04.聖なる夜とブッシュドノエル(3)

 お目当てのシュトーレンを手に入れた佐久間は、満足げな表情を浮かべていた。「クリスマスマーケットも良いものだな」とご機嫌な様子で、今にも鼻歌でも歌い出しそうな勢いだ。


「早速食べよう。何か飲み物も欲しいところだな」

「そういえば今すれ違ったひとが飲んでたワイン、中に何かが入ってました」

「ああ。おそらく、リンゴ入りのグリューワインだろう」

「グリューワイン?」

「スパイスやフルーツが入ったホットワインだな。ちょうどいい、飲んでみるか」

「へー、美味しそう! わたしもあったかいもの飲みたいです」


 今日は天気は良いが気温が低く、胡桃の身体はすっかり冷え切っていた。「じゃあ行くか」と歩き出した佐久間の隣に並んで歩き出す。胡桃は歩きながら、コートのポケットに入った彼の手をこっそり盗み見ていた。


(手、繋ぎたいな……やっぱりダメだよね……)


 元カレに別れを告げたあの日、佐久間は胡桃の冷たい手を優しく握ってくれた。どうして彼があんなことをしたのかは、よくわからない。おそらく、落ち込んでいる胡桃を慰めようとしてくれたのだろう。彼にとっては、迷子の子どもの手を引くのと同じような感覚だったのかもしれない。あれから彼は必要以上に胡桃に触れてこないし、手を繋いで歩いたのはあの日が最初で最後だ。

 

 ソワソワと落ち着きない胡桃の視線になど気付かず、佐久間は両手をポケットに突っ込んだまま歩いていく。グリューワインが売られているテントまで、迷わず辿り着いた。透明なカップに入ったワインを受け取ると、少し離れたところにあるベンチに移動して、佐久間と二人並んで腰掛ける。


「はー、あったかい……」


 指先まで冷え切っていた手が、温かなカップに触れてじんわりと溶けていく。リンゴが沈んだ赤い液体からは、ふんわりと白い湯気がたちのぼっている。顔を近づけてくると、シナモンの香りが漂ってきた。ふぅふぅと軽く冷ましてから、カップに口をつけて飲む。


「あ、美味しい。飲みやすいですね」

「辛口のワインが、スパイスの風味を引き立てているな。生のリンゴではなく、キャラメル風味の焼きリンゴが入っているのもいい。……そういえばきみ、酒は飲めるのか」

「あんまり強くないですけど……これぐらいなら大丈夫」


 リンゴがたっぷり入ったホットワインはフルーティーで甘く、デザート感覚で気軽に飲める。ごくごくと調子良くカップを傾ける胡桃に、佐久間は「酔っ払うなよ」と眉を寄せた。


「シュトーレンもいただこう。きみも食べるか」

「じゃあ、少しだけ。佐久間さん、ブッシュドノエルのぶんはちゃんとおなか空けといてくださいね」

「当たり前だ。俺を誰だと思っている」


 自信満々で言った佐久間に、胡桃は吹き出した。どうやら余計な心配だったらしい。彼の胃袋は、甘いものならいくらでも入ってしまう不思議な構造をしているのだ。

 佐久間はシュトーレンを一切れ、胡桃に手渡してくれた。そういえば、シュトーレンを食べるのは生まれて初めてだ。ドイツ菓子であるシュトーレンは、父の作るお菓子のレパートリーの範囲外だった。中にはナッツやドライフルーツがたくさん入っており、たっぷりの砂糖でコーティングされている。一口齧ると、ラム酒の香りがふわっと広がる。


「んん、美味しい!」

「ラム漬けのイチジクが効いているな。ナッツ類が多めに入っているおかげで食べ応えもある」

「すごく美味しいけど、もうちょっとしっとり感が強くてもいいかも。これ、自分でも作れるかなあ……」

「おっ、それはいいな。来年はぜひ作ってくれ」


 佐久間の言葉に嬉しくなった胡桃は、「はい!」と満面の笑みを返す。

 これから先、彼との関係がどうなるかはわからないけれど――少なくとも彼は、来年のクリスマスも胡桃の作ったお菓子が食べたいと言ってくれているのだ。特別な進展が見られなくても、今はそれで充分幸せだと思った。


 グリューワインを飲み終えた頃には、なんだか身体が火照ってきた。まるでリンゴのように赤くなっている胡桃の頬に気付いたのか、佐久間が心配そうに顔を覗き込んでくる。


「おい、大丈夫か。顔が赤いぞ」

「いえ、全然。大丈夫です」


 顔がすぐ赤くなるため勘違いされやすいが、それほど酒に弱いわけではない。たしかに強くもないけれど、ワイン一杯程度ならどうってことはないのだ。

 胡桃はすくっと立ち上がると、「ほら」とその場で一周回ってみせる。佐久間は「ならいい」と頷いて、スタスタと歩き始めた。彼の隣に並んで歩きながら、はたと思い当たる。


(……あ。酔っ払ったフリしたら、手ぐらい繋いでくれたかな……)


