32.さよならシフォンケーキ(2)

 仕事を終えて帰宅するなり、胡桃は早速シフォンケーキを作った。

 祈るような気持ちで天板をオーブンから取り出した胡桃は、がっくりと項垂れた。型に入ったシフォンケーキは、オーブンの中では綺麗に膨らんでいたはずなのに、みるみるうちに無惨に萎んでしまったのだ。

 おそらく、卵白の泡立てが足りなかったのだろう。おまえは集中力に欠けている、と父に怒られたことを思い出す。お菓子作りに失敗はつきものとはいえ、こんなことは久しぶりだ。どうやら、まだまだ修行が足りないらしい。


(こんなものを、佐久間さんに食べさせるわけにはいかない……)


 佐久間は胡桃のお菓子作りの腕を、心の底から信頼している。そんな彼に失望されるのは、絶対にごめんだった。萎んでしまったシフォンケーキは、冷凍して少しずつ自分で食べることにしよう。

 とはいえ今の胡桃は、佐久間に愚痴を聞いてもらいたくて仕方がなかった。元カレの所業をぶちまけて、思う存分怒り狂いたい。しかし、手ぶらで佐久間の元を訪れるわけにはいかない。胡桃と佐久間の関係は、手作りお菓子を元に成り立っているのだから。


 ぺしゃんこになったシフォンケーキを前に、しばらく打ちひしがれていた胡桃だったけれど、両頬を叩いて気持ちを切り替えた。今あるもので、すぐにできるものを作ろう。

 ボウルにオートミール、薄力粉、砂糖、卵を入れて、ぐるぐる混ぜる。オイルを入れて、さらに混ぜる。溶かしバターではなくオイルを入れることで、作成時間の短縮になるのだ。それからチョコチップとクルミ、アーモンドとオレンジピールを入れる。

 シートを敷いた天板に、スプーンで形を整えながら生地を乗せる。180℃のオーブンで、だいたい20分。素早く簡単にできる、オートミールクッキーだ。

 

 無事にお菓子を完成させた胡桃は、さっそくタッパーを抱えて隣の部屋へと向かった。まるで待ち構えていたかのように胡桃を迎え入れた佐久間は、いつものようにキッチンに立った。


「簡単なものですけど、オートミールクッキーです」

「ありがたい。ちょうど甘いものが欲しかったところだ」

「佐久間さんが甘いものが欲しくないときなんて、ないでしょ」


 キッチンからふわりと漂ってくるのは、いつもの紅茶の香りではなく、香ばしい玄米茶の香りだった。「今日は少し気分を変えてみた」と言って、湯呑みを胡桃の前に置く。


「クッキーは焼きたてが美味しいので、先に食べてください」

「うむ。お言葉に甘えていただこう」


 佐久間はオートミールクッキーをつまんで、口の中に入れる。胡桃もそれに続いて、クッキーに齧りついた。たったの30分で完成させたと思えないほど、香ばしくて美味しい。一緒にいただく玄米茶の風味も、驚くほどマッチしていた。日本茶と洋菓子の組み合わせというのも、また良いものだ。


「こんがり目に焼かれているのが、ザクザク感が強くて美味いな。中に入ったオレンジピールがまた、いいアクセントになっている」

「……そんなことより佐久間さん! 聞いてくださいよ!」


 男の顔が満足げに綻ぶのを確認してから、胡桃はかくかくしかじかと話し始めた。

 胡桃を捨てた元カレが、もうすぐ結婚すること。学生時代から付き合っている女性がいたらしく、やはり胡桃とのことは遊びだったこと。そのことを突然知らされて、胸中が掻き乱されていること。

 胡桃の話を聞いた佐久間は、まったく驚いた様子もなく、ずずず、と玄米茶を啜っている。


「わかっていたことだろう。結婚が決まったから、きみを切り捨てたパターンだ。ずるずるとキープされなかっただけ、まだマシじゃないか」

「……それは、そうですけど」

「そんな男のことなど、さっさと忘れることだな。未練なんてないんじゃなかったのか」

「……ない、と思ってたんですけど……」


 胡桃が一番ショックだったのは、彰人の結婚に傷ついている自分がいたことだ。あんなロクデナシのことなんてどうでもいい、と思っていたはずだったのに。


(……こんなことで傷ついてる時点で、全然彰人くんのこと忘れられてない……)


 あんな男のことを、みっともなく引きずっている自分にうんざりする。


 そのとき、テーブルに置いていた胡桃のスマートフォンが短く二回震えた。「見てもいいぞ」と佐久間に言われたので、胡桃はスマホのロックを解除する。LINEのメッセージが二件、届いていた。


[久しぶりー 元気してる?笑]

[週末ひま? 久々に会わん?]


