02.聖なる夜とブッシュドノエル(1)

 12月に入ると、世間の空気が妙に慌ただしいものになる。年度末ほどではないものの、四半期決算があるため業務量も増えて、ここ数日は残業続きだ。

 ヘトヘトになってロッカールームに向かうと、ひと足先に業務を終えていた先輩――夏原なつはらしおりが着替えていた。珍しく、今日は彼女も残業をしていたらしい。

 クールだけれど美人で仕事ができて、かっこいいのに可愛いところもある栞は、胡桃にとって憧れの先輩だ。彼女をデザートに例えるならば、見た目もお洒落で甘酸っぱくて、大人の味わいがあるフランボワーズムースだと胡桃は思う。


「夏原先輩、お疲れさまです!」

「お疲れ様です。定時間際に田山たやまさんに無茶言われてたみたいだけど、無事終わったのね」

「なんとか終わりましたよぉ。あー、疲れた」


 うーんと伸びをすると、凝り固まっていた肩がパキパキと鳴る。胡桃はもともと肩がこりやすいほうだが、冬場は特にひどい。マッサージにでも行くべきかしら、と溜息をつく。

 来週末にでも予約しようか……とスマートフォンのカレンダーを確認して、ハッとした。来週の土曜日は、クリスマスイブではないか。


「そういえば、もうすぐクリスマスですね!」


 制服を脱ぎながら、胡桃は栞にウキウキと話しかける。業務時間中は雑談を振ってもそっけないけれど、仕事が終わればある程度は付き合ってくれる。栞は軽くメイクを直しながら「そうね」と頷いた。


「今朝駅でポスター見たんですけど、会社の近くの公園でクリスマスマーケットやるみたいですよ! お菓子も売ってるみたいだし、おっきいツリーもあるし、楽しそうですよねえ」

「そうなの? 私、ドイツの地ビールが飲みたいわ」

「あ、じゃあよかったら一緒に行きませんか!? 今年のクリスマスイブ、土曜日ですし……」


 おそらく断られるだろうな、と思いながらも、ダメ元で誘ってみた。すると意外なことに、「いいわね」と色良い返事が返ってくる。胡桃は「ほんとですか!」と興奮気味に栞の両手を握った。


(夏原先輩と休日におでかけできるなんて、嬉しい……!)


 胡桃は栞のことが大好きだが、栞はいつもどこか一線を引いているようで、プライベートな部分にはあまり立ち入らせてくれない。どうやら独身らしいが、恋人がいるのかどうかさえ知らない。こうして誘いを受け入れてもらえたことで、また少し距離が近づいた気がして嬉しかった。


「じゃあ行きましょう! 言質取りましたからね! いまさらダメとか言うのなし!」

「……やっぱり、やめておこうかしら」

「あーっ、意地悪なこと言わないでください!」


 必死で肩を揺さぶる胡桃に、栞は「冗談です」とくすくす笑う。やはり、たまに見せる栞の笑顔は抜群に可愛い。

 愛おしさが爆発してしまい、抱きしめようとしたら真顔で「やめてください」と言われてしまった。やりすぎて嫌われないよう、気をつけよう。



 

 胡桃は帰宅したあと、冷蔵庫で寝かしておいた生地でアイスボックスクッキーを焼いた。バニラとココアの二色の生地を重ねて市松模様にしたもので、単純だけれど素朴な味わいでとても美味しい。今日は金曜日だから、少しぐらい夜更かしをしてもいい。

 いつものように隣人の元を訪れた胡桃は、至極ご満悦で、目の前でクッキーを食べる男の顔をニコニコと見つめていた。


「こういったシンプルなクッキーにこそ、作り手の技量が出るな。サクサクホロホロの食感と、バターの風味が絶妙だ」

「えへへ、ありがとうございます」

「……しかし今日は、ずいぶんと機嫌が良さそうだな」


 胡桃は「うふふ」と笑って、ティーカップを持ち上げて紅茶を飲む。今夜佐久間が淹れてくれたのはアールグレイのレモンティーだ。ベルガモットの香りにレモンの風味がプラスされて、バターたっぷりのクッキーによく合う。


