11.美女とキャラメルカヌレ(2)

 水羽と別れて帰宅した胡桃は、まず一番に隣の部屋の電気が点いているかを確認した。電気は消えてカーテンは閉まったままで、佐久間は未だ帰ってくる気配がない。


(佐久間さん、早く帰って来ないかな……)


 まだたったの一週間だというのに、彼に会いたくて仕方がない。しばらく顔を合わせないことなんて、今までだってあったはずなのに。

 ベッド脇にある棚の上に、佐久間のサイン本と、クリスマスプレゼントのアイシングクッキーが並べて置いてある。腐る前に食べるつもりはあるけれど、アイシングクッキーの賞味期限ってどのぐらいなのかしら。ダメになってしまう前に、帰って来てくれたらいいのだけれど。

 佐久間のいない寂しさを吹き飛ばすように、胡桃はカヌレを作りに取り掛かった。キャラメルとバニラの、二種類作ることにしよう。


 まずはキャラメルクリームからだ。砂糖とほんの少しの水を鍋に入れて、火にかける。このときに触ると砂糖が結晶化して固まってしまうため、軽く鍋をゆする程度にしておく。そのあいだに、生クリームを電子レンジであたためておく。熱々の砂糖の中に入れるため、できるだけ温度を近づけておくのだ。

 砂糖水がカラメル色になったところで、生クリームを半分投入すると、もくもくと煙が出てくる。馴染んだら火を止めて、残りの生クリームを入れる。少し火にかけて全体を均一にしたら、キャラメルクリームの完成だ。

 次に、カヌレの生地作り。小鍋をふたつ用意して、ひとつには牛乳とバターとバニラペースト、もうひとつには牛乳にバターのみを入れて、60℃に温める。先ほど作ったキャラメルクリームを、バニラが入っていないほうの牛乳に溶かす。

 振るっておいた薄力粉、強力粉、グラニュー糖の中に牛乳を入れて、優しく混ぜる。卵白をちょっぴりと、卵黄を入れて混ぜる。そして、そのあとラム酒をたっぷり!

 完成した生地を漉しながら容器に入れると、冷蔵庫で半日以上寝かせる。焼くのは明日になってからだ。


(美味しく、できるかなあ……)

 

 膝を抱えて目を閉じて、ぎこちなく頭を撫でる温かな手の感触を思い出す。せっかく作ったカヌレを、食べてもらえるひとがいないのは悲しいことだ。佐久間に出逢うまでは、自分一人でお菓子作りを楽しめれば、それで充分だったはずなのに。


(わたし、いつからこんなに贅沢になっちゃったんだろう……これも全部、佐久間さんのせいだ……)

 

 佐久間があまりにも幸せそうに、胡桃の作ったものを食べてくれるから。いつのまにか胡桃は、彼なしでは生きられなくなっていた。

 胡桃の作ったキャラメルカヌレを、美味しいと言って食べる隣人の顔を想像してみる。早く帰って来て、と呟いた声は、一人きりの部屋に寂しく響くだけだった。




「夏原先輩。わたし、そろそろ昼行ってきます」

「いってらっしゃい。私はまだこの仕事が片づきそうにないので、お先にどうぞ」

 

 翌日、昼休み。胡桃はお弁当を持って、いそいそと営業課のフロアを出て行った。

 最近は、社内の食堂には行かず、会社の近くにある公園で昼食を食べることが多い。今の季節だとかなり寒いけれど、不愉快な視線に晒されるよりはマシだ。妙な噂には尾ひれと背びれに尻尾まで生えてきて、どうやら今は〝糀谷胡桃は妻子持ちの男と不倫している〟ということになっているらしい。ふん、言いたいだけ言うがいいわ。


 エレベーターの前で、水羽と前川梢絵が話しているのが見えた。梢絵はやけに嬉しそうに、水羽の肩を叩いてはしゃいでいる。やはり梢絵は水羽に好意を抱いているのだろうなと、一目見てわかった。


(うわっ、タイミング悪い……)


 お邪魔にならぬようにと、できるだけ気配を消して身体を縮こまらせていたのだが、運悪く水羽に見つかってしまった。胡桃を見るなり、ぱっと表情を輝かせる。


「あっ、糀谷さん!」

「……お、お疲れさまです」

「あら、糀谷ちゃん。お疲れさま」


 いつもは胡桃のことを完璧に無視する梢絵が、にこやかに挨拶を返してくる。胡桃は今すぐこの場から逃げ出したくなった。


(前川先輩の笑顔、怖い……! 普段〝糀谷ちゃん〟なんて呼び方しないくせに!)


