28.仲直りモンブラン(1)
それから一週間以上経っても、胡桃のモヤモヤはいっこうに晴れなかった。
ストレス解消のためにお菓子を作っても、佐久間に差し入れる気にもなれず、栞にばかり差し入れている。大量のお菓子を持ってくる胡桃に、栞は「ありがたいけれど、これ以上はさすがに太ります」とちょっとげんなりしていた。
今日はようやく金曜日。定時を過ぎてもカタカタとキーボードを叩いている胡桃に向かって、定時ぴったりに業務を終えた栞が声をかけた。
「糀谷さん。終わりそう?」
「あ、はい。この書類作ったら終わります」
「そう。じゃあ、先に着替えてるわね。水羽主任は、直接店に来るらしいから」
「え?」
キョトンとした胡桃を見て、栞は呆れたように肩をすくめる。
「……忘れたの? 今日、三人で食事に行く予定だったでしょう」
「……あ」
言われて、はっと思い出す。申し訳ないが、すっかり忘れていた。栞と飲みに行くのを、あんなに楽しみにしていたのに。佐久間のことで、頭がいっぱいになってしまっていたのだ。
胡桃の反応を見て、栞は「まさか、他に予定入れちゃった?」と怪訝そうな顔をする。
「いえ! まったく問題ないです!」
「そう、よかった。じゃあ、早く終わらせて来てね」
栞はそう言って、「お先に失礼します」と課長に頭を下げてからフロアを出て行った。胡桃も余計な仕事を押し付けられぬよう、猛スピードで書類の作成を終えて、パソコンの電源を落とした。
ロッカールームに行くと、何人かの女性社員の輪から少し離れたところに栞がいた。既に私服に着替えており、軽くメイクを直しているようだ。
きゃあきゃあとはしゃいでいる女子社員の輪の中心は、前川梢絵だった。一応「お疲れさまです」と挨拶をしたが、彼女はまるで聞こえなかったかのように胡桃を無視した。いつものことなので、気にしないことにする。
それから胡桃は、輪に加わることなく着替え始める。飲みに行くことをすっかり忘れていたので、シンプルなボーダーニットに黒のスカートという地味な格好で来てしまった。そもそも胡桃は、それほど服にお金をかけるタイプではない。
軽くファンデーションだけを直して、胡桃と栞は一言も言葉を交わさないままロッカールームを後にした。どこで誰が聞いているかもわからないし、水羽主任と飲みに行く、などと口が裂けても言えない。もし梢絵にバレては、またあれこれと陰口を叩かれてしまうだろう。
二人で地下鉄に乗って、水羽が予約してくれたイタリアンの店にやって来た。店内はカジュアルな雰囲気だけれど騒がしすぎず、さりげないインテリアにもこだわりが見えてお洒落だ。奥のテーブル席に並んで座った胡桃と栞は、メニュー表を覗き込む。
「わっ。ワインの種類が豊富ね」
栞が嬉しそうに言うので、胡桃もずらりと並ぶワインリストを眺める。辛口とか甘口とか赤とか白とかロゼとか書いてあったけれど、胡桃には今ひとつ違いがわからない。
「わたし、あんまりお酒飲めないんですけど……夏原先輩は、お酒飲むほうですか?」
「そうね。でもあなたが飲めないのなら、無理に付き合うことはないわ」
「うーん、今日はお酒やめときます……水羽主任、そろそろ来るかな。先に食べたいもの考えときましょうよ」
「私、クワトロフォルマッジが食べたいわ。あとチーズの盛り合わせを頼みましょう」
「あっ、ティラミス食べたいなー。パンナコッタとジェラートも美味しそう……ねえねえ夏原先輩、全部頼んで半分こしませんか?」
「あなた、もうデザートのことを考えているの? 食事が終わってから検討しなさい」
早々にドルチェのページを眺めている胡桃を、栞は軽く諌める。こういうとき、佐久間だったら食事そっちのけでドルチェを注文するのだろうなあ、と考えて、また少し気分が落ちた。
二人であれこれ言い合っているうちに、水羽がやって来た。シックなネイビーのスーツに、無地のブラウンのネクタイを合わせている。相変わらず、爽やかさを濃縮還元したような男だ。彼をお菓子に例えるならレモンサワークリームのヨーグルトケーキだな、と胡桃はぼんやり考える。
「ごめん、ちょっと遅くなった」
「水羽主任、お疲れさまです」
「待っててくれたんだ。先に食っててくれてもよかったのに」
水羽はそう言いながら、胡桃の正面の席に座る。「何食いたい?」と笑ってメニューを差し出してくるので、「わたしたち、もう食べたいもの決めちゃいました!」と笑って答える。
「とりあえず飲み物頼もうか。俺はワインにしようかな。ボトルで頼む?」
「いえ。糀谷さんが、あまり飲めないらしいので。私は赤ワインのグラスにします」
「あ、そうなんだ。糀谷さん、好きなの頼んで」
「えーと、じゃあ……このブラッドオレンジジュースにします」
それから水羽がてきぱきと注文してくれて、三人で「お疲れさま」と乾杯をした。あらためて、この会合って何の集まりなのかしら、という疑問が湧いてくる。
ワイングラスを傾けている水羽と栞は驚くほど絵になっており、胡桃はなんだか自分が場違いな気がしてきた。年齢も近く美男美女である二人はなんだかお似合いで、自分だけがこの場から浮いているような気がする。そもそも水羽が胡桃を誘ってくれたのも、栞のオマケだったのでは。
