10.美女とキャラメルカヌレ(1)

 週の真ん中、水曜日の夜。胡桃がお風呂上がりにリビングでだらだらしていると、ピンポーン、とインターホンが鳴った。

 もしかして注文していた製菓材料が届いたのかも、と思った胡桃は、ウキウキと玄関に向かう。よく使う粉類やバター、ナッツ類などは、ネット通販でまとめ買いすることにしている。最近は、佐久間が材料費を負担してくれるようになった。お金はいらないと何度も言ったのだが、「さすがに割に合わない」と突っぱねられたのだ。

 胡桃が「はーい」と威勢良く扉を開けると、そこに立っていたのは筑波嶺大和だった。


「胡桃さん。こんな時間にすみません。あけましておめでとうございます」

「あ、おめでとうございます」


 礼儀正しく頭を下げた大和につられるように、胡桃も頭を下げる。そういえば、年が明けてから大和に会うのは初めてだ。もう一月も半ばを過ぎたけれど、新年の挨拶っていつまでしないとダメなのかしら、と胡桃は思う。


「どうかされたんですか?」


 大和が胡桃を訪ねてくることなど、これまでに一度もないことだ。まさかまた佐久間が行方不明になったのだろうか、と心配になる。

 不安げな胡桃に、大和は苦笑いを浮かべて、「いやあ」と頭を掻いた。


「実は、佐久間先生の進捗があんまり良くなくて。このまま失踪されてもマズイので、〝原稿が完成しないと出られない部屋〟に閉じ込めることにしました」

「?」

「……要するに、原稿が完成するまでホテルにカンヅメです」

「わっ。そんなことって本当にあるんですね……」

「まあ、佐久間先生の場合は特殊例というか……あのひと、目離したらフラッと死にそうだからなあ」

「し、死……!?」


 何気ない大和の言葉に、胡桃は息を飲む。たしかに佐久間には浮世離れしたところがあるけれど、彼がこの世からいなくなるなんて、想像したこともなかった。

 大和は青ざめている胡桃に気が付いたのか、「いや、ほんとに死なないとは思いますよ。たぶん」と慌てたようにフォローを入れた。


「とにかく、しばらく佐久間先生は留守にしますから。一応胡桃さんにも、伝えておこうと思って」

「あ、ありがとうございます……」

「僕も、お二人のことを引き離すのは本意ではないんですが……まあ、会えない時間が愛育てるって言いますし」

「はあ……?」

「それじゃ、よろしくお願いします。佐久間先生のこと、心配しないでくださいね」

「は、はい」


 胡桃は大和を見送ると、扉を閉めて自分の部屋に戻る。ベランダに出て隣の部屋を確認すると、やはり電気が消えていた。きっともう、大和に連行されたあとなのだろう。


(あーあ、しばらく佐久間さんいないのか……)


 ということは、お菓子を作っても食べてくれるひとがいないということである。しばらくって、一体いつまでだろう。胡桃は溜息をついてリビングに戻ると、ごろんとベッドの上に寝そべった。


 


 佐久間がいなくなってから、一週間が経った。

 一時間ほど残業をしてから会社を出た胡桃は、地下鉄の駅についておやと思った。妙に人が多く、ざわついている。電光掲示板を見ると、どうやら人身事故により電車の運転見合わせが発生しているようだった。


(ええ……帰ってお菓子作りたかったのに……)


 胡桃はがっくりと肩を落とした。ここ数日は佐久間がいないためお菓子作りを我慢していたのだが、そろそろストレスを発散しないと限界が近い。今日は絶対、キャラメル味のカヌレを作ろうと思っていたのだ。

 ここで運転再開を待つか、少し歩いて別の路線で帰るべきか。胡桃は考える。帰宅ラッシュの時間帯だし、運転再開直後はきっと混雑するだろう。遠回りにはなるが、別の路線で帰宅した方が早くて安全かもしれない。

 JRの駅まで歩こうかな、と胡桃が踵を返したところで、背後から声をかけられた。


「あれ、糀谷さん?」


 振り向いてみると、営業一課の主任である水羽みずは直樹なおきが立っていた。仕事終わりだろうに疲れた様子もなく、パリッとしたスーツ姿で爽やかなオーラを振りまいている。


「お疲れさまです。水羽主任も地下鉄ですか」

「そうなんだ。運転再開まで待とうか悩んでたとこ。糀谷さんは?」

「わたし、JRの駅まで歩こうと思います」

「じゃあ俺もそうしよ。ご一緒していい?」

「は、はい」


 断り切れずに頷いたが、正直なところ(誰かに見られたらまずいかな)という気持ちはあった。水羽の同期である前川梢絵は、彼のことを憎からず思っている雰囲気があるし、これ以上彼女を敵に回すのは避けたい。