 胡桃が内心震え上がっていると、水羽がポンと胡桃の肩に軽く手を乗せて言った。


「前川。こないだ言ってた、糀谷さんの変な噂のことなんだけど」

「え……え!?」


(み、水羽主任……! それ、今、この状況で言います!?)


 胡桃は目を白黒させながら、口をぱくぱくさせることしかできない。梢絵は眉を下げて、痛ましそうな表情で「ああ、あの話……」と頷いた。


「……香西くん、良くも悪くも目立つひとだから……噂になっちゃって、大変よね。あ、私は全然信じてないんだけど!」


 よく言うよ! と言いたくなるのをぐっと堪える。うるうると潤んだ瞳で水羽を見上げる梢絵は、いつも胡桃に見せる顔とは別人のようだ。


「それならよかった。根も葉もない噂だからさ、俺もちゃんと否定しとくけど……前川もよかったら、糀谷さんのこと気にかけてやって」

「……ええ、もちろん。可愛い後輩だもんね」


 梢絵はニコリとそう答えたけれど、瞳の奥は少しも笑っていない。胡桃は恐れ慄きながら、引き攣り笑いを浮かべることしかできない。思わず後退りした胡桃の手を握って、まるで女神のような顔で微笑む。


「何かあったら、すぐに相談してね」


 この場に流れる空気を察する様子もなく、水羽は「やっぱ前川は頼りになるな」と満足げに笑った。

 ……彼はどうやら、悪気なく火に油を注いでダイナマイトを投げ込むタイプらしい。ただでさえ居心地が悪いというのに、また新たな胃痛のタネができてしまった。親切のつもりなのだろうが、彼が口を出せば出すほど、胡桃の立場は悪くなるばかりだ。

 こちらを睨みつける梢絵の目が、「またそうやって男を盾にしやがって」と無言で訴えている……ような、気がする。絶対零度の視線に耐えながら、胡桃は自宅の冷蔵庫で眠るカヌレのことを考えて、必死で心を落ち着けていた。




 自宅マンションに帰りつくなり、佐久間の部屋の電気が点いていることを確認した胡桃は、その場で飛び跳ねてバンザイしそうになった。


(佐久間さん、帰って来てる! やったー!)


 今すぐ突撃したい気持ちをグッとこらえて、ひとまず自分の部屋へと戻る。

 本当はすぐにでも会いたいけれど、手ぶらで彼の元に行くわけにはいかない。予定通り、カヌレを焼くことにしよう。カヌレが完成するタイミングで帰ってくるとは、やはり彼はタイミングの良い男だ。


 寝かせておいた生地を冷蔵庫から出して、常温に戻す。そのあいだに、簡単に晩ごはんを済ませておく。常温に戻ったら、ゴムベラで生地を均一に馴染ませるように混ぜたあと、オイルスプレーを振ったカヌレ型に注ぐ。230℃に予熱しておいたオーブンで20分、それから170℃に下げて40分焼く。

 焼き上がったら10分ほど放置したあと、逆さまにして型から取り出せば、釣り鐘状の可愛らしいカヌレの完成だ。


(カヌレは絶対、焼き立てに限る! すぐに佐久間さんに持って行こう!)


 胡桃は鼻歌混じりに部屋を出る。隣の部屋のインターホンを押して、ソワソワと前髪を直しながら扉が開くのを待つ。

 ややあって、開いた扉から顔を出したのは――ツヤツヤしたショートボブの、垂れ目の美女だった。


(……さっ、佐久間さんじゃ……ない!)


 予想外の出来事に、胡桃はその場で硬直する。たしか彼女は、以前見かけた佐久間の従姉――名前は、杏子きょうこ、だったはずだ。彼女は胡桃を見て、「あらあらぁ」と眉を下げて首を傾げる。


「せっかく来てくれたのに、ごめんなさいねぇ。凌、まだ帰ってないみたいなのよー」

「え、あ、あの、わ、わたしっ……」

「まあ、とっても美味しそうなカヌレ! もしかして、あなたが噂の糀谷胡桃さんかしら?」

 

 杏子は胡桃の顔をじっと見つめて、ニコニコと感じの良い笑顔を浮かべている。胡桃は無言のまま、こくこくと頷いた。


「お菓子作りが得意なお隣さんがいるって、凌と大和くんから聞いてたのよー! わたしも一度、食べてみたいと思ってたの!」

「は、はあ……」

「凌もいないことだし……そのカヌレ、私がいただいてもいいかしら?」

「え? ええ、も、もちろん……」

「ありがとう! じゃあ入って。すぐに美味しい紅茶を淹れるわね!」


 美女はそう言うと、胡桃の手を引いて中に入れる。おっとりとした風情だが、どこか逆らえないような不思議な強引さがある。やはり佐久間の血縁なのだな、と胡桃は妙に納得してしまった。

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