酒が香るカヌレには、キームンのミルクティーよねぇ」
杏子は勝手知ったる様子でキッチンに立ち、アンティークのティーセットを用意して紅茶を淹れてくれる。ニコニコしながらティーカップを置いた杏子に、胡桃はおずおずと尋ねた。
「あの……杏子、さん……ですよね」
「あ! たしかに自己紹介がまだだったわね。わたしの名前、凌から聞いたの?」
「は、はい」
「凌の従姉の佐久間杏子です。普段はパリに住んでるんだけど、今はたまたま帰国してるのよー」
そういえば、仕事で外国に行っていると聞いた気がする。家主がいなくても平気で部屋に入って、平然と客を招き入れてお茶を出すような間柄なのか。佐久間(凌の方だ)と彼女のことが、ますますわからなくなる。
「せっかく来たのに凌がいないなんて、タイミング悪いわねぇ。でもそのおかげで胡桃ちゃんのカヌレが食べられるなら、むしろタイミングが良かったのかしら?」
杏子はそう言って、頬にエクボを浮かべて笑う。胡桃よりはいくらか歳上なのだろうが、ずいぶんと可愛らしいひとだな、と思った。ほぼ初対面であるものの、胡桃は早くも彼女に好感を抱き始めている。
「それにしても胡桃ちゃんのカヌレ、見た目の時点で完璧だわ! お味は何かしら?」
「き、キャラメルとバニラです」
「いいわね、どちらも大好きよ。じゃあさっそく、冷めないうちにいただきましょう。カヌレは焼きたてに限るものね!」
「あ、はい。どうぞ、召し上がれ」
杏子は「いただきまぁす」と微笑んだのち、カヌレにフォークを突き刺し、上品な仕草で口に運ぶ。その瞬間に、ふにゃっと幸せそうに綻んだ表情を見て、(このひとは間違いなく佐久間さんの血縁だ)と思った。自分の作ったものを美味しそうに食べてくれるひとの顔を見るのは、やはり良いものである。
「うーん! 外がカリカリで、中がモチモチしっとり! バターのコクとラム酒の香りも、キャラメルに負けずにしっかり感じるわねぇ」
「あ、ありがとうございます」
「あら、バニラの方もとっても美味しい! 芳醇で贅沢な味わいだわぁ」
うんうんと頷きながら感想を述べる杏子に、胡桃はホッと胸を撫で下ろした。自分の作ったものを誰かに食べてもらうのは、いつになっても緊張するものだ。特に、ほとんど知らないひとならなおさらだ。
胡桃も自分の皿に乗ったキャラメルカヌレにフォークを突き刺して、一口齧る。杏子の言う通り、カリカリモチモチの食感が絶妙だ。この食感を出すのが意外と難しいのだけれど、上手に出来て良かった。
「杏子さんも、甘いものお好きなんですね」
「ええ、大好き! あ、でも凌ほどではないけど……あれはちょっと異常よ。小さい頃は、お菓子屋さんと結婚するって言ってたぐらいなんだから」
「あ。その話、聞いたことあります。可愛いですよね」
「あらまあ。……あの男を平然と〝可愛い〟呼ばわりするひと、なかなかいないわよ」
「そ、そうですか? 可愛いと思うんですけど……」
杏子の指摘に、胡桃は首を捻る。胡桃は佐久間のことを頻繁に「可愛い」と感じるのだが、もしかすると一般的な感覚ではないのだろうか。普段ムスッとしているぶん、嬉しそうにお菓子を食べていたり照れていたりするところは、それはそれは可愛いのだけれど。
「胡桃ちゃんは、凌とどういう関係なのかしら?」
紅茶の入ったティーカップを傾けた杏子は、悪戯っぽく微笑んだ。美女に微笑みかけられたことと、佐久間との関係を尋ねられたことで、胡桃の心臓は二重の意味でどきりと跳ねる。
「え、えーと、その……さ、佐久間さんとは、こ、恋人とかじゃなくて……た、ただのお隣さん……なんですけど」
「うんうん」
「……でも、わ、わたしは……佐久間さんのこと、す、好きなんです!」
……思っていたよりも、大きい声が出てしまった。
口に出した途端に恥ずかしくなって、真っ赤な顔で俯いてしまう。フォークでカヌレをつついていると、杏子は「可愛い〜!」とはしゃいだ声をあげた。
「あんな可愛げのない偏屈な男のどこがいいのかしら!? でも、全力で応援しちゃう! 胡桃ちゃんみたいな子が身内にいたら、美味しいお菓子食べ放題だもの!」
応援してもらえるのはありがたいけれど、結構私欲が強めな理由だ。胡桃はバニラカヌレを一口食べたあと、杏子に向かって尋ねる。
「あの……杏子さんと、佐久間さんの関係は……」
「あら、わたしのことは気にしないで! 凌とは小さい頃からずっと一緒に暮らしてきたから、姉弟みたいなものなのよー」
「そうなんですか……」
どういう事情で一緒に暮らしてたのかな、と思ったけれど、佐久間本人のいないところで、あれこれ詮索する気にはなれなかった。そういえば胡桃は、佐久間の家族のことを――いや、それ以外のプライベートな話も、ほとんど聞いたことない。いつも自分の話をするのは胡桃ばかりで、彼は自身のことをちっとも教えてくれなかった。しょせん胡桃は彼にとって、ただのお隣さんに過ぎないのだ。
結局杏子は、胡桃が持ってきたカヌレをぺろりと平らげた。佐久間が食べると思って多めに持ってきたのだが、彼女もなかなかの健啖家らしい。満足げに紅茶を飲む美女は、どう見ても胡桃よりスレンダーだ。摂取したカロリーがどこに消えているのか不思議で仕方ない。
「ごちそうさまでした! 本当に美味しかったわ」
「よかったです」
「凌があなたに入れ揚げるのもよくわかるわねぇ。うふふ、めんどくさい男だけど頑張ってね!」
「は、はい!」
「またわたしが帰国してきたときに、一緒にパティスリー巡りしましょう! そうだわ、一応連絡先渡しておくわね」
杏子はそう言って、質の良さそうな皮のカードケースから名刺を一枚取り出した。両手でそれを受け取った胡桃は、しげしげと肩書きと名前を確認して――
[パティスリー
そこに並んだ文字列の意味を理解した瞬間、胡桃はヒイッと息を呑む。全身から、さーっと血の気が引いていくのを感じた。
「……アッ……アドリエンヌの、オーナー!?」
「あら、ご存知? 光栄だわぁ」
素っ頓狂な声をあげた胡桃に、杏子はのほほんと呑気な笑みを浮かべる。
ご存知どころの話ではない。アドリエンヌといえば、都内でも五本の指には入る超人気パティスリーだ。完全予約制のテイクアウト専門店で、決して安くはない価格帯にも関わらず、予約は常に一年先まで埋まっている。胡桃も一生に一度は食べてみたいと思いつつも、ついぞ口にしたことがなかった。
(……わたしっ……よりにもよってアドリエンヌのオーナーに、手作りのカヌレ食べさせたの!?)
