26.やきもちバニラフィナンシェ(2)

 胡桃が帰宅すると、隣の部屋の電気が点いていた。きっと佐久間とさっきの女性がいるのだろうが、胡桃はあまり考えないことにした。さっそく、フィナンシェ作りに取り掛かる。

 まず、バターを溶かす。今回使うのは、ちょっと高級な風味のある発酵バターだ。普通のバターよりも濃厚な香りが漂ってきて、胡桃はうっとりする。

 バターを冷ましているあいだに、卵白・砂糖・はちみつ・塩ひとつまみをボウルへ。混ぜたあと、バニラペーストを加える。アーモンドプードルと薄力粉を振るって入れる。よく混ぜたあと、冷ましたバターを再び加える。

 生地を絞り袋に入れて、オイルスプレーを吹きかけた型に入れる。180°に余熱したオーブンで、おおむね15分。オレンジ色の光にじりじりと焼かれるフィナンシェを眺めながら、胡桃は考える。


(……よく、考えたら。身内って言ってたから、お姉さんとか妹さんかもしれないよね……)


 オーブンからバターの甘い香りが漂ってくるにつれて、胡桃のモヤモヤはだんだん落ち着いてきた。佐久間が「恋人はいない」と言っていたのだから、きっとそれは嘘ではないのだろう。こんなことで落ち込んでいるのがバカバカしくなってきた。

 結局追加で3分焼いて、胡桃はオーブンから天板を取り出した。型から外すと、こんがり茶色に焼けた可愛いフィナンシェの完成だ。

 さっそくひとつ、味見代わりに齧りつく。口の中に入れた瞬間、ふわっとバニラが香る。アーモンドと焦がしバター豊かな風味も最高だ。冷めるともう少ししっとりモチモチになるのだけれど、焼きたては外がカリカリ中がフワフワで、また美味しい。

 今回はシンプルなバニラ味にしたけれど、秋らしくマロンクリームと栗の甘露煮を入れた、マロンフィナンシェなんかもいいかもしれない。抹茶とホワイトチョコという組み合わせもいい。今度試してみよう、などと考えているうちに、胡桃はどんどん元気を取り戻していた。


(よし、佐久間さんにも食べさせてあげよう!)


 タッパーにフィナンシェを入れて、胡桃は部屋の外に出る。ちょうど、隣の部屋から女性が出てくるところだった。胡桃はタッパーを抱えたまま、その場で固まってしまう。

 胡桃に気付いたらしい彼女は、軽く会釈をしてから微笑んだ。口角がきゅっと上がり、頬にエクボが浮かぶ、ひどく感じの良い笑顔だった。


「こんばんは」

「……あ、こんばんは……」


 胡桃は頬に貼りついたような、下手くそな笑顔を浮かべる。彼女は当たり前のように持っていた鍵でドアを閉めて、颯爽とエレベーターに乗り込んでいった。


(合鍵持ってるんだ……ほんとに、どういう関係なんだろう)


 せっかく浮かんでいた気持ちが、また少しずつ落ちていく。胡桃はほの暗い思いを抱えながらも、彼の部屋のインターホンを押した。


「なんだ、忘れ物か……って、きみか」


 顔を出した佐久間は、胡桃を見て意外そうな顔をした。おそらく、先ほどの女性が戻ってきたと思ったのだろう。

 わたしですみませんでしたね、と内心拗ねている胡桃をよそに、佐久間はタッパーの中身を覗き込んで、「おお!」と嬉しそうな声をあげる。


「フィナンシェじゃないか! 俺は、ko-jiyaのフィナンシェが世界で一番好きなんだ。これは期待できるぞ」


 ウキウキとダイニングへと向かう佐久間の後ろを、胡桃はノロノロとついていく。ダイニングテーブルの上には、ふたりぶんのティーセットとケーキプレートが置かれていた。いつも胡桃がいる場所に、さっきまで他の女性が座っていたのだ。

 

「あの、佐久間さん……さっきの女のひと、誰ですか?」


 胡桃の問いに、佐久間はやや驚いたように片眉を上げた。


「なんだ、杏子きょうこに会ったのか」


 彼はやけに気安いトーンで、女の名前を口にした。ファーストネームで呼び捨てる声に、親しみが滲んでいる。


(わたしの名前は覚えてるかどうかも怪しいくせに、彼女のことはそんな風に呼んでるんだ……)


 胡桃は内心の屈託を気取られないよう、できるだけ明るい声で「きれいなひとでしたね!」と言う。

 

「前に言ってた……身内って? お姉さんとか?」

「まあ、みたいなものだな。ふたつ歳上の従姉だ」

「……そう、なんですか……」


 姉でも妹でもなんでもない、歳の近い綺麗な従姉。従姉なら問題なく結婚できますね、なんてことを言いかけて、それはさすがにやめておいた。

 

「……従姉が、なんで合鍵持ってるんですか」

「もともとこの部屋は、彼女が住んでいたものだからな。二年前に仕事で海外に行くことになったから、俺が譲り受けたんだ。今は一時帰国しているらしい」

「ふぅん……」

「悪いが、テーブルの上を片付けてくれるか。今新しいものを出す」


(他の女とお茶したあとを、わたしに片付けろって言うの?)


