24.背徳ガトーバスク(3)

 立ち並ぶビルの合間の向こう側、満月よりも少し欠けた月が空に浮かんでいる。ひやりとした冷たい風が、さわさわと街路樹の葉を揺らしている。肌に触れる空気は、すっかり秋のものだった。

 黒の長袖Tシャツの下に黒のスウェットを履いた佐久間は、スタスタと足早に歩いていく。スニーカーまで黒なので、全身真っ黒だ。あまりにも暗闇に溶け込んでいるので、反射板とかつけた方がいいのでは、と胡桃は思う。


「佐久間さん、よくお散歩されてるんですか?」

「たまにな。ネタを考えるときとか、執筆に行き詰まったときとか。深夜に近所を当てもなく歩き回っている」

「わあ。通報されないでくださいね」

「通報されたことはないが、職務質問されることはしょっちゅうだな」


 たしかに、こんな剣呑なオーラを漂わせた男が、ウロウロと当てもなく歩き回っていれば、職務質問のひとつもしたくなるだろう。おでかけモードではない佐久間は、怪しげな不審者である。

 佐久間はマンションの目の前にある横断歩道を渡って、駅とは反対側へと歩いていく。一緒におでかけをしたときにも思ったが、彼は歩幅も大きく歩くのが早いので、胡桃は小走りでついていかなければならない。


「ちょっと、佐久間さん。歩くの早いですよ」


 耐えかねた胡桃が文句を言うと、佐久間はチラリとこちらを横目で見た。


「そのくらいの速度の方が、カロリーも消費されるだろう」

「それは、そうですけど……でも女性と一緒にいるときは、もう少しゆっくり歩いた方がモテますよ」

「必要ない。今のところ、きみ以外の女性と並んで歩く予定はないからな」


 さらりとそんなことを言うものだから、ほんの少しだけドキッとしてしまった。発言の主が佐久間でなければ、つい勘違いしてしまいそうである。


(……もしかして。このひとも大概、天然タラシなのかしら)


 自覚がないだけで、今まで幾多の女性たちを泣かせてきたのかもしれない。じろりと睨みつけてみると、佐久間は意に介した様子もなく「なんだ」と言う。胡桃は「いいえ?」と唇を尖らせる。

 

 佐久間が唐突に足を止めた。すっと無言で指差す方を見ると、マンションの近くを流れる川沿いに、可愛らしいパティスリーがあった。白を基調としたオシャレな看板が掛かっていたが、当然この時間だと営業しておらず、店内は真っ暗だ。


「この〝ソレイユ〟で売られている、秋限定のモンブランは絶品だ。先週から販売開始されているから、きみも食べてみるといい」

「へえ、そうなんですか。近くに住んでるのに、知りませんでした」

「ちなみに、あそこの道を入ったところにあるパン屋は、シナモンロールが美味い」


 彼の頭の中にはきっと、この近隣のスイーツマップが網羅されているのだろう。ひとがダイエット中だろうがなんだろうが、お構いなしだ。胡桃はぐぅと鳴き出す腹の虫を押さえて、がっくりと項垂れる。


「……はぁ。おなか空いてきました……」

「ガトーバスクを食うためのカロリーにはまだまだ到底足りないぞ。ここからふたつ橋を越えたところにもパティスリーがある。そこのお勧めは洋梨のシブーストだ」

「甘いものの話しながら歩くの、やめましょうよ! 全然カロリー消費できる気がしないです」


 佐久間は石の階段を下りて、河川敷にある歩道を歩いていく。胡桃も慌てて、その背中を追いかけた。

 この時間でも意外と出歩いているひとはいるらしく、途中でジョギングをしている男性とすれ違った。穏やかな川の下流は、街灯の光を跳ね返してゆらゆらと揺らめいている。

 家にこもってお菓子を作ってばかりのインドア派の胡桃は、今まで散歩をしたことなどほとんどなかった。今住んでいるところには、大学卒業以来丸三年住んでいるが、駅とマンションの往復をするばかりで、周りに何があるのかほとんど知らない。たまにはこうして歩くのも楽しいものだな、と思う。


 しばらく川沿いの歩道を進んでいくと、佐久間が唐突にチッと舌打ちをした。


「邪魔だな」

「え?」

「前のカップルだ。道幅いっぱいに並んで歩いているせいで、追い越すに追い越せない」


 佐久間の背中越しに前方を確認すると、たしかに並んで歩くカップルの姿が見えた。仲睦まじく手を繋いで、ときおり繋いだ手をぶんぶんと振り回している。見ようによっては微笑ましいが、ちょっと胸焼けしそうなラブラブっぷりだ。

 あのあいだを抜けるのは気まずいなと思っていると、佐久間が大きく咳払いをした。カップルはハッとしたように振り向いて、申し訳なさそうに立ち止まる。


「す、すみません」


 男の方が彼女を抱き寄せて、道を開けてくれた。その隙に、佐久間は堂々と、胡桃はコソコソとカップルを追い抜く。最後にチラリと後ろを確認すると、カップルはそのまま熱烈な抱擁を交わしていた。


