03.聖なる夜とブッシュドノエル(2)

 12月24日、クリスマスイブの朝。胡桃は、枕元のスマートフォンが鳴り響く音で目が覚めた。

 アラームではなく、LINEアプリの独特な着信音だ。もぞもぞと布団から顔だけ出して、スマホを手に取る。ぼんやりとした寝起きの頭のまま、受話ボタンをタップした。


「はぁーい……」

『……糀谷さん、おはようございます。夏原です』

「……!? な、夏原せんぱい!?」


 電話の向こうから聞こえてきた栞の声に、胡桃は慌てて跳ね起きた。まさか寝坊してしまったのでは、と時計を確認したが、時刻はまだ朝9時だ。待ち合わせの12時には、まだまだ余裕がある。


「な、夏原先輩、どうしたんですか?」

『……ごめんなさい。昨日から体調が優れなくて……微熱があるみたいなので、今日の約束、キャンセルさせてもらってもいいかしら』


 申し訳なさそうにそう言った栞の声は、やや掠れている。そういえば昨日もいつも通り完璧に仕事をこなしていたものの、なんだか覇気がなく、少し疲れているようにも見えた。もしかすると、胡桃があまりにはしゃいでいるから、体調が悪いことを言い出せなかったのかもしれない。

 正直なところ、胡桃はかなりがっかりしていたが、何よりも栞の体調が最優先である。彼女に気を使わせないよう、明るい声で「わかりました!」と答えた。


「わたしのことは全然、気にしないでください! ゆっくり休んでくださいね」

『ごめんなさい……この埋め合わせは必ず』

「元気になったら、一緒にごはん行きましょう!」


 最後に栞はもう一度『本当にごめんなさい』と繰り返してから、電話を切った。スマートフォンを枕元に放り投げた胡桃は、落胆の溜息をつく。


(……夏原先輩とのデート、楽しみにしてたのに……)


 そのまま胡桃は布団に潜り込み、ふてくされた気持ちで二度寝をした。昼過ぎになり、さすがに起きようと、ノロノロとベッドから這い出す。

 寒さに震えながらモコモコのガウンを羽織り、カーテンを開けると、透き通った水色のガラスのような空から柔らかな日差しが注いでいて、とても良いお天気だった。せっかくのおでかけ日和なのに、と胡桃はまた少し落ち込む。


(……ちょっと早いけど、ブッシュドノエル作り始めようかな……)


 今日は栞とクリスマスマーケットに行ったあとで、ブッシュドノエルを作る予定だった。材料は既に準備ができているし、今すぐにでも作り始めることができる。しかし「夜に一緒に食べましょうね」と伝えている手前、あまり早い時間に持って行っても、佐久間の迷惑になるかもしれない。

 一応佐久間に確認しようと思い、胡桃は顔を洗って化粧をして、ニットワンピに着替えてから佐久間の部屋に向かった。インターホンを押すと、たっぷり一分ほど待ったあと、ようやく扉が開く。


「……なんだ、きみか。どうしたんだ、こんな時間に」


 どうやら寝ていたらしく、顔を出した佐久間の目は眠たげにとろんとしている。寝癖だらけの髪は好き放題に跳ねていて、いつも以上にボサボサだった。


「ご、ごめんなさい。あの……ブッシュドノエル、今から作ったら、佐久間さん食べるかなーと思って」

「……? これから例の先輩とデートなんだろう」

「その、予定だったんですけど……」

「……もしかして、すっぽかされたのか。最低だな」


 佐久間がやけに怖い顔をするので、胡桃は慌てて「違います!」と否定した。


「先輩、体調崩しちゃったみたいなんです。それで、予定がなくなっちゃって」

「……」

「いきなり暇になっちゃったんで、先に作ってもいいか聞きに来たんですけど……」

「別に構わないが。俺はいずれにせよ暇だ」

「よかったです。じゃあ、作ってきますね」

「ちょっと待て」


 踵を返して部屋に戻ろうとした胡桃を、佐久間が呼び止める。振り返ると、佐久間は腕組みをして難しい顔でこちらを見ていた。


「……きみはそれでいいのか。先輩と、クリスマスマーケットに行きたかったんだろう」

「それは、そうですけど……でも仕方ないです。体調不良だもの」


 口ではそう言ったが、やはり悲しいものは悲しい。胡桃がしょんぼりと俯くと、佐久間はボサボサの黒髪をガシガシと掻いた。何かを躊躇うように視線を彷徨わせたあと、口を開く。


「……少し待ってろ」

「……え」

「今から準備をする。おそらく30分もかからないから、きみは部屋に戻っていてくれ。あとで迎えに行く」

「はい?」

「……行きたいんだろう、クリスマスマーケット。ブッシュ・ド・ノエルは帰ってからだ」

「……! 佐久間さん、それって」


 胡桃が弾かれたように顔を上げると、佐久間は眉間に皺を寄せて、怒ったような表情でこちらを睨みつけていた。


(……でもその顔、照れ隠しだって知ってます!)


