30.胡桃とクルミのキャラメリゼ
一週間の仕事を無事終えた、金曜日の夜。駅ビルの8階にある本屋に足を踏み入れた胡桃は、一目散に小説の新刊コーナーへと向かった。
これまであまり活字に馴染みのなかった胡桃は、本屋に来ても手に取るのはお菓子のレシピ本ばかりで、小説を買いに来たことはほとんどない。しかし今日ばかりは、お目当ての本があるのだ。
新刊が並べてある棚にやって来たが、目的の本は置いていなかった。事前に予約をしているため、手に入らないことはないのだが、胡桃はかなりがっかりした。いやしかし、と思い直し、タイミングよく通りかかった店員に声をかける。
「あの、今日発売の……佐久間諒の新刊ってありますか?」
「あー。はいはい、こちらです」
黒縁の眼鏡をかけた店員は、ほんの少し筑波嶺大和に雰囲気が似ていた。なんとなく親しみを覚えながら、彼の後ろをついていく。
「新刊もここにまとめて置いてるんですよ」
「わ、すごい!」
胡桃は思わずはしゃいだ声をあげた。案内された先には、佐久間諒の作品ばかりが集められた特設コーナーがあったのだ。〝もうこれ以上読みたくない! なのに読む手が止められない!〟と書かれたポップまで置いてある。平積みされた新刊のみならず、既刊もずらりと並んでいた。
(やっぱり佐久間さんってすごい! ほんとに人気作家さんなんだ……)
嬉しくなった胡桃は、スマートフォンを取り出して店員に尋ねる。
「写真撮っても大丈夫ですか? 友達に見せたいので」
友達、というより、見せたいのは作者である佐久間本人なのだが。眼鏡の店員はにこやかに頷いてくれた。
「はい、結構ですよ。SNSに投稿いただいても大丈夫です」
ありがとうございます、と礼を言ってから、胡桃は二、三枚写真を撮った。それから新刊を一冊手に取って、レジへと向かう。予約していたぶんと合わせて、合計二冊お買い上げだ。
ずっしりと重たい、ハードカバーの単行本が入った袋を抱きしめて、胡桃は足取りも軽やかに地下鉄に乗り込んだ。
「佐久間さーん! 新刊発売おめでとうございます!」
帰宅してすぐさま隣の部屋に突撃した胡桃は、家主が現れるなり、購入したばかりの新刊を高々と掲げた。
「なんだ、お菓子を持って来たわけじゃないのか」
どうやら期待していたらしい佐久間は、あからさまにがっかりした様子を見せる。まさか追い返すつもりかと一瞬身構えたが、彼は「入れ」と胡桃を迎え入れてくれた。
「あっ、こんばんは。さっそく買ってくださったんですね! ありがとうございます!」
どうやら大和も来ていたらしく、胡桃が持っている本を見て瞳を輝かせた。仕事中ならお暇しようかと思ったのだが、佐久間が無言で隣の椅子を引いたので、胡桃はそのまま腰を落ち着ける。佐久間はそのままキッチンに行って、三人ぶんの紅茶まで淹れてくれた。今日は手ぶらなのでなんだか申し訳ない。
「すみません、何かお菓子作ってくればよかったですね」
「いやいや、新刊買ってくださっただけで充分ですよ!」
「なんで筑波嶺くんが勝手に答えるんだ。俺はお菓子も欲しかったぞ」
「発売日に買ってくださるのはありがたいです。やっぱり初動が大事ですから」
「ちゃんと予約して買いましたよ! そういえば会社の近くの本屋さん、佐久間諒の特設コーナーがあったんです! ほら!」
胡桃がスマホを差し出すと、佐久間と大和が覗き込んでくる。大和は「うわー、すごい!」と眼鏡の向こうの目を細めた。
「書店員の中に佐久間先生のファンがいるんですかね? あるいは、ウチの営業が頑張ってくれたのかも。どこの書店ですか? 今度お礼しに行きます」
大和が本当に嬉しそうにしているので、胡桃まで嬉しくなってきた。胡桃が「売れるといいですね!」と言うと、佐久間と大和は声を揃えて「死ぬほど売れますように……」と拝み始める。普段は神など信じていなさそうな佐久間まで必死になって拝んでいるのが、なんだかおかしい。
「佐久間さんにも、そういう……バカ売れして印税生活したい、みたいな願望あるんですね」
「べつに、そこまでは言ってない。こちらも生活がかかっているんだから、売れるに越したことはないだろう。……もっとも、売れようが売れまいが、書くこと自体はやめられないんだろうが」
佐久間はそう言って、テーブルの上に置かれた紅茶をごくりと飲む。喉仏が動くのを横目で見つめながら、やっぱりこのひとの顎から首にかけてのラインはセクシーだな、とこっそり惚れ惚れしてしまった。
「そうだ、佐久間さん。よかったら、新刊にサインしてください!」
胡桃が二冊買ってきた単行本のうちの一冊を差し出すと、佐久間はなんだか微妙な顔をした。
「……きみはしょっちゅう顔を合わせている隣人のサインを貰って、本当に嬉しいのか」
「え、嬉しいですよ! 大事にします!」
