07.ゆううつマドレーヌ(1)

 年末年始の休みを、胡桃は実家でのんびりと過ごした。佐久間がどうするのかは訊かなかったが、締切が近いと言っていたし、おそらくマンションで仕事をしているのだろう。作家さんにはお正月休みがなくて大変だな、と思う。


 胡桃はぬくぬくとコタツに入ってミカンを剥きながら、テレビの向こうでサッカーボールを追いかける高校生を眺めていた。呑気に「寒いのに頑張ってるなあ」などと思う。こんなひたむきな青春は、胡桃の学生時代には存在しなかった。


「胡桃アンタ、そういえば例の彼氏とはどうなったの」


 一緒にコタツに入ってテレビを見ていた母が、突然尋ねてきた。そういえば去年までは恋人の話を家族にもしていたが、今年はまったくその話題に触れなかった。胡桃は唇を尖らせて答える。


「とっくに別れたよー、そんなの」


 本当は、こんな一言で済ませられるような別れ方ではなかったけれど。母に余計な心配をかけたくないし、ろくでもない男だった、ということは伏せておくことにしよう。

 母は丁寧にミカンを剥きながら「あら、そうなの」と目を丸くした。あまり派手さのない素朴な顔は、胡桃に似ているとよく言われる。胡桃も鏡を見るたび、年を重ねるほどに母に似てくるな、と思う。

 

「そろそろ結婚するかと思ってたのに」

「いやー……しばらくはたぶん、ないと思う……」


 結婚、と聞いて。胡桃の頭に浮かんだのは佐久間の顔だった。彼のことは好きだけれど、恋人同士になったり、ましてや夫婦になったりしているところは、あまり想像できない。

 そもそも佐久間さんって性欲あるのかしら、と胡桃は考える。クリスマスイブの夜に二人きりで、積極的にアプローチを仕掛けてみても、佐久間にはいっこうに響いていなかった。胡桃の魅力不足、と言われればそれまでなのだが――女性ではなく甘いお菓子に興奮するヘキである、と言われても驚かない。


「まあ今の時代結婚しなくても、いろんな生き方があるからね」


 母は深く追及することなく、さっぱりとそう言った。結婚を急かされなかったことにホッとしたが、果たして本音はどうなのだろうか、と不安になる。やはり親としては、孫の顔が見たいものなのかもしれない。


(……いろんな生き方、かあ……)


 これからも会社の中の小さな歯車として、ぐるぐると回っていく――それ以外の生き方なんて、佐久間に出逢うまでは想像したこともなかったのに。


「おーい、胡桃! ちょっとこっちに来てくれ」


 ぼんやりと物思いに耽っていると、自宅に併設されている店のキッチンから、父の声が聞こえてきた。のそのそとコタツから這い出した胡桃は、半纏を羽織ってキッチンへと向かう。


 胡桃の実家は、二年前まで〝ko-jiya〟というお菓子屋さんを営んでいた。パティスリーというほど洒落たものではない、洋風の焼き菓子を中心とした小さな店だ。

 父と母が結婚して以来、地元の人間に支えられながらほそぼそと続いてきたのだが、父が腰を痛めてキッチンに長時間立っていることが辛くなり、常連さんに惜しまれつつも店を畳むこととなった。ちなみに、佐久間はko-jiyaのフィナンシェが世界一好きだったらしい。

 バターの甘い香りが漂う真冬のキッチンには、エアコンのスイッチが入っておらず、凍えるような寒さだったが、驚くことに父は半袖姿だった。胡桃は手を擦り合わせながら「寒くないの!?」と叫ぶ。父は厳しい顔でむすりと答えた。


「暖房を入れると生地の温度が変わるだろうが。そんなこともわからんのか」

「わかってるけど……じゃあ、せめて長袖着てよ。見てるだけで寒いよお」

「オーブンの熱があるから、そんなに寒くない」


 胡桃も一人暮らしのマンションでお菓子を作るときは、生地の温度に気を遣って暖房は切ることが多い。が、決して寒くないわけではないのだ。プロのパティシエになると、寒さも気にならなくなるのだろうか。