 悪びれた様子もなく指図してきた佐久間に、胡桃はむかっ腹が立った。つい、棘のある口調になってしまう。


「さっきのひとと、何食べてたんですか?」

「〝ソレイユ〟のモンブランだ。先日、きみにも教えただろう」

「……こんな時間まで一緒にいたの? もう22時じゅうじですよ」

「べつに、それほど遅い時間ではないだろう」

「でも、きれいなひとだった」

「今この話に、彼女の美醜が関係あるのか」


 佐久間が怪訝に思うのももっともだ。しかし胡桃は、彼が胡桃の知らない綺麗な女性とお菓子を食べていることが、どうにも我慢ならなかった。彼が他の誰かのために紅茶を淹れたのかと思うと、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。


「そもそも、こんな時間にやって来たきみが言えたことではないだろう。普段、深夜に押しかけてくるくせに」

「押しかけてくるって、酷い! せっかくフィナンシェ持ってきたのに」

「……それは、たしかにそうだな。悪かった」

「珍しく、ずいぶん素直に謝るんですね! 今日はご機嫌がいいんですか!?」


 声を荒げた胡桃に、佐久間はやや苛立ちを滲ませつつ眉を寄せる。


「きみは、何を怒っているんだ。意味がわからない」

「べつにっ、怒ってなんか! きれいな女のひとと一緒に美味しいモンブラン食べられて、よかったですね!」


 勢いに任せて胡桃が捲し立てると、佐久間は心底呆れたように溜息をついた。綺麗にセットされた髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、ポツリと呟く。


「……なんなんだ、さっきから。面倒臭いな」


 ――胡桃、めんどくさいこと言うなよ。


 そのとき胡桃が思い出したのは、元カレの言葉だった。彼は胡桃の反論や我儘を、いつもそんな一言で封殺していた。鬱陶しそうにそう言われるたび、胡桃はギュッと心臓が縮み上がるような気持ちになっていた。それでも胡桃はいつだって「ごめんね」と笑って、言いたいことを全部飲み込んでいた。……彼に、嫌われたくなかったからだ。

 それでも今の胡桃は、引き下がることができなかった。気付けば目の前の男を睨みつけて、勢いのままに叫んでいた。


「……っ、そんなこと、言うなら! わたしっ、もう二度と! 佐久間さんに、お菓子作ってあげません!」

「はあ!?」


 佐久間がぎょっと目を剥いた、そのとき。ピンポーン、とインターホンの音が場違いに呑気に鳴り響いた。

 胡桃はズカズカと玄関に向かい、扉を開ける。そこに立っていたのは、佐久間の担当編集である筑波嶺大和だった。


「あれ、こんばんは。いらっしゃってたんですね」


 礼儀正しくぺこりとお辞儀をした大和に、胡桃はフィナンシェのタッパーを押し付ける。大和は戸惑いつつも、それを受け取ってくれた。


「筑波嶺さん! よかったらこれ、差し上げます!」

「へ? え、あ、僕に?」

「佐久間さんには! 絶対絶対絶対、食べさせないでくださいね!」

「おい、ちょっと待て!」


 佐久間の慌てた声が背中から聞こえてきたが、胡桃はそれを無視した。振り返りもせず「お邪魔しました!」と言い捨てて、彼の部屋を出て行く。


 自分の部屋に戻って、鍵を閉めてから、胡桃はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。


(なんで、あんなこと言っちゃったんだろう……)


 どうしてあんなに怒ってしまったのか、どうしてこんなに悲しいのか、自分でもよくわからない。胡桃の胸中は、どうしようもない感情の渦に掻き乱されていた。

 佐久間が言っていた「ひとりで食べるより一緒に食べた方が美味しい」というのは、きっと胡桃でなくてもよかったのだ。それなのに浮かれていた自分が情けなくて恥ずかしくて、なんだか泣きたくなる。


「……佐久間さんの、バカ……」


 そう呟いたところで、壁一枚隔てたところにいる男の耳には届かない。胡桃は膝に顔を埋めると、今度は大きな声で「……わたしのバカ!」と叫んだ。

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