34.さよならシフォンケーキ(4)

 佐久間とともに帰宅した胡桃は、早速エプロンを身につけた。思えば佐久間を自分の部屋に入れるのは、一緒にブルーベリーマフィンを食べたとき以来だ。


「以前に来たときも思ったが……狭いな」

「佐久間さんのお部屋が広いんですよ。でもワンルームのわりに、キッチンスペースが広いので気に入ってます」

「たしかに。大事なことだな」

「さ、作りますよ」


 胡桃は髪をきつく結び直して手を洗うと、前回失敗したシフォンケーキのリベンジに挑むことにした。佐久間は胡桃の隣に立ち、物珍しそうにまじまじと観察してくる。


「ずいぶんと本格的な道具が揃っているんだな」

「自分で買ったものもありますけど、ほとんどが実家から持ってきたやつです。このミルサーは、こないだのボーナスで買いました」

「……なるほど、ko-jiyaの。さすが、使い込まれた良い道具だ」


 佐久間は感慨深げに目を細めて、うんうんと頷いている。胡桃は気合いを入れるように、エプロンをつけて腕まくりをする。

 まずは卵黄、グラニュー糖、バニラエキスをよく混ぜ合わせる。そこに、湯煎で温めておいた胡麻油を投入。よく料理に使われるものじゃなくて、製菓用のちょっといいやつだ。しっかり乳化させたあと、40℃に温めた牛乳を加えて混ぜる。生地の温度には、細心の注意を払わなければならない。薄力粉、強力粉、ベーキングパウダーをふるったものを加えて、ホイッパーで混ぜる。


「見事な手際だな」

「お褒めいただき光栄です」


 何が面白いのか、佐久間は先ほどから胡桃の手元をじっと見ている。やはりスイーツ好きとしては、作業行程も気になるのだろうか。怖い顔で腕組みをして隣に立たれるのは、少し緊張するが。オーナーシェフの指導を受ける新米パティシエのような気持ちだ。


「次に、シフォンケーキにおいて重要なメレンゲを作ります」

 

 前回はここで失敗したため、生地がうまく膨らまなかった。卵白とグラニュー糖をしっかりとかき混ぜて、メレンゲを作る。真っ白いふわふわのメレンゲを見た佐久間が、ほうっと息を吐いた。


「……もうこの時点で食べたい」

「ダメです。でもメレンゲ美味しいですよね。このまま焼いて、メレンゲクッキーにするのも好きです」

「それも最高だな……」

「でも、それはまた今度にしましょうね」

 

 それから、メレンゲと先ほどの生地を混ぜ合わせる。生地がだいたい均一になると、もう触らない方がいい。あまり混ぜすぎると、気泡が潰れてフワフワ感が失われてしまうからだ。シフォン型に流し入れて、170℃に予熱したオーブンで約40分。そのあいだに、シフォンケーキに添える生クリームを作っておく。

 焼き上がりが待ち切れず、胡桃はオーブンの中を覗き込む。甘いバニラの匂いが漂ってきて、わくわくが高まっていく。

 ピーっという音とともに、胡桃はキッチンミトンを嵌めて、中からシフォン型を取り出す。今度は萎むことなく、綺麗に膨らんでいた。


「やった! 成功です!」


 佐久間にハイタッチを求めると、意外にもノリ良く応じてくれた。パチン、と一瞬だけ触れたてのひらは熱かった。

 適当な瓶にシフォン型の穴を刺して、逆さまにひっくり返す。そこでようやく、胡桃はエプロンを脱いだ。


「はい。では、ここから5時間ぐらい放置します」

「は!? 5時間!?」

「そのぐらい経たないと、型からきれいに抜けませんから」

「なんだ……すぐに食べられるわけじゃないのか……」


 佐久間は肩を落としてしょんぼりしている。あからさまにガッカリしているところも可愛い、とこっそり胸をときめかせてしまう。胡桃は笑って、用意しておいたミニカップをひとつ、佐久間に手渡す。


「? なんだ、これは」

「試食用のシフォンケーキです。型に入りきらなかった生地を、別の小さなカップに入れて焼いておいたんです。これなら焼き立てが食べられますよ」

「おお!」

「ほんとは、作り手の特権なんですけど……今回だけは、佐久間さんにもお裾分けしてあげましょう」


 胡桃がウィンクをすると、佐久間はまるで地獄で仏にでも出逢ったかのように、大袈裟に両手を合わせて拝み始めた。

 