 いまさら自分の失策に気付いたが、もう遅い。このタイミングで「やっぱり酔っ払っちゃいました」なんて言うのは、あまりにもあざとすぎる。ふざけるなと怒られるのが関の山だろう。


 しばらく当てもなく歩いたところで、胡桃はふと足を止めた。マトリョーシカやガラス細工が並ぶ雑貨エリアの一角に、透明の袋に入ったアイシングクッキーが売られている。胡桃はまるで吸い寄せられるかのように、ふらふらと近付いていった。


「いらっしゃいませ。どうぞご覧ください」


 テントの下に座っていたのは、穏やかな笑みを湛えた女性だった。年齢は、胡桃よりひと回り歳上ぐらいだろう。サンタクロースにトナカイ、クリスマスツリーにクリスマスリース、スノウマンにジンジャーブレッドマン。ずらりと並んだアイシングクッキーは、どれも食べるのが勿体無いぐらいに愛らしい。


「わっ、すごい! 全部可愛い!」

「うふふ、ありがとうございます」

「いいなあ。これ、クリスマスケーキの上に乗せてもすごく可愛いだろうなあ……でも難しそう」


 アイシング用の型抜きクッキーはすこし硬めに、甘さ控えめにして。ツヤのあるアイシングクリームの上に、カラフルシュガーや銀色のアラザンを乗せたら、きっととびきり可愛くなるだろう。

 胡桃はテントの前にしゃがみこむと、クッキーに描かれた精巧な絵をまじまじと見つめる。美味しくて見た目も可愛いなんて、やっぱりお菓子は素敵。


「このバラの模様とか、どうやって描いてるんですか?」

「クリームが乾く前に、つまようじでなぞってるんですよ。単体だとそうでもないけど、隣に緑の葉っぱを置くことでバラっぽさが増します」

「すごい、細かい作業なんですね! あ、じゃあこっちのレース模様と雪の結晶は……」


 ついつい夢中になってしまい、あれやこれやと尋ねてしまう。女性は嫌な顔ひとつせず、胡桃にアイシングのコツをたくさん教えてくれた。一通りの説明を終えたあと、ニコニコと笑ってチラシを差し出してくる。

 

「ご興味があるなら、アイシングクッキーの教室もやってますよ。もしよかったらどうぞ」

「えっ、ほんとですか。ありがとうございます」


 チラシを受け取ってみると、会社からそれほど遠くない場所でやっているようだった。仕事帰りに通ってみるのもいいかもしれない。


「話は済んだか」


 声をかけられて、はたと顔を上げる。いつのまにか、胡桃のすぐそばに佐久間が立っていた。そういえば、話に夢中になって佐久間の存在をすっかり忘れていた。胡桃は慌てて「すみません!」と詫びる。


「いや、構わない。……たまにはああいう顔を見るのもいいものだ」

「え?」

「……なんでもない。きみのお菓子作りの技術が増えるのは、俺にとっても喜ばしいことだからな」

「そ、そうですか? せっかくだし、習ってみようかなあ」

「で、どれが欲しいんだ」


 ずらりと並んだクッキーたちを、佐久間は軽く顎でしゃくる。胡桃がキョトンとしていると、焦れたように「さっさと選べ」と言われた。どうやら、早く買えと急かされているらしい。たしかに、これ以上寒空の下で彼を待たせるのも申し訳ない。


「……えーと、じゃあ……これとこれにします」


 胡桃は悩んだ結果、サンタクロースとクリスマスツリーのクッキーを選ぶ。モタモタと財布を出しているあいだに、佐久間が会計を済ませてしまった。


「お買い上げ、ありがとうございます」

「ちょっ、え、佐久間さん!」

「こっちはきみのぶん、これは俺のぶんだ」


 どうやら、自分用にもいくつか購入したらしい。胡桃の頭の上に茶色の紙袋を乗せると、佐久間は「行くぞ」と歩き出す。胡桃は紙袋を胸に抱えて、女性に礼を言ってから、慌ててその背中を追いかけた。


「あのっ、お金……」

「構わない。べつに、それほど高いものではないだろう」

「でも、買ってもらう理由がないです」


 それでなくとも、今日はわざわざ胡桃に付き合わせているというのに。申し訳なさに眉を下げる胡桃の額を、佐久間はぱちんとはたく。


「そもそも、日頃タダであんなに美味いものを食わせてもらっているのだから、この程度じゃ足りないぐらいだろう」

「でも、わたしが好きでしてることだし……」

「……そんなに気になるなら……クリスマスプレゼント、ということにでもしておいてくれ」


 佐久間はそう言って、ふいっとそっぽを向く。黒髪から覗く耳が赤いのは、果たして寒さのせいなのだろうか。

 とびきり甘くて可愛いアイシングクッキーは、不器用で甘党な彼らしいプレゼントだ。胡桃は胸に抱えたクッキーの袋を、割れないようにそっと包み込んだ。


「……ありがとう、ございます」


(……うれしい。だいすき)


 胸の奥からじわじわとこみ上げてくる彼への想いを、胡桃は必死で喉元で堰き止めて飲み込んでいる。精一杯の気持ちを込めて「一生大事にします」と言うと、仏頂面で「腐る前に食べろ」と返されてしまった。

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