27.やきもちバニラフィナンシェ(3)
「……」
「佐久間先生、あんま睨まないでくださいよ。今にも人殺しそうな顔してますよ」
「……なんなんだ、あの女は。何を考えているのか、さっぱりわからない」
ブツブツと不満げに呟いた佐久間は、恨みがましい目つきでこちらを見てくる。そんな圧をものともせずにフィナンシェを口に運んだ大和は、思わず「うまっ」と声をあげた。
進捗確認のために担当作家の元へと訪れたところ、とんだ修羅場に出くわしてしまった。
いつもはほんわかしたオーラを振り撒いている可愛らしいお隣さんは、珍しく激怒しており、大和にフィナンシェを押し付けて出て行ってしまったのである。とり残されたのは、至極不機嫌そうに表情を歪めた男だけだ。
「このフィナンシェ、マジで美味いっすね。デパ地下で3個600円ぐらいで売ってても全然おかしくないですよ」
そう言って、もう一口フィナンシェを齧る。大和はそれほど舌が肥えているわけではないが、それでもこのフィナンシェが抜群に美味いことはわかった。バターの味をしっかりと感じるのにしつこくなくて、甘すぎずちょうどいい。
佐久間はまるで親の仇でも見つけたかのような目つきで、フィナンシェを頬張る大和を睨みつけている。
「当たり前だ。彼女の作ったフィナンシェがまずいはずがない」
「ほんとに美味いっす。こんな美味いもの食べられなくて残念ですね、先生!」
「寄越せ。一口ぐらい、食べてもバレないだろう」
「いやー、先生にはあげるなって言われちゃったしなあ」
「……なんできみが食べられて、俺が食べられないんだ。どう考えてもおかしい」
「先生、一体何したんですか? めっちゃ怒ってましたけど」
「べつに、何もしていない。彼女が勝手に怒っているだけだ」
佐久間はふてくされたように言ったが、どう考えても「何もしていない」ようには見えなかった。おおかた、佐久間が余計なことを言って彼女を怒らせたのだろう。
当人たちには申し訳ないが、大和は少しワクワクしていた。些細な喧嘩やすれ違いは、ラブコメにおいては恋を盛り上げるスパイスでしかないのだ。もちろん、最終的に元鞘に収まるのが前提ではあるが。ここはひとつ、ラブコメのプロとしてアドバイザーになってやろう。
「じゃあ、遡って原因を考えてみましょう。胡桃さんが怒っていたのはいつからですか?」
「……。……ここへやって来たときには、もう機嫌が悪かった」
「へー。珍しいすね」
「部屋の前で杏子とすれ違ったらしく、さっきの女性は誰かと尋ねられて」
「はいストップ! 杏子さん!? ちょっといったん咀嚼させてください!」
大和は勢いよく手を上げて、佐久間の言葉を制止した。途端に前のめりになった大和に、佐久間は「なんなんだ」とややたじろぐ。
佐久間の従姉である杏子とは、大和も顔見知りだった。一度、三人で食事に行ったこともある。聞けば佐久間は幼い頃から伯父の家で育てられたらしく、杏子とは姉弟同然に過ごしてきたのだという。そのあたりの詳しい事情を、佐久間は教えてくれなかった。
杏子は佐久間の親族とは思えないほど穏やかで親切で、おまけに美人だ。身なりをきちんと整えた佐久間と並んでいると、お似合いのカップルに見えなくもない。
これまで佐久間との微妙な関係に甘んじてきたお隣さんが、今まで女の影を感じなかった隣人の部屋から、美女が出て来るのを目撃したとき。いったい何が起こるのか? ――やきもちイベント一択である。
(杏子さん、いい仕事してくださってありがとうございます!)
「なるほど、完璧に理解しました。続きどうぞ」
「……べつに、詳しく説明するような話でもない。何をしていたのかと訊かれて、二人でモンブランを食べていたと答えたら、どんどん怒り出して……」
「あちゃー」
「面倒臭いな、と言ったら、〝もう二度とお菓子を食べさせてあげない〟と言われただけだ」
そう言って佐久間は、打ちひしがれたようにテーブルに突っ伏した。それだけのことで、普段は鬼か悪魔のような不遜なこの男が、まるでこの世の終わりのような顔をしているのがおかしい。
「佐久間先生。胡桃さんがなんで怒ってたのか、わかります? 先生が、杏子さんとモンブラン食べてたからですよ」
「……。……あの女、そんなにモンブランが食べたかったのか……それとはそうと言えばいいものの」
佐久間は大和の言葉をどう解釈したのか、斜め下の方向に納得したらしい。そんなわけあるかい、と言いたかったが、突っ込むのをやめた。この鈍感唐変木には、何を言っても響くまい。
「それにしても胡桃さん、可愛いこと言いますね。もうお菓子あげません! だなんて」
「……」
「でも、面倒臭いって言ったのは良くないですよ。ちゃんと謝って仲直りした方がいいです」
「……」
ふてくされた顔をしていた佐久間の表情が、どんどん険しいものに変わっていく。腕組みをしたまま怖い顔で黙っているので、大和は「先生?」と首を傾げた。
「……さっきから、気になっていたんだが。〝胡桃さん〟ってなんだ」
「えっ、名前違いましたっけ? たしか、胡桃さんでしたよね」
一度だけ聞いた彼女のフルネームは、たしか〝糀谷胡桃〟だったはずだ。お菓子にぴったりの可愛い名前だと思ったから、よく覚えている。
佐久間は不機嫌そうに人差し指でテーブルを叩きながら、「そういうことを言ってるんじゃない」と眉間の皺を深くする。
「どうして筑波嶺くんが、彼女のことをファーストネームで呼んでいるんだ」
「……へ?」
「そんなに親しいわけじゃないだろう。ちょっと馴れ馴れしいんじゃないのか」
(……意図せずして、こっちでもやきもちイベントを起こしてしまった……!)
大和は拳を高々と掲げてガッツポーズしたくなるのをぐっと堪える。好き好んで当て馬になる趣味はないが、推しカップルの進展のためなら甘んじよう。
あからさまにイライラしている佐久間を煽るように、大和はニヤニヤ笑ってフィナンシェに手を伸ばす。
「いやあ、ほんとに美味しいです。
「……なんっか知らんが……腹立つな。一発殴ってもいいか」
「ちょ、ちょっとストップ」
立ち上がって腕まくりをした佐久間を制して、大和は人差し指をぴんと立てる。
「先生。ラブコメのプロであるこの僕が、先生のイライラの正体を教えて差し上げましょう」
「そんなものにプロもアマチュアもあってたまるか。……一応聞くが」
「それ、やきもちです」
拳を振り上げた体勢のまま、佐久間はかちんと固まる。たっぷり10数秒の沈黙のあと、「なにを馬鹿な」と言った声は裏返っていて、大和は思わず笑ってしまった。
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