29.仲直りモンブラン(2)

 食事のあと、最後に全種類のドルチェを堪能した胡桃は、大満足で店を出た。特にティラミスは絶品で、上品なエスプレッソが香るスポンジも、濃厚でありながら口当たりが軽いマスカルポーネクリームも素晴らしかった。今度レシピを調べて自分でも作ってみよう、と決意する。


(もし作ったら、佐久間さんにも食べてもらえるかな……)


 そんなことを考えていると、会計を終えた水羽が店から出てきた。バッグから財布を出そうとした胡桃と栞を、彼は笑って押し留める。


「いや、いいよ。俺が誘ったんだし、こう見えても意外と稼いでるから」

「……すみません。ごちそうさまです」


 思う存分食べた手前、申し訳なさはあったが、お言葉に甘えることにした。


「二人とも、どうやって帰るの?」

「歩いて帰ります。私のマンション、すぐそこなんです」

「あっ、じゃあ送って……」

「結構です。会社のひとに住んでいるところを知られたくないので。それでは水羽主任、ごちそうさまでした。糀谷さんも、お気をつけて帰ってください」


 栞はそう言って頭を下げると、一切の未練も見せずに颯爽と歩いて行った。二次会に行きましょう、なんて言い出す隙さえまったく与えない。胡桃と水羽は、苦笑いで彼女の背中を見送る。かなりたくさんワインを飲んでいたはずだが、背筋はピンと伸びており、歩き方もしゃんとしていた。


「夏原さんらしいなー。今日誘って来てくれたのも奇跡だよ」

「わたし、夏原先輩のああいうところ大好きです」


 水羽は腕時計に視線を落としたあと、「糀谷さん、家どこ?」と尋ねてくる。胡桃は素直に最寄駅を答えた。


「じゃあ、タクシー拾って帰ろう。俺の帰り道だし、途中で降りたらいいよ」

「え、いいんですか。じゃあご一緒します」

「会社のひとに住んでるとこ知られるのは平気?」

「はい、平気です」


 それから水羽はタクシーを一台捕まえて、二人は並んで後部座席に腰を下ろした。運転手がいるとはいえ、男のひとと車内で二人きり、というシチュエーションはなかなか緊張するものだ。


「糀谷さん。今日、来てくれてありがとう」

「い、いえ! あの、わたし……お邪魔だったんじゃ」

「えっ、そんなことないよ! そもそも俺が夏原さんに頼んで、糀谷さんを誘ってもらったんだし」

「そ、そうなんですか?」

「一回糀谷さんとゆっくり話したかったんだ。やっぱ一課と二課だと、なかなか交流もないし。でも、ほんとに楽しかった」

「私も楽しかったです。また三人でごはん行きましょうね!」

「……三人で、かあー……うん、そうだね」


 水羽はなんだか微妙な表情を浮かべつつも、笑って頷いてくれた。夜の街明かりに照らされた横顔は、やっぱりなかなかイケメンだった。


 タクシーに乗って15分ほどで、胡桃のマンションの前に到着した。お金を払おうとする胡桃に、水羽は「いいよ。気にしないで」とかぶりを振る。


「何から何まですみません。ありがとうございました」


 最後にもう一度お礼を言ってから、タクシーを降りようとする胡桃を、水羽は躊躇いがちに「待って」と呼び止めた。やや言いづらそうに、唇を湿らせてから口を開く。

 

「その……糀谷さん、佐久間諒の〝荒城の狼〟は読んだ?」

「いいえ、まだです」

「よ、よかったら今度貸すよ。俺の一番好きな作品なんだ。それで……えーと、か、感想聞かせて」

「はい、ぜひ!」


 胡桃が頷くと、水羽はほっとしたように息をつく。それからいつもの優しい笑みを浮かべて、「じゃあ、おやすみ」と言った。


 水羽の乗ったタクシーが見えなくなってから、胡桃はマンションへと入っていく。

 時刻はまだ22時前だ。マッチングアプリで出逢った男に比べて、水羽のなんと紳士的なことか。そういえば彰人との関係も、飲み会の後でなし崩し的に胡桃の部屋にやって来たことがキッカケだった。あのときの胡桃は浮かれていたが、まともな男性は交際してもいない女性の部屋に、いきなり上がり込んだりしないのだ。今までの胡桃は、そんな簡単なことにすら気付けなかった。

