25.やきもちバニラフィナンシェ(1)
午前8時のロッカールーム。胡桃は一人、欠伸を噛み殺しながら制服に着替えていた。
8時15分を過ぎるとどんどん人が増えてくるのだが、この時間だとまだ出勤しているひとは少ない。胡桃はロッカールームで繰り広げられる噂話の類が苦手だったので、なるべく早めに来るようにしている。話題に加わらないせいか、胡桃は女性社員のあいだで浮き気味だったが、それでも構わなかった。
ブラウスの上からカーディガンを羽織り、ロッカーの扉の裏についた鏡で前髪を整えていると、栞がやって来た。胡桃はぱっと表情を輝かせて挨拶をする。
「あっ、夏原先輩! おはようございます!」
「おはようございます」
栞の私服はシンプルだが、いつも品が良く高級そうなものを身につけている。耳に光るゴールドの小さなピアスも素敵だ。今日も美人だなあとうっとり見惚れていると、栞は「そういえば」と黒のトートバッグを漁り始めた。
「これ、ありがとう。昨日一気に読んじゃったわ」
栞が差し出して来たのは、表紙にデフォルメされたムカデのイラストが描かれた文庫本だった。先日胡桃が貸した、佐久間の著書だ。胡桃は先週読み終えたのだが、読了後にどうしようもないやるせなさと虚無感に襲われ、この気持ちを共有したいと栞に押し付けたのである。
「よ、読みました!? ほんとっ、もう……救いがなさすぎて最低でしたよね! 虫の描写がずーっと気持ち悪くて、わたししばらく本触るのも嫌でしたもん!」
胡桃はそう言って、差し出された文庫本をこわごわと受け取った。思い出すだけで、足がびっしりと生えた虫がゾワゾワと身体を這い回る感覚がする。まるで危険物のように、そうっと文庫本をバッグにしまう胡桃を見て、栞は苦笑した。
「すこし露悪趣味が過ぎるけれど、読者を引き込む力は凄いわね。支離滅裂なようで話の筋は通っていて、しっかり伏線も回収されていたし、面白かったです」
栞の言葉に、胡桃はうんうんと何度も頷く。話の筋とか伏線とか、難しいことはよくわからないけれど、佐久間の作品が褒められていると、なんだか誇らしいような気持ちになる。布教のために文庫本を持ち歩いている大和の気持ちが、少しわかった。
「わたしもまだ全部は読めてないんですけど……よかったら他の作品も貸します! あっ、来月新刊が出るらしいですよ!」
「ありがとう。でも、ちょっと他の小説で箸休めしたい気分だわ……彼の作品、面白いけどハイカロリーよね。重たくて胸焼けしちゃった」
栞はそう言って苦笑した。佐久間の作品を続けて摂取したくない気持ちも、よくわかる。連日読み続けていると、自分がこの世に生を受けたことが心底悲しくなり、世界を滅ぼしたくなってしまう。
「私は読んだことがなかったけれど、熱狂的なファンが多いのも頷けるわね。そういえば、水羽主任も佐久間諒の小説が好きだって言ってたわよ」
「え、そうなんですか?」
「ええ。このあいだ、休日に本屋さんで会ったんです。そのとき、流れでそういう話題になって」
胡桃の頭に、温和そうな垂れ目のイケメンの顔が浮かぶ。あの爽やかで優しげな男が、猟奇的で血なまぐさく、地獄と悪夢を煮詰めたような佐久間の作品を読むなんて、ちょっと意外なような気もする。しかし、胡桃の水羽に対する好感度は上がった。
今度どの作品が一番好きか聞いてみよう、と考えていると、栞がチラリとこちらを向いて、素早く唇を湿らせた。黒髪をひとつに結びながら、「そういえば」と切り出す。
「……水羽主任が、あなたと私と三人で飲みに行かないかと言っていたのだけれど、どうかしら」
「え!? 夏原先輩もいらっしゃるんですか!?」
胡桃ははしゃいだ声をあげた。胡桃は栞ともっと親しくなりたいと思っているが、業務時間外の彼女のことをほとんど知らない。そのうち絶対ごはんに誘おう、と目論んでいた胡桃にとっては、願ったり叶ったりだった。
「行く! 行きます! わー、楽しみ!」
「そう、よかった。それなら、水羽主任に返事をしておきます」
「夏原先輩とごはんだなんて嬉しいなあ……でも、珍しいですね。夏原先輩、いつも課の飲み会にも参加されてないのに」
