33.さよならシフォンケーキ(3)
土曜日、午前10時。洗面所に立った胡桃は、寝惚け眼を擦りながら洗面所の前に立った。冷たい水で顔を洗うと、ぼんやりしていた意識が次第に覚醒していく。
(やっぱり、やめておいた方がよかったかな……)
鏡に映る自分は、なんだかやけに不安げな表情をしていた。化粧品を染み込ませるついでに、気合いを入れるようにパチンと頬を叩く。会うと決めたのは自分なのだから、いまさら怖気づくわけにはいかない。
髪を頭の後ろで結んで、鮮やかな赤のニットにデニムを合わせる。彰人と付き合っているときは、彼の好みに合わせて、ガーリーな格好ばかりしていた気がする。可愛い格好は嫌いではなかったけれど、本当はもっと動きやすい服が好きだったのに。
ベージュのトレンチコートを羽織り、白のスニーカーを履いて外に出ると、エレベーターに乗ってマンションの下まで降りる。胡桃が降りると同時に、エレベーターは再び上へと上がっていった。
11月も半ばに差し掛かり、街路樹の葉も黄色く色づいている。地に落ちて潰れている銀杏の匂いが、小さい頃の胡桃はちょっとだけ苦手だった。スニーカーで落ち葉を踏むたびに、カサカサと軽い音を立てる。
平日朝はすし詰めになる地下鉄も、休日はそれほど混んでいない。シートの端っこに腰掛けた胡桃は、目を閉じて思い出す。彰人と付き合っていた頃、こうして彼の元へと向かっている時間が好きだった。当然だけれど、今はちっとも気持ちが弾まない。
地下鉄から降りた胡桃は、改札を通って地上に出る。待ち合わせ場所は駅の近くにあるファミレスだ。ここから歩いて10分ほどのところに、彰人のマンションがある。本当は部屋に来ないかと誘われたのだけれど、それは断固拒否したのだ。
「いらっしゃいませ。1名様ですか?」
「あ、いえ。連れが先に来てるので」
声をかけてくる店員にそう断ってから、胡桃は店内をぐるりと見回した。店の奥の方、4人掛けのボックス席に、香西彰人が座っている。胡桃に気付いたのか、唇の片側を軽く上げて微笑む。
(……なんだ。全然……ときめかないや)
あの頃は大好きだった彼の顔に、もう何も感じなくなっていた。一般的に見ればたしかにイケメンなのだろうけれど、心を揺さぶるものが少しもない。もっと魅力的な男性は、この世界にたくさんいる。
胡桃が彼の正面に腰を下ろすと、彰人はあの頃と同じように「よっ」と言って笑った。
「胡桃の顔、久しぶりに見たー。同じ会社にいても、意外と会わないもんだな」
「……そうだね」
彰人の目の前には、ほぼ手付かずのホットコーヒーのカップが置かれている。そういえばこのひと猫舌だったっけ、と思い出して、そんなことを覚えている自分にうんざりした。彰人は胡桃に向かって、メニュー表を差し出してくる。
「なんか食う? 昼飯にはちょっと早いけど……胡桃、甘いもん好きだったよな。パフェとか頼めば?」
「……いい。ゆっくりするつもり、ないから」
胡桃はボタンを押して、注文を取りに来た店員に、「ロイヤルミルクティーひとつ」と告げる。胡桃の背中側の席に座った男性客は、シフォンケーキのセットを注文していた。
「胡桃がそういうカッコしてんの、珍しいな。スカート以外履いてるの初めて見たかも」
「……彰人くん。結婚するんだってね」
彰人の言葉を無視して、単刀直入に切り出した。彰人は一瞬息を飲んだようだったけれど、すぐに平然とした顔に戻り、つまらなさそうに頬杖をつく。
「なんだ、知ってたんだ」
おそらく、胡桃が言い出さなければ、黙っているつもりだったのだろう。胡桃はテーブルの上で拳を握りしめながら、畳み掛けるように続ける。
「学生時代から付き合ってる彼女だって聞いたけど。わたしと付き合ってるときから、ずっと二股かけてたんだね」
胡桃の言葉に、彰人は罪悪感など微塵も見せずに、はっ、と鼻で笑った。人を小馬鹿にしたようなこのひとの笑い方が、付き合っているときから胡桃は苦手だった。
