31.さよならシフォンケーキ(1)
11月に入り、次第に秋も深まってきた。ある日の昼休み、胡桃は栞と二人、食堂でお弁当を食べていた。一匹狼タイプの栞だけれど、最近は誘えば三回に一回はランチに付き合ってくれる。
「糀谷さん糀谷さん、佐久間諒の新作読んだ!?」
栞と他愛もない会話をしていると、通りかかった水羽が興奮気味に声をかけてきた。胡桃が「はい」と答えると、彼は断りもなく隣に腰を下ろしてくる。いつになく熱を込めて、前のめりに語り始めた。
「いやー、面白かったよね。主人公のキャラクターのせいか、今回はわりとポップな地獄だなーと思ってたけど、最後の最後でやられたよ。オチはここ最近の作品では一番好きかも」
「わ、わかります。わたしも最後の一行読んだあと、今すぐこれ書いたひとのこと殴りに行こうかと思いました……」
さすがに、実際に殴りはしなかったけれど。読み終わったあと隣の部屋に行って「この外道!」と罵るだけに留めておいた。
胡桃の話を聞いた水羽は、やけに嬉しそうに「わかるなあ」と笑っている。本当に爽やかな笑い方をするひとだ。あんなに物騒な小説の話をしているとは思えない。本当に佐久間の作品が好きなのだろう。
(水羽主任には、佐久間さんのサイン本を持ってることは黙っておこう……)
もし水羽にバレたら、土下座してでも欲しがるかもしれない。あれは佐久間が胡桃のために書いてくれたものなのだ。たとえ水羽が佐久間の大ファンであろうと、絶対に渡したくない。
「あとこれ。前に話してた本、持ってきた」
「あ、ありがとうございます……」
「世間的な評価は高くないんだけど、ファンのあいだでは最高傑作との呼び声も高くて……あ、また早口になってるな。このへんにしとこ」
いつになくテンションの高い水羽に、胡桃は苦笑いを返す。彼のことは嫌いではないし、佐久間の作品の感想を言い合うのは楽しいけれど、それよりも今は周囲の目が気になった。
少し離れたテーブルでは、水羽の同期である前川梢絵が座っているのが見える。他の女子社員と一緒に、こちらを見てヒソヒソ話をしているようだった。絶対悪口言われてる、と胡桃は冷や汗をかく。もともと、胡桃は梢絵たちに嫌われがちだというのに。
(せめて、夏原先輩の隣に座ってくれればよかったのに……!)
さすがの梢絵も、完璧超人である栞に対しては一目置いているらしく、強気に出ることは少ない。胡桃の正面にいる栞は、水羽のことも梢絵のことも気にする様子もなく黙々とお弁当を食べている。手作りなのか、弁当箱に入った卵焼きの形がちょっと歪で可愛い。なんでもできるひとだけれど、あまり器用な方ではないのかもしれない。
しばらく佐久間の作品について熱く語っていた水羽だったが、ふと思い出したように「そういえば」と話題を打ち切る。ちょうど弁当を食べ終えた栞に向かって、尋ねた。
「夏原さんって、技術課の香西彰人と同期だったよね?」
突如として水羽の口から飛び出してきた元カレの名前に、胡桃の心臓はドキッと大きく跳ねた。ずいぶんと久しぶりに、その名前を聞いた気がする。
栞は弁当箱を片付けながら、なんだかものすごく嫌そうな顔で「……そうですが」と答える。あまりにも露骨な反応に、水羽は申し訳なさそうに声をひそめた。
「……あ、ゴメン。もしかして仲悪い?」
「いいえ。そもそもほとんど関わりがありません。関わるつもりもありませんが」
栞はきっぱりと言ったが、傍で聞いている胡桃でさえ(大嫌いなんだろうなあ……)と感じ取れる声色だった。一体彰人は、栞に何をしたのだろうか。知りたいような、知りたくないような。
「夏原さんの代、イケメン多いよな。福岡支店にいる
「……香西くんが何か?」
「あ、いや。アイツ、もうすぐ結婚するらしいからさ。夏原さん、知ってるかなーって」
「え!?」
声をあげて立ち上がったのは、胡桃の方だった。さっきまで興味なさげにしていた栞が、驚いたようにこちらを見る。
「糀谷さん、どうしたんですか」
「……あ、い、いえ」
「あれっ、糀谷さんアイツと知り合いだったの? 関わりあったっけ?」
水羽に問われて、胡桃は引き攣り笑いを浮かべて「ちょっとだけ」と答えた。必死で動揺を押し隠しながら、ノロノロと腰を下ろす。
モソモソとお弁当のエビフライを口に運んだが、ちっとも味がわからなかった。周囲のざわめきも、まったく耳に入らなくなっている。
(彰人くんが、結婚する……)
胡桃は膝の上でぐっと拳を握りしめたまま、小さな声で尋ねた。
「……香西さん、恋人いらっしゃったんですか」
「あー、なんか学生の頃からずっと付き合ってるらしいよ。東京と大阪の遠距離恋愛だってさ。一途だよなー」
どこが一途なの、と言い返したくなるのを必死で堪える。要するに胡桃は、遠距離でなかなか会えない恋人の代わりに、慰み者となっていただけなのだ。そんなことにも気付かず、一人で浮かれていた。
(やっぱり、佐久間さんの言う通り……本命が、他にいたんだ……わたし、遊ばれてた……)
薄々気付いてはいたことだけれど、やはりショックが大きい。落ち込んでいる胡桃の様子に気付いたのか、水羽が遠慮がちに問いかけてきた。
「……なんか、ごめんね。もしかして糀谷さん、香西のファンだった?」
「い、いえ。全然。まったく!」
胡桃は力強く否定する。すると水羽は、何故だかホッと安心したような表情を浮かべた。それから腕時計に視線を落として、「やべ。俺もう出なきゃ」と慌ただしく立ち上がる。
「じゃあね糀谷さん、またゆっくり話そう」
「……はい……」
「そうだ、夏原さん。技術課のやつらが、二次会の余興動画作るのに、香西の同期のメッセージ集めてたけど……」
「断固お断りします」
「……ですよねー。失礼しました」
水羽は小さく肩をすくめて、「それじゃあ」と片手を上げて立ち去っていく。下を向いたままモグモグとブロッコリーを食べている胡桃に、栞は心配そうに言った。
「……糀谷さん。あなた、香西くんと何かあったの?」
「……いいえ……何も」
胡桃は下手くそな笑みを浮かべて、首を横に振る。栞は痛ましそうに眉を下げて、言葉を選びながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「…本人のいないところで、こういうことを言いたくないけれど……彼には近付かない方がいいわ。……あまり、いい噂を聞かないから」
「……」
必死で平静を装ってはいたけれど、胡桃の心の中はぐちゃぐちゃになっていた。卵と砂糖と薄力粉と生クリームを、全部ボウルに入れてハンドミキサーでかき混ぜたあとのような感じ。このまま型に入れてオーブンで焼いてしまえば、甘くてちょっぴりほろ苦いだけの思い出になるのだろうか。
(……お菓子作りたい……生クリームを添えた、お布団よりもふわっふわのシフォンケーキがいい……)
「……あなたは脇が甘そうだから……悲しい思いをしないか、心配です」
栞の口調はいつものように平坦なものだったけれど、胡桃への気遣いに満ちていた。もう手遅れです、とは言えず、胡桃は力なく微笑む。「そうですね」と答えた声は、少し掠れていた。
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