08.ゆううつマドレーヌ(2)

 年が明けた、仕事始め。年始の慌ただしい業務に終われ、午前中の時点でもうヘトヘトだ。昼休みになり、お弁当を持って食堂に移動しているときに、見覚えのある女子社員とすれ違った。製造課のベテラン事務員で、ややお喋り好きで騒がしいが、気の良い先輩で胡桃にも親切にしてくれる。


「あ、お疲れさまです。あけましておめでとうございます」


 すれ違いざまに頭を下げると、彼女はなんだか苦いものを口に含んだような、妙な顔をした。ボソボソと「おつかれさま……」と言って、そそくさと立ち去ってしまう。普段は明るく愛想の良いひとなのに、一体どうしたのだろつか。

 食堂に到着して、端っこの席に座ってお弁当を広げたときにも、ざらりとした手で肌を撫でられたような、嫌な違和感を覚えた。


(……なんか、ジロジロ見られてる気がする……)

 

 胡桃の近くに座っている女性社員のグループが、こちらを見てヒソヒソと話している。もともとそれほど親しいひとたちではないし、陰口を叩かれるのは珍しいことではないけれど、今日は特に酷い。

 なるべく気にしないようにしながらお弁当を食べ始めたところで、後ろを通った男性二人組の声が、耳に飛び込んできた。


「……ほらあれ、香西さんの」

「……うわー、マジ? 可愛い顔してんのに、ひとは見かけによらねえな」

「バカ、聞こえるぞ」


 香西さん、という名前が聞こえてきて、胡桃は肩をびくりと揺らす。啖呵を切って別れた憎き元カレとは、あの日以来まったく関わっていないけれど――もしかすると、妙な噂が流れているのかもしれない。

 ちくちくと、針でつつかれるような嫌な視線を感じながらお弁当を食べる。昨日まで実家でのんびりと過ごしていたことが、なんだか急に懐かしく思えてきた。


(あーあ……会社、辞めちゃおうかなあ……)


 作業は遅いしミスばかりだし、今の仕事が自分に向いているとは思えない。栞のような素敵なひともいるけれど、人間関係だってそんなに上手くいっていない。胡桃が今辞めても、誰も何も困らないだろう。胡桃よりも優秀な人間は、きっとたくさんいる。

 たとえば、仕事を辞めて――実家に帰って、父に「店を継ぎたい」と言ってみたら、どうだろうか。

 そんなことを想像してみて、胡桃はブンブンと頭を横に振った。今後の胡桃の人生に、「お菓子作りを仕事にする」という選択肢があるとしても――今それを選ぶことは、ただ現状から逃げているだけだ。


(佐久間さんがわたしに指し示してくれた、新しい道を……ただの逃げ道には、絶対にしたくない)


 胡桃はお弁当を完食すると、持参してきた緑茶をごくごくと飲んだ。不愉快な視線を跳ね飛ばすように、勢いよく立ち上がる。まだまだデスクに仕事が積み上がっているのだ。早く戻って、今日は絶対に定時で帰ろう。


(もし早く帰れたら、お菓子作りたい。お父さんが作ったものに負けないぐらい美味しいマドレーヌ)


 アールグレイの茶葉を入れて、紅茶風味にするのもいいだろう。生地をかき混ぜる父の手を思い出しながら、胡桃は出来る限り背中を伸ばして、颯爽と歩いていった。




 見事定時で仕事を終えた胡桃は、そそくさとロッカールームへと向かった。胡桃が中に入った瞬間に、騒がしくお喋りをしていた女子社員たちがしんと黙り込む。

 グループの中心にいた庶務課の前川まえかわ梢絵こずえと目が合って、胡桃はぎくりと身体を強張らせる。梢絵はどうやら胡桃のことを良く思っていないらしく、何かと強く当たられがちだ。


「お、お疲れさまです!」

「……」


 負けてたまるか、とばかりに声を張り上げて挨拶をしたが、梢絵は僅かに眉をひそめるだけだった。胡桃はめげずに、さっさと制服を脱ぎ始める。梢絵たちは何も言わなかったが、互いに意味深なアイコンタクトを交わしていた。

 そのとき、仕事を終えたらしい栞が入ってきた。ロッカールーム内の妙な空気に気が付いたのか、片眉を上げて怪訝そうな顔をしている。


「あっ、夏原さん。ねーねー、技術課の香西さんの話聞いた?」


 梢絵が馴れ馴れしく栞の肩を叩く。栞が「いいえ」と答えると、声をひそめて――しかし、胡桃にはしっかりと聞こえる音量で――言った。


「結婚する予定だったの、ダメになったんだって。なんか長く付き合っている彼女がいたのに、会社のコに無理やり迫られたらしいよ。それが原因で彼女と揉めて、上手くいかなかったみたい」


 胡桃は内心驚いていたけれど、平静を装って無視を決め込む。そのあいだも梢絵は、チラチラとわざとらしく胡桃の方に視線を向けていた。


「一体、誰のことなんだろうねー?」


 梢絵がそう言った瞬間に、ロッカールームにいる女性社員の視線が、一斉に胡桃に突き刺さる。

 おそらく彰人とのことが噂になっているのだろうと踏んでいたが、どうやら胡桃が一方的に悪者にされているらしい。胡桃への仕返しのつもりで、彰人が言いふらしているのだろうか。

 胡桃は彰人の恋人の存在を知らなかったし、反論したい点は山ほどあったが、「恋人がいる男性と関係を持っていた」ことについては真実である。見抜けなかった自分の愚かさを呪うしかない。


