05.聖なる夜とブッシュドノエル(4)

 クリスマスマーケットを満喫した胡桃と佐久間は、暗くなる前にマンションへと帰って来た。イルミネーションが見られなかったのが残念だが、あまり遅くなるとブッシュドノエルを作る時間がなくなってしまう。

 部屋の前で佐久間といったん別れ、帰宅した胡桃は早速ブッシュドノエル作りに取り掛かった。


 まず卵と砂糖、ハチミツを混ぜ合わせて湯煎にかける。そのあいだも、しっかりとホイッパーでかき混ぜておく。人肌より少し高いぐらいの温度になったら、湯煎から下ろしてハンドミキサーでさらにかき混ぜる。

「の」の字が書けるようになったら、ふるっておいた薄力粉とココアを投入。ヘラで均一になるまで混ぜる。ここで混ぜすぎないように注意だ。バターと牛乳を加えて、手早く混ぜる。全体にツヤが出てきたら、平べったい四角の型に流し込んで、190℃に予熱したオーブンでおよそ10分。焼き上がったら、ハケでシロップを打って冷ます。

 溶かしチョコレートを加えた生クリームを、四角い生地の上にどんっと乗せる。生のイチゴを丸ごと挟んで、そのままくるくると丸めていく。

 安定するまで冷蔵庫で放置したあと、両端を切り落として味見をした。さらに5cm程度を斜めに切り落として、ケーキの上に乗せる。これがブッシュドノエルの切り株部分になるのだ。残ったクリームとイチゴでデコレーションして、上からココアパウダーを振りかけたら完成。


(プロのパティシエには、程遠いけど……なかなか上出来なのでは!?)


 本当はマジパンで作ったサンタクロースとか、それこそ今日購入したようなアイシングクッキーを乗せたら、もっと可愛くなるだろうけど。ヘタつきのイチゴがたっぷり乗ったブッシュドノエルも、素朴でなかなか愛らしいものだ。


 胡桃はブッシュドノエルを持って、いそいそと隣の部屋のインターホンを押した。すぐに扉を開けた佐久間が「お、できたか」と迎え入れてくれる。


「見事なブッシュ・ド・ノエルだな。想像以上の出来だ」

「ありがとうございます! 頑張りました」


 胡桃はちょうどいい食器を持っていなかったけれど、佐久間の部屋にはブッシュドノエルにぴったりの縦長サイズのプレートがあった。高級感のある陶器のプレートにブッシュドノエルを乗せて、いつものようにダイニングチェアに腰掛ける。と、佐久間がテーブルの上にワイングラスをふたつ置いた。


「あれ、今日は紅茶じゃないんですか?」

「シャンパンを用意した。クリスマスイブだからな」

「へー。佐久間さんもそういうイベントごとに乗っかるタイプなんですね」

「クリスマスの定番であるブッシュドノエルを味わうには、やはり雰囲気も大事だろう。希望があれば紅茶を淹れるが」

「せっかくなのでシャンパンにします! これ、すごく高そうだし」


 佐久間が用意してくれたのは、かなり高級そうなシャンパンのボトルだった。ボトルからグラスに注がれた液体には細かい泡が立っており、ごく淡いピンク色をしている。シャンパンといえば白のイメージだったので、少し意外だった。


「辛口のロゼだ。クリーンで癖のない味わいだから、甘いケーキにも合うだろう」

「なるほど。じゃあいただきましょうか。佐久間さん、メリークリスマス!」

「……」


 佐久間は無言だったが、かちん、と軽くワイングラスをぶつけてくれた。

 ダイニングテーブルに向かい合って、胡桃の作ったお菓子を二人で食べる。いつもと同じ光景なのに、ほんの少しだけ特別な空気が流れているのは、クリスマスイブの夜だからだろうか。

 ブッシュドノエルを口に運んだ佐久間は、満足げに目を細める。


「ロールケーキの生地がフワフワで、それでいて口当たりはしっとりしている。チョコの入ったクリームも決して甘すぎず、ココア生地とイチゴとのマリアージュが完璧だ。派手さはないが、基本がしっかりできているのがよくわかるブッシュ・ド・ノエルだな」


 佐久間の言葉に、胡桃は「えへへ」と笑みをこぼした。作ったものを彼に褒められるたびに、数センチずつ浮き上がっていく気がする。この調子だと、いつか空まで届くんじゃないかしら。

 胡桃も一口食べてみて、「うん!」と頷いた。甘酸っぱいイチゴを、フワフワのココア生地とたっぷりのチョコクリームが優しく包み込んでくれる。初めてにしては、かなり上手くできたと思う。

 グラスを傾けて、シャンパンを一口飲んでみる。それほど甘くはなかったが、すっきりとしていて飲みやすかった。甘いものとお酒の組み合わせも、意外と悪くないかもしれない。