……まあ、並んで歩くぐらいなら問題はないだろう。小学生の男女じゃあるまいし。

 エスカレーターに乗って地上に出て、水羽と二人で駅まで歩く。10分ぐらいは歩くから、ぺたんこのパンプスを履いて来て正解だった。

 すっかり陽の落ちたビジネス街は昼間とは違う顔で、建ち並ぶビルの窓からこぼれ落ちる灯りが星屑のように散らばっている。隣を歩く水羽は、やけに上機嫌にニコニコしていた。


「糀谷さんとゆっくり話すの、久しぶりだね。早く帰れた日に限って電車止まるなんて最悪、って思ったけど、逆にラッキーだったかも」


 そう言って目配せをしてくる水羽に、(出た! 天然タラシ!)と胡桃は心の中で叫ぶ。

 この爽やかなイケメンは、非常に穏やかで善良な先輩ではあるのだが、女性に対して誤解を招きそうな言動が多いのが玉に瑕だ。

 

「あ。そういえば、このあいだ借りた本……まだ読めてないんです。寝る前に読もうと思ったら、怖くて眠れなくなりそうで」


 佐久間諒の大ファンである水羽とは、佐久間の作品をきっかけによく話すようになった。このあいだは別の作家の本を借りたのだが、ホラー的な表現がかなり強く、夜一人で読む気にはなれなかった。今は佐久間もいないのだから、眠れない夜にお菓子を持って突撃する相手もいない。


「いやいや。佐久間諒が好きなら……と思ったんだけど、ちょっとタイプが違ったかな。サイコホラーが好きなわけじゃないんだね」

「そうですね……あんまり怖いのは苦手かも。でもその前に貸してもらった本は、グロいけど爽快感があって面白かったです」

「もうちょっとエンタメに振り切った作品の方がいいのかな。またオススメ探しておくよ」


 水羽が勧めてくる本はどれもとびきり悪趣味でグロテスクでナンセンスで、読むと心底嫌な気分になる作品が多い。しかし、胡桃自身も今まで気が付かなかったが――胡桃はどうやら、そういった作品が嫌いではないようだ。


「いろいろ押し付けてごめんね。糀谷さんと好きな本の話できるのが嬉しくて」

「いえ、全然」

「もし夜眠れなくなったら、俺に電話してくれたらいいから」

 

 水羽は冗談めかして言ったが、ただの先輩にそんなことができるはずもない。胡桃は「あはは」と曖昧な笑みを返すにとどめておいた。

 隣を歩く水羽は、チラリと胡桃の方を窺って、またすぐに視線を前に戻す。やや言いづらそうに口籠ったあと、「あの、さ」と切り出した。


「……最近、変な話聞いたんだけど……」

「変な話?」

「……その、糀谷さんと……技術課の、香西の話」


 水羽の言葉に、胡桃の心臓が嫌な音を立てた。ぴたりと足を止めると、俯いて下唇を噛み締める。

 社内に噂が広まっているのだから、彼の耳に入っていてもおかしくはないけれど――やっぱりみんな知ってるんだ、とあらためて落ち込んだ。これまでと変わらない様子で胡桃と接してくれる営業二課の面々も、内心では胡桃のことを軽蔑しているのかもしれない。


「……わたしが、彼女のいる香西さんに無理やり迫って別れさせたって話ですか」

「いや、俺は信じてないよ。ただ、前川が……あ、俺の同期なんだけど、そういう話があるって言ってたんだ。根も葉もない噂だったら、ちゃんと否定しておくから」

 

 水羽にどこまで話すべきか、胡桃は迷った。胡桃の顔を覗き込んだ水羽は、気遣わしげな表情を浮かべている。

 きっと彼は本当に噂を信じていなくて、胡桃のことを心配してくれているのだろう。胡桃はやや躊躇しつつも、正直に話すことにした。


「……わたしが彼に告白して、付き合ってたのは本当です。でもわたし、あのひとに恋人がいるって知らなくて……要は、遊ばれてたんですよね」

「……は!? なんだよ、それ!? 酷い話だな。俺、香西の奴にガツンと……」

「いえ、大丈夫です。もう話がついてることなので。言いたいことは言ってやったし」


 怒りを露わにする水羽を、胡桃はやんわり嗜める。これ以上関わりたくないのが本音だし、あの男のことで神経を擦り減らすのはごめんだ。

 気丈な笑顔を取り繕った胡桃に、水羽は痛ましそうに眉を寄せる。なんだか泣き出しそうな表情を浮かべた彼は、ガシッと胡桃の両肩を掴んだ。思いのほか強い力だったので、胡桃は思わず一歩後退りする。


「糀谷さん!」

「あ、は、はい」

「……これから何かあったら、すぐ言って。俺……絶対、糀谷さんのこと守るから」


(……守るって、何から? いったいどうやって?)


 一人で盛り上がっている水羽に、胡桃はキョトンと首を傾げる。熱のこもった視線で見つめてくる男に、なんだか余計に面倒なことになってないかしら、と胡桃は冷や汗をかいた。

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