「……先日のミスの件で、私は彼に借りがあるから。きちんと役目を果たしたのだから、これでチャラにしてもらいます」
栞はそう言って、ロッカーの扉をパタンと閉める。それってどういう意味ですか、と尋ねようとしたところで、賑やかな女性社員たちが入ってきたので、胡桃と栞はそそくさとロッカールームを出た。
午後7時。無事に退勤した胡桃は、最寄駅からマンションに向かう道を足取りも軽く歩いていた。
太陽はすっかり隠れてしまったけれど、残り火に照らされた西の空はまだほの明るく、淡いピンクと水色のグラデーションが美しい。
もう少し歩いていたい気がして、胡桃は遠回りして川沿いの道を進んでいくことにした。先日佐久間と散歩をしたときの、おすすめのパティスリーの近くを通りかかる。
このあいだは暗くてよくわからなかったが、あまり主張の激しくない、シックで落ち着いた外観はまるでおしゃれな美容室のようだ。この時間でも、まだ営業中らしかった。
(せっかくだし、何か買ってみようかな。佐久間さんオススメのモンブラン、まだあるかなあ……)
胡桃はガラス越しに、店内を覗き込む。店員は女性一人だけのようだ。ケーキが並ぶショーウィンドウの前に、男女のカップルが立っているのが見えた。その男の顔を見て、胡桃はハッと息を飲む。
(……佐久間、さん)
キラキラと瞳を輝かせながらケーキを選んでいるのは、佐久間凌そのひとだった。いつものボサボサ頭にスウェット姿ではなく、ネイビーのジャケットにベージュのチノパンを履いて、身なりは爽やかに整えられている。
彼の隣にいるのは、つやつやした栗色のワンレンボブの綺麗な女性だった。丸顔でややおっとりとした雰囲気があり、栞とはまた違ったタイプの美人である。どこかで見た覚えがあるなと考えて、思い出した。
(前に、佐久間さんの部屋から出てきた女のひとだ……)
胡桃がまだ、佐久間と知り合う前。佐久間の部屋から出てきた彼女の姿を見て、胡桃は隣人が女性だと勘違いしていたのだった。
彼女との関係について、佐久間は何と言っていたっけ。たしか「ただの身内」みたいな説明を受けた気がするけれど、詳しいことは聞かなかった。母親という年齢ではなさそうだが、関係性がよくわからない。しかし気軽に部屋の出入りをしているぐらいだから、相当親しい間柄なのだろう。
胡桃がぼんやりしているうちに、佐久間がケーキを選んで会計を終えた。出口に向かってくるのが見えて、胡桃は反射的に身を隠す。
店から出てきた二人は、マンションのある方向へと歩いていった。もしかすると佐久間の部屋で、今買ったケーキを一緒に食べるのだろうか。胡桃がいつもそうしているように、あのダイニングテーブルで佐久間の淹れた紅茶を飲むのだ。
そんな光景を想像すると、何故だか胸がずきりと痛む。自分でもわけがわからなくて、首を傾げながら胸を押さえる。
並んで歩いているふたりは、こうして見るとお似合いの美男美女カップルのように見える。会話の内容までは聞こえてこなかったが、女性の方が何やら佐久間に話しかけて、佐久間が何度か頷くのが見えた。
(わたし以外の女のひとと並んで歩く予定はないって、言ってたのに……うそつき)
そんなことを考えて、憤りを覚えている自分に驚く。佐久間に恋人がいたところで、ただのお隣さんである胡桃には何の関係もないことだ。口を出す権利など、ないというのに。
二人の姿が見えなくなるまで、胡桃はその場にじっと立ち尽くしていた。10分ほどそうしていたところで、ハッとする。いつのまにかすっかり陽が落ちて、周囲が暗くなっていた。
先ほどの光景が頭にこびりついて離れない。どうして佐久間のことで、こんなにイライラモヤモヤしなければならないのだろうか。なんだか余計に腹が立ってきた。
(……お菓子、作りたい。濃厚な発酵バターの、バニラフィナンシェがいい……)
胡桃はぐっと拳を握りしめると、マンションへと向かう道を足早に歩いていった。
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