「それ、誰から聞いたの?」
「……営業一課の水羽主任」
「あー、水羽さんか。あのひと、意外とお喋りだな」
彰人はチッと舌打ちをした。口に運んだロイヤルミルクティーはやたらと甘ったるく、やたらと喉に引っかかる。余計に喉が渇いてしまいそうだ。佐久間が淹れてくれた紅茶が恋しくなる。
「結婚することになったから、わたしのこと邪魔になったんでしょ?」
「そういう言い方するなよ。……彼女と離れて寂しかったタイミングで、可愛い女の子に告白されたら、そりゃ揺らぐだろ」
「もし恋人がいるって知ってたら、告白なんてしなかった」
「胡桃のことが本気で好きだったのはほんとだよ。いい加減な気持ちで付き合ってたわけじゃない」
いい加減じゃない二股ってどういうこと、と胡桃は怒りを通り越して呆れ返ってしまう。テーブルの上に置かれた手は、すっかり冷え切っていた。冷え性の胡桃の指は、ロイヤルミルクティーのカップで温めたそばから、すぐに冷たくなっていく。
(わたし、なんでこんなひとのこと好きだったんだろう……)
見苦しい言い訳を連ねる男を前に、胡桃は驚くほどに冷静だった。やはり彼はろくでもない男だったのだと、改めて認識できただけで、ここへ来てよかったと思う。
彰人はなんだかキョロキョロと周囲を気にしながら、囁くような音量で言った。
「……なあ、胡桃。やっぱり場所変えてゆっくり話そう。俺の部屋来ない? 胡桃だって、俺が結婚するってわかってて来たんだろ」
「……」
「俺、結婚決まってるって言っても、あんまり彼女と上手くいってなくて……胡桃と別れて初めて、胡桃の素直さが恋しくなったっていうか」
胡桃は下唇を噛み締める。あの頃の胡桃は、本当はちっとも、素直なんかじゃなかった。胡桃が彰人に対して従順だったのは、ただ本音を押し殺していたからだ。嫌われるのが怖くて、言いたいことを全部我慢して。そういう自分のことが、誰よりも一番嫌いだった。
「彼女、あんまり家庭的なタイプじゃなくて、料理も上手くないしさ。あ。お菓子作り、あれまだやってんの? 久しぶりに、胡桃の作ったお菓子食べたいな」
(……わたしの作るものの価値なんて、これっぽっちもわかってくれないくせに)
「……ふざけたこと言わないでよ」
へらへらと笑う男に、とうとう胡桃の堪忍袋の尾が切れた。ドン、と拳をテーブルに叩きつけると、彰人はびくっと肩を揺らす。憎しみをこめて真正面から睨みつけると、ややたじろいだように視線を彷徨わせた。
「……わたし。もう二度と、あなたのためにはお菓子作らない」
「……く、胡桃……」
「わたしの作ったお菓子を食べてほしいひとが、もっと他にいるから」
「……」
「彰人くん。わたし、好きなひとができたの。わたしの価値を理解して、必要としてくれるひと」
口に出した瞬間に自覚した気持ちは、すとんと胡桃の胸に落ちてきた。
(ああ。やっぱりわたし、好きなんだ)
本当はうすうす、気付いていた。彼と食べるお菓子が、どうして一番美味しいのか。彼が他の女のひとと一緒に居ると、胸が苦しくなるのは何故なのか。辛いことや嬉しいことがあったとき、一番に伝えたいのは誰なのか。
口と態度が悪くて傍若無人で、素直じゃなくてぶっきらぼうで、甘党なのに全然甘くないお隣さん。胡桃自身も気付かなかった価値を見出して、特別なものだよと教えてくれるひと。いつのまにか胡桃にとって彼は、かけがえのない、なくてはならない存在になっていた。
それがわかったなら、もうこんな男と話す意味は少しもない。胡桃はすっかり冷めてしまったロイヤルミルクティーを一気に飲み干す。
「じゃあ、わたし帰る。もう二度と連絡してこないでね」
「お、おい……」
「……あ。でも、最後にひとつだけ。言いたいことあったんだった」
胡桃は立ち上がると、大きく息を吸い込む。おなかに力をこめると、情けなく眉を下げた最低男に向かって、ずっとずっと溜め込んでいた怒りを全力でぶつけた。