 15階に上がって、エレベーターから降りる。と、胡桃の部屋の前に、誰かが立っていた。むすりと不機嫌そうな顔をして、虚空を睨みつけている。


「……佐久間さん……」


 よく見知った男の名前を呼ぶと、彼はちらりと目線だけをこちらに向けた。


「遅かったな」

「……会社の先輩たちと、ごはん食べてたんです」

「……」

「あの、佐久間さんは」

「入れ」


 佐久間は胡桃の言葉を最後まで聞くことなく、自分の部屋の扉を開けた。胡桃は(やっぱり勝手なひと)と内心憤りつつも、素直に従う。

 いつもの癖でダイニングチェアに腰掛けると、佐久間はキッチンに立って紅茶を淹れ始めた。二人とも黙りこくっているため、カチャカチャというティーセットの音だけが部屋に響く。しばらくすると、ふわりと紅茶のいい匂いが漂ってきた。佐久間は無言のまま、胡桃の前にティーカップとケーキプレートを置く。

 

「……わあ、美味しそう!」


 気まずさも忘れ、胡桃は思わず感嘆の声をあげた。

 洒落たストーンプレートの上に乗せられていたのは、モンブランだった。繊細なマロンペーストの上に、ツヤツヤと輝く栗が乗せられて、上から雪のような粉糖がふりかけられている。


「どうしたんですか、これ!?」

「〝ソレイユ〟のモンブランだ。今日買いに行ったら、最後のひとつだった」

「わたしが食べてもいいんですか?」

「構わない」


 つい先ほど、たっぷりドルチェを楽しんだところではあるけれど、こんなに美味しそうなモンブランを目の前にして食べないという選択肢はない。佐久間ほどではないにせよ、胡桃もかなりの甘党なのだ。


「紅茶はアッサムのミルクティーにした。アッサムの香りは栗と近いものがあるため、モンブランとの相性が抜群だ」

「へー、なるほど。いただきます」


 胡桃は両手を合わせて、慎重にモンブランの山を崩し始めた。口の中でほどけるマロンクリームは濃厚で、和栗の風味がかなり強い。ややあっさりとした風味の生クリームが、マロンクリームをさらに引き立てている。土台のダックワーズはサクサクで、ほどよい甘さのバランスが良かった。


「……美味しい!」


 そう言った胡桃の顔を見て、佐久間はほっとしたように表情を緩める。

 うっとりとモンブランを頬張る胡桃を、ものすごく羨ましそうな目つきで見ているので、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。視線の熱に押し負けた胡桃は、おずおずとケーキプレートを差し出した。


「あの。半分こしましょうか」

「……いや、俺はいい。きみのために買って来たものだ」

「でも、そんな目で見られてると食べにくいです……わたしさっき甘いものたくさん食べたので、よかったらどうぞ」


 胡桃はモンブランを半分に切り分けて、揃いのプレートの上に乗せた。佐久間はやや躊躇いつつも、甘味への欲求には勝てなかったのだろう。渋い顔で「……いただこう」と受け取った。

 さすが佐久間のイチオシということもあり、胡桃が今まで食べた中で最高のモンブランだった。アッサムのミルクティーとの相性もばっちりだ。仲良くモンブランを分け合った二人は、「ごちそうさまでした」と揃って手を合わせる。


「……美味しかったです。けど……急に、どうしたんですか」


 胡桃は紅茶を飲みながら、怪訝な目つきで尋ねる。まさか胡桃にモンブランを食べさせるために、部屋の前で待ち伏せをしていたわけではあるまい。佐久間は頬杖をついて、じっとこちらを見つめていた。


「……機嫌は直ったか」

「え?」

「食べたかったんだろう。モンブラン」


(……もしかして、このひと。わたしがモンブラン食べたくて、あんなに怒ってたと思ってるの!?)