そんな風に疑心暗鬼になっていると、水羽がこちらを向いてニコッと笑いかけてくれた。
「今日、急に誘っちゃってごめんね。予定とか大丈夫だった?」
「は、はい全然! いつも暇なので!」
「前に美味しいお菓子貰っちゃったから、ずっとお礼したくてさ。今日はどんどん好きなもの食べて」
「あ、ありがとうございます……! じゃあ、あとでドルチェ全種類頼んでもいいですか!?」
「あはは、やっぱ糀谷さん甘いもの好きなんだね。女の子って感じで可愛いなー」
天然タラシはそう言って笑ったが、胡桃の隣に住む可愛くない甘党男が聞いたら「甘いものを好むのに性別が関係あるのか」と言いそうだな、と思った。
栞と水羽との三人の飲み会は、意外なほどに楽しかった。運ばれてくる食事はどれも気取らないのに美味しく、前菜の盛り合わせもパスタもピザも絶品だった。
水羽は穏やかで気の回るタイプであり、胡桃に飲酒やお酌、サラダの取り分けを強要することもない。職場の人間の悪口を言ったり、独りよがりな自慢話を繰り返したりしない。口数が多い方ではない栞と胡桃に上手く話題を振って、時に冗談を飛ばして場を盛り上げていた。
「糀谷さんって、お休みの日とか何してるの?」
「えーと、おかし……じゃなくて、本とか読んでます」
お菓子作り、と言いかけて慌てて言い直す。水羽にはもうバレているとはいえ、お菓子作りを「女子力アピール」だと思われるのは心外である。余計なことは言わずにおこう。最近は佐久間の作品をよく読んでいるから、嘘ではない。
「え、そうなんだ。俺もめっちゃ本読むよ。休みの日なんか、一日眼鏡にジャージで読書かゲームしてる」
「インドア派なんですね。ちょっと意外かも」
「はは、よく言われる。そーいや夏原さんもかなり本読むんだっけ。一回、休みの日に本屋で会ったもんね」
「そうですね。私はミステリーが好きです。水羽主任、佐久間諒の作品がお好きなんですよね」
栞が言うと、水羽はやや動揺したように視線を泳がせた。なんだか気まずそうな顔つきで、「……いや、もーちょいライトなのも読むよ」と頬を掻く。
「糀谷さんも、佐久間諒がお好きらしいので」
「えっ!? す、すき!?」
栞の発言に、胡桃の心臓はドキッと跳ねた。いやいや好きとかそんなんじゃ、と慌てて否定しかけて、小説の話だと思い直す。いったい何を動揺することがあるのだろうか。
「そうなの!? 俺、佐久間諒作品好きな女の子初めて会った! うわ、すげー嬉しい!」
水羽は勢いよく立ち上がると、胡桃の両手を取ってぶんぶんと振り回した。普段からは想像できないテンションの高さだ。呆気に取られている胡桃を見て、ハッと我に返ったように手を離す。
「……あ、ごめん。いや、佐久間諒が好きって言ったら、猟奇趣味の変態とか永遠の厨二病とか言われることが多くてさ……」
「そ、そんなことないですよ。私も好きです。めちゃめちゃ気分悪くなりますけど、面白いですよね!」
ジャンルは違えど、自分の趣味を馬鹿にされる悲しさや悔しさはよくわかる。胡桃の言葉に、水羽は頬を紅潮させながら身を乗り出してきた。
「そうそう! 臭いとわかってるのに嗅ぎたくなるというか! ここ数年はちょっと大衆向けに洗練されてきてるけど、俺は陰鬱さが全面に押し出された荒削りな初期作品群が特に好きで……」
「水羽主任。オタク特有の早口になってますよ」
「あ、やべ」
栞に注意されて、水羽は申し訳なさそうに照れ笑いを浮かべた。どうやら想像以上に熱の入ったファンらしい。筑波嶺大和といい、「コアでマニアックなファンが多い」というのは嘘ではないのだろう。
(……やっぱり佐久間さんって、すごい……)
こんなにもひとの気持ちを掴んで離さないなんて、彼にはやはりすごい才能があるのだ。もともと、胡桃とは住む世界が違う人間だったのかもしれない。
――俺にしてみれば、こんなに美味いお菓子を作れる方がよほど凄い。天才はきみの方だ。
いつかの佐久間の言葉を思い出して、そんなことない、と心の中で否定する。胡桃はお菓子作りが好きなだけの、ただの凡人だ。
佐久間は胡桃の作ったお菓子を気に入ってくれているけれど、この世には他にも美味しいお菓子がある。彼にしてみれば胡桃に固執する必要なんて、少しもないのだ。
(……でも、わたしのお菓子をあんなに美味しそうに食べてくれるひとは、他にいない)
本当は、ちっとも「持ちつ持たれつ」じゃなかった。胡桃にとっての佐久間は唯一無二だけれど、佐久間にとってはきっとそうではない。
(やっぱり、ちゃんと謝って仲直りしよう……)
そもそも胡桃が一方的に腹を立てているだけなのだから、お菓子でも渡して、一言「ごめんなさい」と言えば、きっと丸く収まるはずだ。……彼が、胡桃に愛想を尽かしていなければ。
面倒臭いな、という呆れた声を思い出して、ひやりと背中が冷たくなる。明日は土曜日だし、早急に何か作って持って行くことにしよう。
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