「なんだか、クリスマスって感じですね。チキンでも買って来ればよかったかな……」

「必要ない。ケーキがあれば充分だ」

「そういえばわたし、佐久間さんがお菓子以外のもの食べてるの見たことない気がします」


 クリスマスマーケットでも、胡桃はソーセージやポテトを食べたけれど、佐久間は頑なに甘いものしか口にしなかった。


「ダメですよ、ちゃんと野菜も食べないと。いい子にしてないと、サンタクロースが来てくれないんですからね」

「……馬鹿げたことを言うな」


 佐久間は呆れたようにそう言って、グラスを傾ける。そういえば、お酒を飲んでいるところを見たのも、今日が初めてだ。薄桃色の液体を喉に流し込む男を観察しながら、このひとはワイングラスよりもティーカップの方が似合うな、とこっそり考える。胡桃も彼につられるように、ワイングラスを空にした。


 それからブッシュドノエルとともに、シャンパンを調子よく飲んでいると、またしても頬が熱くなってきた。顔の前でパタパタと片手を振っている胡桃を見て、佐久間は眉をひそめる。


「もうやめておけ。飲み過ぎだ」


 ひょいと伸びてきた手に、ワイングラスを奪われた。まだ少し飲み足りない気分だったので、「あっ」と声をあげる。

 

「えー。そんなに飲んでないですけど……」

「顔が赤いぞ。もう酔ってるんじゃないか」

「ぜんぜん、だいじょう……」


 大丈夫、と言いかけて胡桃は口をつぐんだ。その瞬間、胡桃の中にある、ほんの少しずるい女の部分が顔を出す。頬を赤らめたまま、上目遣いでじいっと佐久間を見つめた。


「や、やっぱり……よ、酔っ払っちゃった、かも」


 そう言ってから、我ながらあざとい、と恥ずかしくなる。しかし佐久間は胡桃の姑息な嘘に気付いた様子もなく、「ほらみろ」と溜息を吐いた。


「どうする。部屋に戻るか」

「い、嫌です。ちょっとだけ、休んでもいいですか」


 佐久間は胡桃の身体を支えて立たせると、革張りのソファに座らせてくれた。キッチンからグラスに入ったミネラルウォーターを持ってきて、手渡してくれる。


「飲め。もし辛いなら、横になるといい」

「あ、ありがとうございます……」


 どうやら佐久間は、本気で胡桃のことを心配してくれているらしい。本当は、そんなに酔っ払っているわけではないのに。罪悪感がちくちくと胸を刺す。


(……佐久間さん、ごめんなさい)


 心の中でそう詫びながら、キッチンに戻ろうとする佐久間のニットの裾をぎゅっと握った。目を丸くして振り向いた彼に向かって、消え入りそうな音量で囁く。


「……となり、座ってほしいです……」


 勇気を振り絞った胡桃の言葉に、佐久間はしばらくその場で固まっていた。二人のあいだに落ちる沈黙が気まずい。やけに怖い顔をしている男を見て、胡桃は早くも自分の発言を後悔していた。嫌なら嫌だと、早く答えてほしい。

 やがて、ようやく氷が溶けたように動き出した佐久間は、ぎこちなく胡桃の隣に腰を下ろした。何も言わないので、一体何を考えているのかさっぱりわからない。どうか怒っていませんように、と祈るしかない。


「……気分は悪くないか」


 ようやく口を開いた佐久間の声は案外優しく、胡桃はほっと安心する。「はい」と答えて、隣の肩にそうっともたれかかった。ぎくり、と彼の身体が強張るのを感じる。


「……あの、わたし、酔ってるので」

「……ああ」

「すこしだけ、こうしててもいいですか……」


 さりげなさを装ったつもりだったけれど、語尾が僅かに震えてしまった。身体の左側に、自分のものではない体温を感じる。細いと思っていた佐久間の腕は意外と硬くてごつごつしていて、男のひとの腕だ、と思う。ドキドキと、心臓が高鳴る。

 長い長い沈黙のあと、佐久間がはあっと深い溜息をついた。


「……俺はもう、絶対きみに酒を飲ませないぞ」


 そんな声も聞かなかったことにして、胡桃は酔ったふりで彼の肩に頭を預ける。佐久間は胡桃を振り払うことなく、されるがままになってくれていた。目を閉じて、ほの暗い罪悪感の混じった幸せを噛み締める。


(……こんなずるくてあざとい、嘘つきなわたしのところには……サンタさんは、来てくれないかもしれないな)


 それでも今夜ばかりは、サンタクロースにさえ邪魔されたくない。なにせ、初めて好きなひとと二人きりで過ごす、クリスマスイブの夜なのだ。

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