「聞いてくださいよ! 佐久間さん!」

「なんだ」

「実はわたし、クリスマスイブに会社の先輩と二人でおでかけすることになったんです!」

「……ああ、例の」

「いつもそっけなくて、ランチに誘っても、三回に二回は断られるのに! あーどうしよう、何着て行こうかなあ!」

「……ふーん」


 佐久間はつまらなさそうに頬杖をついて、クッキーに手を伸ばす。「よかったじゃないか」という声には愛想のカケラもなかったが、いつものことなので気にならない。


「で。どこに行くんだ」

「会社の近くでやってる、クリスマスマーケットに行くんです。ふふ、楽しみだなあ……」

「……どうやら順調みたいだな」

「そうですね! 順調に仲良くなってます!」


 胡桃が元気いっぱい頷くと、佐久間はちっとも面白くなさそうに「それは何よりだ」と言った。眉間に刻まれた皺がどんどん深くなっていく。


「……最初なんだから、あまり遅くまで一緒にいるんじゃないぞ。暗くなる前には解散しろ」

「え? あ、はい。言われなくても、夜までには帰ってくると思います」


 栞にも予定があるかもしれないし、夜まで付き合わせるのは申し訳ない。それに、胡桃にはもうひとつ目論んでいることがあったのだ。


(イブの夜は、佐久間さんと一緒に過ごしたい……)


 ロクデナシとしか付き合ってこなかった胡桃は、これまで好きなひととクリスマスを共に過ごしたことは一度もなかった。いつも、お菓子を一緒に食べてはいるけれど――せっかくのクリスマスイブなのだから、とびきり美味しいクリスマスケーキを作って、佐久間に食べてもらいたい。

 胡桃はピンと背筋を伸ばして、紅茶を一口飲んでから切り出した。


「……あの、佐久間さん」

「なんだ」

「……わたし、今年はブッシュドノエルに挑戦しようと思ってるんです! ココアスポンジのロールケーキで、中にたっぷり、生のイチゴが入ったやつ」

「おお。それはいいな」

「その、イブの夜に持って来ますから……い、一緒にクリスマスケーキ食べませんか?」


 そう言い切ってから、ぎゅっとテーブルの下で両の拳を握り締める。


(予定がある、って断られちゃったらどうしよう……)


 佐久間に恋人はいないと言っていたけれど、クリスマスを一緒に過ごす女性がいないとも限らない。胡桃の脳裏に美人の従姉の顔が浮かんで、慌てて追い払った。彼がただの身内と言っているのだから、余計な邪推をすべきではない。


「もちろんだ。きみが作ったブッシュ・ド・ノエルを、断る理由などないだろう」


 胡桃の不安を吹き飛ばすように、佐久間は迷わず即答した。普通にデートに誘っても断られるだろうが、美味しいお菓子を鼻先にぶら下げておけば、佐久間はめったに断らない。お菓子作りが得意でよかった! とテーブルの下でこっそりガッツポーズをする。


「よ、よかったです! てっきり、もう他のケーキ予約しちゃってるのかと」

「ああ、既に目ぼしいパティスリーのケーキはいくつか予約している。しかし、イブの夜は避けていたからちょうどよかった」

「あれ、ああいうのってクリスマスイブの夜が本番じゃないんですか?」

「今年は土曜日だし、イブの夜が一番混むだろう。予約して取りに行くのも、なかなか大変だからな……」


 顰めっ面のまま言った佐久間に、胡桃は思わず吹き出してしまった。彼にとってのクリスマスは、パティシエが技術の粋を集めて作ったケーキを食べられるイベントでしかないのだろう。名だたるパティシエたちに負けないよう、頑張って作らなければ。


「気合い入れて作るので、楽しみにしててくださいね!」

「ああ、期待している」


 佐久間はそう言って、胡桃の作ったクッキーを頬張る。彼にとっては深い意味のないイベントだとしても、クリスマスイブの夜を一緒に過ごせることは嬉しい。

「楽しみだなあ」と言って、胡桃はアイスボックスクッキーに齧りつく。優しいバターの味と一緒に、幸せがじんわりと広がっていった。

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