 発信元を確認して、思わずヒッと息を呑む。おおよそ半年ぶりにメッセージを送ってきたのは、今しがた噂をしていたロクデナシの元カレだった。


(笑、ってなに……あんなに一方的に振った相手に、送りつけてくるメッセージじゃない……)


 胡桃が愕然としていると、佐久間が怪訝そうに「どうしたんだ」と訊いてくる。胡桃は震える手で、スマホのディスプレイを佐久間に向けた。


「……なんか……元カレから、連絡きたんですけど……」

「はあ!? まだその男をブロックしてなかったのか。きみは馬鹿か」


 佐久間は心底呆れた様子で吐き捨てる。胡桃は黙って下唇を噛み締めた。LINEもインスタも、胡桃は未だに彰人のことをブロックしていない。わざわざアカウントを覗きにいくようなことはなくなっていたけれど、完全に彼を断ち切ることはできずにいた。


「……どうしましょう」

「きみがとるべき行動はひとつだろう。無視して今度こそブロックだ」

「……そう、ですよね……」

「……まさかきみは、この期に及んであの男に未練があるのか」


 佐久間はやけに怖い顔で、胡桃のことを睨みつけている。胡桃は俯いたまま、ポツリと答えた。


「……よく、わかりません」

「……わからない?」

「彼が結婚するって聞いて、ショック受けてるのはほんとです。でも、未練っていうより、なんというか……」


 うまく説明できずに、そこで言葉を切った。胡桃が黙っていると、佐久間は苛立ったように、人差し指をテーブルで叩き始める。しばらく考えたあと、胡桃は顔を上げて言った。


「わたし。もう一回だけ彼と話してみようかな……」

「はあ!? 何を言ってるんだ、きみは!」

「だって、一回ぐらい怒鳴りつけてやらないと気が済まない……」


 胡桃は結局ただの一度も、感情を彼にぶつけることができなかった。胡桃の中に残る彼への怒りや悲しみは、消えるどころか今も胸の奥底に根を張って、呪いのように胡桃を苦しめている。

 佐久間はテーブルに叩きつけていた人差し指を、びしりと胡桃に突きつけた。


「きみの元恋人が今、何を目論んでいるのか教えてやろう。最後の独身生活を謳歌すべく、せいぜい女と遊びたくなったが、手頃な女性が周りにおらず、黙って言うことを聞いてくれそうな都合の良い元彼女に連絡してきた、だ」

「……でしょうね」

「わかっているなら、もう関わらない方がいい。一度会ってしまったら、きみは絶対流されるぞ」


 佐久間の声には何故だか必死な響きがあり、一生懸命胡桃を説得しているようでもあった。こうして心配してもらえるのはありがたいことだな、と思う。

 きっと、彼の言うことは正しいのだろう。近付かない方がいいわよ、と栞も言っていた。胡桃だって、もうこれ以上あんな奴に傷つけられて、悲しい思いをするのはごめんだ。でも。


 ――俺たち、別れよう。勝手なこと言ってごめん。でも、胡桃ならわかってくれるよな。


 最後通告を言い渡されたあのときの光景を、今でも夢に見ることがある。あっけなく握り潰された恋心は、未だに成仏できないまま、胡桃の中に残っているのだ。彼と過ごした思い出はどんどん美化されて、なんだかすごく幸せだったような気さえする。そんなこと、絶対あるはずもないのに。

 ……どうにかしてこの恋を終わらせなければ、胡桃は次の恋に踏み出せないのだ。


「わたし、絶対に流されないです」


 きっぱりと答えた胡桃の目を、佐久間はまっすぐに睨みつけていた。わからずや、とでも言いたいのだろうか。やがて、やれやれと呆れたように首を振る。

 

「……それならもう、勝手にしろ。俺はもう知らん。さっさと自分の部屋に帰れ」


 佐久間はお茶を飲み終えた胡桃を強引に立たせて、玄関へと引っ張っていった。怒った顔をしてはいたけれど、最後に律儀に「……オートミールクッキーは美味かった、ありがとう」と付け加える。このひとのこういうところは、結構好ましい。


 部屋に戻った胡桃は、彰人へのLINEに返信をした。[元気だよ]という短い文字列に、すぐに既読がつく。


[俺はあんまり元気じゃない]

[胡桃に会って癒されたいなー]


 明らかな下心の滲んだ言葉に、吐き気がする。胡桃は少し悩んだあと、[いいよ]の三文字を打ち込んで送信した。

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