 それはあまりにも、胡桃を馬鹿にしている。胡桃は膨れっ面で、佐久間をじろりと睨みつけた。

 

「わたし、そんなこと一言も言ってないですけど!」

「じゃあ、なんであんなに怒ってたんだ。理由を教えてくれ」

「……」


 とはいえ、教えてくれ、と言われてもちょっと困る。原因がモンブランでないことは確かだが、胡桃自身もどうしてあんなに腹を立てたのか、よくわからないのだ。

 胡桃が下を向いたまま押し黙っていると、佐久間は困り果てたように髪をぐしゃぐしゃと掻きむしり、ポツリと呟いた。

 

「……でないと、こちらも謝りようがない」


(……もしかして、このひと。わたしと仲直りするために、ここに来たの?)


 胡桃が腹を立てた理由を考えて、わざわざモンブランを買いに行って、いつ帰ってくるかもわからない胡桃を、部屋の前でずっと待っていたのか。

 胡桃は顔を上げて、佐久間の顔を見つめる。いつも眠そうな彼の黒い瞳は、ほんの少しだけ不安げな光を湛えて、まっすぐに胡桃のことを見据えていた。


「なん、で……」

「うん?」

「なんで、モンブランまで買って……わたしのこと待ってたんですか? わたしのことなんて、面倒臭いと思ってるんでしょう。それなら、ほっとけばよかったのに」


 邪魔になった胡桃をあっさりと捨てた元カレのように、佐久間も胡桃に見切りをつければよかったのだ。胡桃は膝の上で拳をぎゅっと握りしめて、言葉を絞り出すように続ける。

 

「……この世界には、わたしが作るもの以外にも、美味しいお菓子はたくさんあります。佐久間さんがわたしにこだわる理由なんて、何もないじゃないですか……」


 胡桃が言うと、佐久間はなんだか怒ったような、それでいて悲しそうな表情を浮かべた。いつものように眉間に皺を寄せて、顰めっ面のまま口を開く。


「きみは、自分の価値を低く見積りすぎだ」

「……わたしに、価値なんて……」

「この世に美味いものはたくさんあるが、きみが作るお菓子はきみにしか作れない。俺は、好きなんだ。もっと誇りに思った方がいい」


(こんなふうに、わたしの価値を認めてくれるひとが……一体他に、どれだけいるんだろう)


 自分に唯一無二の〝何か〟があるなんて、考えたこともなかった。それを教えてくれたのは、他でもない佐久間なのだ。

 胡桃がじっと黙っていると、佐久間はモゴモゴと口ごもったあと、やや言いづらそうに付け加える。


「……あー……あと。面倒臭い、と言ったのは……悪かった。面倒臭いと感じたのは事実だが、きみが面倒臭いのは今に始まったことではない」

「……ひ、ひどい。なんですか、それ」


 怒ろうと思ったのに、胡桃はうっかり笑ってしまった。このひとは胡桃のことを心底面倒臭いと思っているのに、それでもわざわざモンブランを持って仲直りをしに来たのだ。

 なんだかおかしくて嬉しくて、くすくすと笑みをこぼす胡桃に、佐久間は「何を笑ってるんだ」と唇を尖らせる。すっと心が軽くなった胡桃は、佐久間に向かって素直に頭を下げた。

 

「……一方的に怒ったりして、ごめんなさい。もうお菓子作らないって言ったのは、撤回します」

「……本当か。なら、よかった」

「だから、あの……わたしの作ったお菓子、また食べてくれますか?」


 胡桃の言葉に、佐久間は心底安堵したような表情を浮かべた。

 

「当たり前だ。……きみのフィナンシェを食べられないなんて、一生後悔するところだったぞ。もう少しで筑波嶺くんを締め殺すところだった」

「ふふ、ごめんなさい。今度また作りますね。次はマロンフィナンシェにしようと思ってたんです!」

「楽しみだな。次は絶対食わせてくれ」

「はい、約束します」


 胡桃が差し出した小指を、佐久間はおそるおそる握り返してくる。ゆびきりげんまん、と指を軽く振ると、恥ずかしそうに「やめろ」と言われる。テーブルの上で繋いだ小指は、驚くほどに温かかった。

 なんだかこそばゆいのに、このぬくもりを離すのが惜しくて、胡桃はいつまでも彼の指を握りしめたままでいた。

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