「……地獄に堕ちろ、このクソ男!!」
長閑な休日のファミレスに、場違いな胡桃の怒号が響く。店内にいる人間の視線がいっせいに集まるのがわかったが、胡桃は晴れ晴れとしていた。なんだか新しく生まれ変わったような、清々しい気持ちだ。
胡桃はトートバッグを手に取ると、自分の背中越しに座っていた男性客に向かって声をかけた。
「佐久間さん。帰りましょう」
背中を丸めて紅茶を飲んでいた男は、ノロノロと顔を上げる。髪型はきちんと整えられていて、焦茶色のニットにデニムを合わせている。今日は一応、おでかけモードみたいだ。やっぱりこのひとの方が、元カレなんかよりよっぽど素敵。
佐久間は胡桃と目が合うと、ややバツが悪そうな表情を浮かべた。
「……まだ、注文したシフォンケーキが来ていないんだが」
「シフォンケーキなら、わたしが帰って作ってあげます。ちょうど作ろうと思ってたんですよ」
「それはいいな。さっさと帰ろう」
佐久間はそう言うが早いが、意気揚々と立ち上がる。そのときちょうどタイミング悪く、店員がシフォンケーキを運んできた。佐久間は悪びれた様子もなく、彰人の方を指差す。
「そこのテーブルに置いてくれ。伝票もそっちに」
「え? は、はぁ……」
「お、おいちょっと待て。胡桃、この男誰だよ」
突然の展開についていけないのか、彰人は狼狽えている。佐久間は彰人の方にチラリと目線を向けた。
「彼女の作ったシフォンケーキが食べられないなんて、あんたはつくづく哀れな男だな」
「はぁ? 何言って……」
「まあ、代わりにそれを食うといい。ここのシフォンケーキもなかなか美味いぞ。ファミレスとは思えないクオリティだ」
佐久間はそう言うと、胡桃を置いてさっさと歩いていく。胡桃は彰人の方を振り向くことなく、さよならも言わずに佐久間の背中を追いかけた。
「佐久間さん!」
ひと足先に店の外に出た佐久間を呼び止めると、彼はぴたりと足を止めた。小走りで隣に並ぶと、ムスッとした顔で再び歩き出す。
「……いつから気付いてたんだ」
「最初からです。佐久間さん、尾行下手くそですね。探偵にはなれませんよ」
「別に、なるつもりもない」
「……わたしのこと心配して、来てくれたんですよね」
「違う。久しぶりに、あそこのシフォンケーキを食べたかっただけだ」
ああ、つくづく素直じゃないひと。耐え切れなくなった胡桃がくすくすと笑みをこぼすと、照れ隠しのようにパチンと額を弾かれた。
「それで。気は済んだか」
「そうですね。スッキリしました。……佐久間さんは、会わない方がいいって言ったけど……わたしにとっては、必要な過程だったんだと思います」
「……それなら、まあいい」
ぴゅうっと冷たい11月の風が、二人のあいだを吹き抜ける。胡桃はすっかり冷え切った手を擦り合わせて、ぶるりと身震いした。
そのときちょうどすれ違ったカップルは、仲睦まじげに手を繋いで歩いていた。駅からマンションに向かう短い距離でさえ、彰人は手を繋いでくれなかったな、と思い出して、恋心の残骸がちくりと胸を刺す。
そんな微かな鬱屈を知ってか知らずか、佐久間がふいに胡桃の手を取る。弾かれたように彼の顔を見ると、しっかりと手を繋いだまま、「帰るぞ」とそっぽを向いた。黒髪から覗く耳がほんのりと赤い。
「え、あの、佐久間さん」
「……」
「えーと、わたしの手……つ、冷たいでしょ」
「……そうだな。パティシエ向きの手だ」
そう言った佐久間の手は驚くほど熱を持っていて、氷のように冷たかった胡桃の手は次第に溶かされていく。やっぱり好きです、という言葉を飲み込んで、胡桃は黙って微笑んだ。
燃え滓のように残っていた微かな恋心は、ふうっと風に吹かれて飛んでいく。温かな手をぎゅっと握り返した胡桃は、甘くない恋に別れを告げて歩き出した。
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