「佐久間さん、もしかしてわたしとクリスマスマーケットに行ってくれるんですか!?」

「……わざわざ訊かなくても、文脈を読めばわかるだろう。代わりが俺では不服だろうが」

「いえ! 全然! そんなことないです! やったー! ありがとうございます!」

「あーもう、わかった。いいからさっさと部屋に戻れ」


 しっしっと追い払われた胡桃は、「はあーい」とニヤニヤしながら、スキップで自分の部屋に戻る。扉を閉めた瞬間に、高々と拳を掲げてガッツポーズをした。


(やった! 佐久間さんとクリスマスイブにおでかけできる!)


 栞にドタキャンされたのは残念だったが、これぞまさに怪我の功名である。

 先ほどよりも念入りに化粧をして、髪を緩く巻いているうちに、インターホンが鳴った。胡桃はふわふわと浮き上がる心を必死で押さえつけながら、満面の笑みで扉を開けた。




 佐久間と二人で地下鉄に乗って、いつも通っている会社の最寄駅で降りた。クリスマスマーケットの会場は、駅のすぐそばにある公園だ。胡桃と栞はときおり、この公園で昼ごはんを食べている。

 駅から公園に向かう道すがら、胡桃はこっそり隣を歩く男の顔を盗み見た。今日の佐久間は、品の良いチャコールグレーのウールコートにチノパンを合わせている。さっきまでボサボサだった髪はきちんと整えられていたけれど、左耳の前にある毛だけがぴょこんと跳ねていた。


(……やっぱり、かっこいい! 好き!)


 もちろん佐久間の顔だけが好きなわけではないけれど、こうしてきちんと身なりを整えた姿を見ると、秘めたる恋心が炸裂してしまう。我を忘れてうっとりしていると、怪訝そうに「なんだ」と言われてしまい、慌てて表情を引き締めた。


 5分も歩かないうちに、会場に到着した。平日は高層ビルに囲まれたビジネス街という風情であるが、今日は大勢の家族連れやカップルで賑わっている。公園の中央には巨大なツリーが鎮座しており、たくさんのテントがずらりと並んでいた。ツリーのそばにある噴水が、穏やかな冬の太陽を跳ね返してキラキラ光っている。どこからともなく香ばしいソーセージの匂いが漂ってきて、胡桃はひくひくと鼻を動かした。


「わあ、いい匂い……おなかすいちゃった」

「ちょっと待て。勝手にウロウロして迷子になるなよ」


 美味しそうな匂いに誘われるように歩き出した胡桃の腕を、佐久間は軽く掴んで引く。なんだか子ども扱いされているようで不服だ。むくれる胡桃をよそに、佐久間は入り口で配られていたパンフレットを開いた。


「まずは、どこに行くか決めよう。きみ、何か食べたいものはあるのか」

「うーん……特に考えてなかったです」

「事前準備が足りないな。じゃあ、俺の食べたいものを食うぞ」


 クリスマスマーケットにはたくさんの店舗が出店しており、ドイツの地ビールやワイン、ソーセージなどのホットスナックの他に、雑貨なども売られているようだ。彼はパンフレットをしげしげと眺めたあと、「おお!」とはしゃいだ声をあげた。


「〝トロイメライ〟が出店してるじゃないか! なるほど、シュトーレンが売っているのか。シュトーレンは食べたことがないが、ここのバームクーヘンはなかなか美味かったぞ。早速行こう」


 佐久間はウキウキとそう言って、胡桃を置いてさっさと歩き出す。胡桃は「待ってください!」と慌ててその背中を追いかけた。この調子じゃ佐久間さんが迷子になるんじゃないかしら、と胡桃は内心憤る。

 クリスマスイブに二人っきりで、周囲は幸せそうなカップルで溢れていて。巨大なツリーやオーナメントが輝く公園は、まるで異国のようにロマンティックな雰囲気だというのに。こんなときでも彼は、甘いものしか眼中にないらしい。マイペースな甘党男とのクリスマスデートは、なかなかに前途多難なようだ。

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