「……やはり、持つべきものはお菓子作りが得意な隣人だな」


 小さなカップサイズのシフォンケーキの上に、生クリームを絞って乗せる。佐久間は一度自分の部屋に戻って、紅茶の準備をしてきたようだ。狭い部屋の真ん中にあるローテーブルに、ティーセットを置く。


「ストレートのウバティーだ。軽やかな味わいのシフォンケーキにはやはりこれだな」

「わ、美味しそう。じゃあ食べましょうか」


 今日は佐久間と隣に並んで座った。向かい合うよりも距離が近くて、なんだかドキドキする。


「いただきます」


 焼きたてでフワフワのシフォンケーキにフォークを刺して、甘い生クリームとともにいただく。バニラの味わいが優しく、口に入れた瞬間にとろけるほどに柔らかい。顎の筋肉が必要ないのでは、と思うほどだ。

 隣にいる佐久間の顔を盗み見ると、普段の仏頂面からは想像できないほど幸せそうに緩んでいた。彼のこの表情を見るために、胡桃はお菓子を作っているのかもしれない。


「美味い。フワッフワで、いくらでも食べられそうだ。普段焼きたてのシフォンケーキを食べることは滅多にないが、これもまた良いものだな」

「でしょ? 型から外れたぶんは、また明日一緒に食べましょうね」


 胡桃はそう言って、ティーカップを口に運ぶ。とびきり甘いお菓子と美味しい紅茶。隣には、胡桃が作ったものを美味しいと言って食べてくれる、好きなひとがいる。これ以上に幸せな休日があるのかしら、と胡桃は思う。

 シフォンケーキをモグモグと頬張った佐久間は、小さく咳払いをしてから「そういえば」と切り出す。


「……さっき。好きな男ができた、と言っていたな」

「え? あ、はい。実は、そ、そうなんです」


 頬を赤らめつつ、胡桃は頷く。先ほどの彰人とのやりとりを聞かれていたのだろうが、当人に直接指摘されるのは照れ臭いものだ。

 佐久間はなんだか面白くなさそうな顰めっ面で、こちらを睨みつけている。


「……悪いことは言わないから、やめておけ。きみが好きになる男なんて、どうせろくでもない奴だろう」


 佐久間の言葉に、胡桃はがっくりと肩を落とした。この男は、あの話を聞いてもなお、胡桃の好きなひとが自分だという可能性に少しも思い至らないのだ。おそらく、胡桃をそういう対象としてまったく見ていないのだろう。脈がなさすぎる。もし今この場で告白なんてしたら、こっぴどく振られてしまうに違いない。


「そ、そんなこと言わないでください! とっても素敵なひとですよ」

「どうだか。きみは見る目がないからな」

「……そうですか? 今のわたしは結構、見る目があると思ってるんですけど」


 傍若無人で口も態度も悪い男の不器用な優しさを、胡桃はよくよく知っているのだ。

 佐久間の顔を覗き込んで、じいっと見つめる。彼はややたじろいだあと、呆れた様子で「……懲りない奴だな」と溜息をついた。


(前途多難な恋、だろうけど……そう簡単に、諦めるつもりはありません)


 胡桃はティーカップをソーサーの上に置くと、正座をしてまっすぐ佐久間に向き直った。


「ね、佐久間さん。わたし今度こそ、とびきり甘い恋をするって心に決めてるんです」

「……」

「だから、覚悟しておいてくださいね」

「……何がどう覚悟が必要なのかわからないが、俺は絶対に応援してやらないぞ。一人で勝手に頑張るといい」


 バッサリと斬り捨てられて、胡桃は膨れっ面で佐久間を睨みつける。……やはりこのひねくれた隣人を攻略するのは、そう甘い道のりではないのかもしれない!

 胡桃がむくれていると、佐久間は人差し指で胡桃の額をパチンと弾いてきた。


「……諦めきれないならさっさと失恋して、せいぜい俺にお菓子でも作ってくれ。甘い恋より甘いお菓子だ」

「絶対、お断りです! 今度は失恋するつもり、ありませんから!」


 人差し指を突きつけてくる佐久間に向かって、胡桃は思い切り舌を出す。甘くない甘党男の減らず口を塞いでやるために、生クリームたっぷりの甘い甘いシフォンケーキを、思い切り口の中に突っ込んでやった。




第1部【甘いお菓子と甘くない恋】終

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