(……でも……夏原先輩には、知られたくなかった……)

 

 胡桃は下唇を噛んで、小さく身を縮こまらせた。誰に何を思われても仕方ないけれど、大好きな栞に失望されるのは嫌だ。

 栞は一瞬、チラリとこちらに目を向けた。胡桃は俯いたまま、彼女の方を見ることができない。栞は梢絵にまっすぐ向き直って、やれやれと呆れたように肩を竦める。


「前川さん。ずいぶんとくだらない噂に振り回されているんですね。香西くんの人となりを知っていれば、誰が悪いか一目瞭然でしょうに」

「……え?」

「ね、菅生すごうさん。あなたも同じ技術課なら、彼の噂ぐらい聞いたことがあるでしょう」


 突然話題を振られたのは、胡桃の同期である菅生ひとみだった。ひとみはやや気まずそうに視線を彷徨わせてから、「そ、そうですね……」と答える。


「……ものすごい、女好きだって話は……聞いたことあります」

「ですよね。ウチの会社の女子社員の大半は、彼に食い散らかされているでしょうから」


 栞の言葉に、ひとみはさっと顔を赤くして俯いた。もしかしてひとみも彰人に、と胡桃の背中に嫌な汗が流れる。……それはあんまり、知りたくない事実だった。


 呆気に取られている梢絵をよそに、栞はテキパキと着替え始める。シンプルなハイネックニットとゆるめのパンツ姿になった栞は、胡桃に向かって声をかけた。


「糀谷さん、今日これから予定はあるかしら」

「え? い、いいえ! まったく」

「じゃあ、どこかに飲みに行かない? このあいだのクリスマスイブの埋め合わせをしようと思っていたの」

「は、はい! ぜ、ぜひ! 喜んで!」


 居酒屋の店員もかくや、というぐらいの声量で、胡桃は勢いよく答えた。栞は未だ中途半端に制服を脱いだままの胡桃を見て、「それなら、早く着替えなさい」とクールに言った。




 栞に連れて来られたのは、落ち着いた雰囲気の和食居酒屋だった。ショートブーツを脱いで揃えると、座敷の個室に上がる。掘り炬燵なのが楽ちんでありがたい。コートを脱いだ栞は、やや申し訳なさそうに言った。


「糀谷さん、お酒飲めないのに居酒屋でごめんなさい。でもここ、食事も美味しいから」

「いえ、大丈夫です。まったく飲めないわけじゃないですし! 誘っていただけて嬉しいです! 二人っきりの新年会ですね」

「このあいだは、ドタキャンしてしまって本当にごめんなさい。明日も仕事だし、あまり遅くならないうちに解散しましょう」


 胡桃はメニューと睨めっこした結果、酎ハイのレモンを頼んだ。栞は生ビールと、適当に食べるものを注文する。店員は「かしこまりました」と言って、襖を閉めて行った。

 二人きりになった瞬間に、胡桃は居住まいを正して、深々と頭を下げる。


「……夏原先輩。さっき、庇ってくれてありがとうございました」

「別に、あなたを庇ったわけじゃないわ。香西くんの本性を知っている人間なら、噂の真偽はすぐにわかります」


 それでもあの場で梢絵にきっぱりと言い返してくれたことは、胡桃にとってありがたいことだった。怒ったようにつんとそっぽを向く栞に、胡桃は柔らかく微笑む。


 店員が飲み物とお通しを運んできて、栞と胡桃は「お疲れさまです」と乾杯をした。枝豆をもぐもぐと食べながら、栞が穏やかな口調で言う。


「……あんな噂、気にすることはないわ。しばらく居心地が悪いだろうけど、みんなすぐに興味を失うでしょう」

「……でも、さっき前川先輩が言ってたこと。そんなに、嘘でもないんです……」

「……」

「わたし、入社したときからずっと彼のことが好きで……わたしから告白して、付き合ってもらったんです。もちろん、恋人がいることは知らなかったんですけど」


 グラスに入った酎ハイの氷が溶けて、カランと音を立てる。あんな男に騙されて熱を上げていた自分のことを、心の底から馬鹿だったと思う。地獄に落ちろ、と啖呵を切ったけれど――彰人が地獄に落ちるのなら、きっと自分も道連れなのだろう。


「……わたしだって、何も知らずに彼の浮気に加担していたのは事実です」

「そういう〝騙される側にも問題がある〟という理論、私は嫌いだわ。騙す方が悪いに決まってるじゃない」


 栞にそう言ってもらえると、胸に残った黒いしこりが溶けていくような気がする。栞の清らかな正しさに触れるたび、胡桃はどんどん彼女のことが好きになっていく。


(……わたしも、夏原先輩みたいに生きられたらいいのに)


 まっすぐな栞を見ていると、自分の弱さをつくづく思い知らされる。栞がサラサラの髪を掻き上げると、耳に飾られたゴールドのピアスがきらりと光った。眩しくて、一瞬目を細める。


「……夏原先輩なら。ろくでもない男に遊ばれることなんて、ないんでしょうね」

「……そうでも、ないわ」


 栞は小さな声でそう言って、ぐいっと生ビールのジョッキを呷った。

 もしかするとこの強くて綺麗で完璧な先輩にも、苦い恋の思い出があるのかもしれない。詳細を尋ねてみたい気もしたけれど、栞の「これ以上は訊かないで」という無言の圧を感じ取って、胡桃は何も言えなかった。

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