胡桃がきっぱり言うと、佐久間は溜息をついてから、テーブルの脇にある小物入れに手を伸ばした。サインペンを取り出すと、本を開いてサラサラと書き始める。それを見ていた大和が、驚いたように目を丸くした。
「す、すごい。佐久間諒のサイン本なんて、この世にほとんど出回ってないですよ。激レアです。僕にもください!」
「何を言ってるんだ。担当作家のサイン本を貰う編集者がどこにいる」
サインを書き終えた佐久間は、「ほら」と言って、新刊を胡桃の頭の上にポンと乗せた。
「メルカリで売るなよ」
「売りませんよ! わーっ、ありがとうございます!」
胡桃がニコニコと言うと、佐久間は照れたようにぷいと視線を逸らした。表紙を開いた裏側に、〝佐久間諒〟という独特な字体のサインがある。その隣に〝糀谷胡桃さんへ〟と書かれているのを見て、胡桃はおやと眉を上げた。
「……わたしの名前……」
「ああ、転売防止だ」
「佐久間さん、わたしの名前ちゃんと覚えてたんですね」
胡桃の言葉に、佐久間はむっとしたように唇を尖らせる。
「当たり前だろう。俺の記憶力を舐めるな」
「だって、いっつも〝きみ〟とか〝おい〟とか呼ぶじゃないですか」
「そういえば、僕の前でも〝彼女〟としか言いませんよね!」
大和はやけに楽しそうに身を乗り出してきた。佐久間は心底面倒臭そうに、ティーカップを口に運んでいる。
「別にそれで通じるなら、わざわざ名前を呼ぶ必要はないだろう」
「そうですか? わたしは結構自分の名前気に入ってるので、呼んでほしいです!」
「そうですよ。可愛い名前ですよね、〝胡桃さん〟」
「どうしてきみが名前で呼ぶんだ。馴れ馴れしいだろ」
佐久間は大和をギロリと睨みつけた。大和は気にした様子もなく、ニヤニヤ笑いを顔いっぱいに浮かべている。
「えー、別にいいですよね? 胡桃さん」
「はい、全然問題ないです」
「……」
「そんなに気に入らないなら、先生も名前で呼んでみたらどうです?」
「そうですよ! ちょっと呼んでみてください。胡桃さんでも胡桃ちゃんでもいいですよ!」
「…………断る」
ひねくれ者の隣人は、唇をへの字に曲げて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。胡桃と大和はしつこく佐久間の肩を揺さぶったが、彼が胡桃の名前を呼ぶことはついぞなかった。
一夜明けた土曜日。ポカポカと陽光が降り注ぐ、長閑な昼下がり。胡桃は頑なな男に名前を呼んでもらうべく、強硬手段に出ることにした。
製菓用の生クルミを、160℃に予熱しておいたオーブンでローストする。粗熱が取れたら、薄皮を剥がしておく。フライパンにグラニュー糖と水を入れて、沸騰させてしっかりと煮詰める。
カラメル色がつく直前で火を止めて、すぐにクルミを加えて、木べらでよく混ぜる。手早く混ぜていくと、次第に表面がキャラメル化していく。ほどよいところでバターを加えて、再び混ぜる。
オーブンシートの上に広げて、ばらばらにして冷ましたら、クルミのキャラメリゼの完成だ。パウンドケーキなどに入れるのもいいけれど、そのまま食べてもとっても美味しい。
胡桃はクルミのキャラメリゼを透明な容器に入れると、佐久間の元へと向かった。しばらくして顔を出した佐久間は、虚な目でいつも以上のボサボサ頭だった。きっと寝ていたのだろう。寝惚け眼の佐久間に向かって、胡桃はずいっと容器を差し出す。
「……お菓子」
「そうです! よかったら、おひとつどうぞ」
胡桃が容器の蓋を開けると、佐久間は人差し指と親指でクルミを掴んだ。未だ覚醒しきらない顔で口に放り込んで、「……うん、美味い」と頷いている。
「……これは、クルミか?」
「はい、胡桃です」
「……シンプルだが、無限に食べたくなる美味しさだな。クルミの香ばしさとキャラメルの甘さがやみつきになる」
寝惚けているくせに、お菓子のこととなるとずいぶん饒舌である。リスのようにクルミを頬張る佐久間に向かって、胡桃はニコニコと尋ねる。
「佐久間さん、胡桃はお好きですか?」
「……ああ、好きだ。ブラウニーやスコーンに入れてもいいし、メープルシロップにもチョコレートにもキャラメルにも合う」
胡桃はにんまり笑って、佐久間の顔をじいっと見つめた。寝起きの男は、胡桃の策略に未だ気付いていない。
「……佐久間さん、何が好きなんですか?」
「? だから、クルミが」
「もう一度、最初から最後までお願いします」
「……くるみがす……き…………」
そこでようやく罠にかかったことに気付いたのか、佐久間は中途半端に口を開けたまま固まった。ようやく覚醒したらしく、みるみるうちに耳まで真っ赤になる。あら可愛い、と思って見つめていると、パチンと額を軽く叩かれた。
「……いい大人をからかって遊ぶんじゃない」
胡桃は悪戯っぽくニッコリ笑って、「作戦成功です」とピースサインをしてやった。
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