かあっと体温が急上昇して、全身の毛穴という毛穴から妙な汗が吹き出す。穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。胡桃は両手で顔を覆って、へなへなと床にへたり込む。
「あ、アドリエンヌのオーナーに、こ、こんな、どこの馬の骨とも知れない素人のカヌレを……」
「ちょっ、ちょっと胡桃ちゃん!」
杏子が慌てたように駆け寄ってきて、胡桃の腕を引いて立たせる。恥ずかしさと申し訳なさが極まって、胡桃はもはや半泣きになっていた。
「……だ、誰かわたしを殺してください……」
「お、落ち着いて胡桃ちゃん。と、とりあえず、座りましょう。ねっ?」
小さな子どもを宥めるような口調で、杏子は胡桃をダイニングチェアに座らせる。胡桃は両手で顔を覆ったまま、テーブルに突っ伏して動けなくなっていた。
(そんな、そんな、そんなこと……! 佐久間さん、一言も言ってなかった!)
わかっていたら絶対に、手作りのお菓子を食べさせるなんてことはしなかったのに。佐久間さんのバカバカ、とここにはいない男を全力で罵倒する。
打ちひしがれる胡桃の背中を撫でながら、優しい声で杏子は言った。
「わたしは普通のひとより、舌が肥えている自覚があるけれど……あなたの作ったカヌレは、お世辞抜きでとっても美味しかったわ。それは本当に、誇ってもいいことよ」
半分ぐらいは、慰めもあるのだろうけど――まったくの出鱈目でもないのだろうな、という口調だった。胡桃がやっとのことで顔を上げると、ニコッとエクボを見せて笑ってくれる。
「驚かせちゃって、ごめんなさいねぇ。まさか、そんなにショックを受けるとは思わなくて」
「……お菓子作りを多少なり嗜んでる人間なら、誰でもショックだと思います……」
「それだけあなたが、お菓子作りに対して真摯っていうことよね。素敵なことだわぁ」
杏子はうんうんと頷いて、胡桃の隣に腰を下ろす。ようやく気持ちが落ち着いてきた胡桃は、はーっと深い息を吐いた。
「……まさか佐久間さんの従姉が、アドリエンヌのオーナーだったなんて……」
「うふふ。わたし、作る方はからきしなんだけど……お菓子が好きすぎて、せっかくなら自分がお菓子屋さんを経営しちゃおう! と思って」
発言だけを切り取るならば、お菓子屋さんと結婚したい、と言っていた佐久間と同レベルだが、それを実現して成功させている彼女が凄い。凄すぎる。のほほんと笑っている美女が、急に畏れ多い存在に思えてきた。
いつのまにか、時刻は23時を回っていた。胡桃が「そろそろ帰ります」と言うと、杏子が玄関まで見送りに来てくれる。
「今日はありがとう。これに懲りずに、また胡桃ちゃんのお菓子食べさせてね」
「は、はい……で、でも……杏子さんほどのひとなら、もっと凄いパティシエの作ったお菓子たくさん食べられるんじゃ……」
アドリエンヌはきっと、精鋭のパティシエを何人も抱えているはずだ。わざわざ胡桃なんかに頼まなくても、もっと美味しいものがいくらでも食べられるだろうに。
「それは、そうだけど。でもねぇ、たまには素朴な手作りお菓子が食べたくなるものよ。誰かが自分のために作ってくれたお菓子ほど、美味しいものはないからね」
「……そう、なんですか?」
「そうよ! だからこそ、凌はあなたを手放したくないんでしょうね。自分だけのために美味しいお菓子を作ってくれるお隣さん、だなんて――わたしも欲しいぐらいだわぁ」
「へ」
「そうだわ! このままトランクに入れて、パリに連れて帰っちゃおうかしら!」
胡桃がキョトンとしていると、勢いよく抱きつかれて、頬に唇がぶつかった。生粋のジャパニーズである胡桃は、欧米式の挨拶に免疫がない。
突然の美女からのキスに、胡桃は真っ赤になって慌てふためく。杏子は「でもそんなことしたら、きっと凌に怒られちゃうわねぇ」と、のほほんと笑った。
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