「そんなことより胡桃、ちょっと食ってみてくれ」


 父はそう言って、ケーキクーラーの上に乗ったマドレーヌを差し出してきた。胡桃は「美味しそう!」とはしゃいだ声をあげる。


「これ、どうしたの」

「ヤスダさんちの長男が結婚するらしくてな。内祝いのお菓子を頼みたい、と言われた。その試作品だ」

「へー、マナブくん結婚するんだあ」


 ぴったりと合わさる二枚貝を模ったマドレーヌは、結婚式のお祝いにぴったりだ。店を畳んだ今も父は、かつての常連さんからの依頼には細々と答えているらしい。キッチンには埃ひとつなく、あちこちピカピカに磨き上げられていた。


「味見して、感想を聞かせてくれ。母さんはもう飽きたと言って、ちっとも食ってくれんのだ」

「はいはあい。いただきまーす」


 焼き立てのマドレーヌをひとつ掴んで、そのままぱくりと齧りつく。外側のカリッとした食感のあと、すぐにふわふわの生地が口いっぱいに広がる。優しいバターの風味が絶妙で、ほのかなハチミツの甘さはどこか懐かしさを感じさせる。もう一口食べて、うっとりと目を細めた。


「……美味しい!」

  

 あらためて父の作ったお菓子を食べると、こんなに美味しいものだったのか、と驚かされる。悔しいけれど、胡桃の作ったものとは比べ物にならない。


「何でこんなにシンプルな材料と工程なのに、味に違いが出るんだろ……やっぱ温度と湿度かな? ねえねえ、生地はどのくらい寝かせてるの?」

「そんなこと、聞いてどうするんだ」

「自分で作ってみるの」


 きっと佐久間も、父の作ったマドレーヌを食べたがるだろう。まったく同じものは無理でも、少しでも近いものを再現して食べさせてあげたい。

 

「……素人に教えるようなものじゃない」

 

 しかし父は怖い顔をして、胡桃をぴしゃりと突っぱねた。

 昔は熱心にお菓子作りを教えてくれたけれど、胡桃が就職して以来、父はぱたりと指導をしてくれなくなったのだ。父は一言も「店を継いでほしい」とは言わなかったけれど、もしかすると期待していたのかもしれない。


(……お父さん……わたしが店継がないってわかったとき、がっかりしたのかな……)


 そんなことをつらつら考えていると、父が焦れたように言う。


「そんなことより、どうだ。感想を教えてくれんか」

「あ、うん……味はものすごく美味しいよ。でも結婚の内祝いだったら、もっと見た目が可愛くてもいいんじゃないかな。もうちょっと小さめにして、ピスタチオとかイチゴとかのフレーバーの、カラフルなやつをいっぱい詰めるの」

「……ふむ。考えてみるか」


 父はそう言って、再び作業に取り掛かり始めた。寒さを吹き飛ばすような、熱のこもった真剣な眼差しは、胡桃とは違うプロの目だ。


「……無理、しないでね。腰痛いんでしょ」

「この程度、どうってことはない。こんな寒いとこにいつまでもいないで、さっさと戻らんか。仕事の邪魔だ」


 しっしっと片手を振って追い払われて、胡桃は渋々キッチンから出て行った。本当は父の作業をもっと見ていたかったのだけれど、邪魔をするのは本意ではない。つきっきりでお菓子作りを教えてもらっていた日々のことが、やけに懐かしく感じられる。


(……もしわたしが、本気で店を継ぎたいって言ってたら……お父さんはどうしたかな)


 将来の進路を考えたときの胡桃の頭には、お菓子作りで生計を立てるなんて選択肢は存在しなかった。自分にはそんな生き方は無理だ、と最初から諦めていたのだ。


 ――きみがお菓子を作るのは、本当に100%自分のためだけなのか。

 ――俺はきみの才能が、きみのことを必要としている人間に届けばいいと思う。


(佐久間さんみたいに、自分の才能を仕事にする……そういう生き方も、あるのかな……)


 胡桃は二ヶ月前に26歳になった。26なのか、26なのか。これから新たな道を模索するには遅い気もするけれど、今が一番若いのだ。なんだか、気持ちばかりが焦ってしまう。今の会社を飛び出して、自分の才能ひとつで戦うような生き方が、果たして胡桃にできるのだろうか。


 それから休みが終わるまで、父は試作品を作っては胡桃に食べさせて、感想を求めてきた。父の作った焼き菓子を大量に抱えてマンションに戻った胡桃は――休みの最終日に体重計に乗って、まるで殺人鬼にでも遭遇したような悲鳴をあげることになる。

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