「すごいイチャイチャしてますね」

「あまりジロジロ見るんじゃない。きみは小学生か」

「あっ、チューした!」

「こら、見るな!」


 抱き合ったまま口づけをしたカップルを見て、胡桃は思わず声をあげる。さすがに居た堪れなかったのか、佐久間は胡桃の腕を掴んで足早に歩き始めた。ぐいっと強い力で引っ張られて、思わずよろめく。

 それほど大きくないと思っていた彼の手は、胡桃の二の腕を簡単に覆ってしまう。佐久間さんも男のひとなんだなあ、と改めて思った。

 カップルの姿が見えなくなると、彼はややほっとしたように息を吐いた。それから胡桃の腕を掴んだままであることに気付いたのか、「……悪い」とばつが悪そうに手を離す。


「いえ、大丈夫です。それにしても、すごいカップルでしたね」

「……まったく、ああいう奴らには羞恥心というものが備わっていないのか。TPOを考えろ」

「でも、ちょっと羨ましい気もします。わたし、恋人と手を繋いで歩いたことないから」


 周りの目を気にしてか、彰人は外では決して胡桃の手を握ろうとしなかった。一度、周りに誰もいないときを見計らって、勇気を出して「手を繋ぎたい」と言ってみたのだが、「めんどくさいこと言うなよ」とうんざりされてしまった。それ以来、胡桃は一度も彼にワガママを言ったことがない。

 胡桃の言葉に、佐久間はなんだか変な顔をして、口元をモゴモゴさせた。もしかしたら、慰めの言葉を探しているのかもしれない。慰めてほしいわけではなかったので、胡桃は気丈に笑ってみせた。


「わたし、冷え性で。冬なんかは特に、手が冷たいから嫌なんだって」


 彰人の言葉がただの言い訳だってことぐらい、胡桃はとっくに気付いている。彼はきっと、胡桃と手を繋いでいるところを、誰にも見られたくなかったのだ。

 そのときふいに、佐久間が胡桃の手を取った。繊細な細い指が、胡桃のてのひらをそっと撫でる。壊れものにでも触れるかのような優しい手つきに、胡桃は戸惑う。


(わたしなんかの手にそんなに大事そうに触れるひと、他に知らない)


 ただそれだけのことで、なんだか泣きそうになってしまった。しかし涙を流してしまっては、意地悪な彼にまた「泣き虫」と言われてしまうかもしれない。

 奥歯を噛み締めてじっと耐えていると、佐久間がぽつりと呟いた。

 

「……冷え性の方が、パティシエに向いているらしいぞ」

「え?」

「その方が、自分の体温で生地の温度が変わらずに済むだろう」

「……まあ、たしかに」

「よかったな。やっぱりきみは、お菓子作りの神様に愛されているらしい」


 佐久間はそう言って胡桃の手を離すと、何事もなかったかのように歩き出した。不器用な男の背中を、胡桃はじっと見つめている。


(……佐久間さんの手、あったかかった)


 元カレが握ってくれなかった冷たい手を、価値のあるものだと言ってくれるひとがいる。ただそれだけのことで、胡桃は自分の手がまるで宝物のように感じられた。

 胡桃は小走りで佐久間に追いつくと、腰を屈めて彼の顔を覗き込む。照れ隠しのように「なんだ」と仏頂面で答えた男に、「なんでもないです」とへらっと笑ってみせた。


 


 たっぷり二時間の散歩を終えた胡桃と佐久間は、ようやくマンションに戻ってきた。ただでさえ空腹だったのに、たくさん歩いたおかげでもう餓死寸前だ。

 時刻は深夜1時。鼻歌混じりに紅茶を淹れる佐久間を、胡桃はじろりと睨みつける。


「……よく考えると。こんな時間にお菓子食べる方が、罪深くないですか!?」

「それならいっそ寝なければいい。きみも明日は休みだろう」


 夜型の佐久間はそれでもいいのかもしれないが、胡桃はさすがに眠い。しかしガトーバスクの誘惑には逆らえず、渋々ダイニングチェアに着席する。

 二人で「いただきます」と手を合わせたあと、待ちきれずに大きな口をあけてガトーバスクにかぶりついた。豊かなアーモンドとラム酒の風味。ダークチェリーのほどよい酸味、カスタードクリームの優しい甘さ。久々の甘味が、五臓六腑にひしひしと染み渡る。


「すべての要素が邪魔をすることなく、見事に混ざり合っているな。やはりガトーバスクは素朴でありながら、全体的なバランスが絶妙なお菓子だ」

「ううっ……佐久間さん……」

「どうした」

「背徳の味がします……やっぱり、カロリーって美味しいんですね……」


 胡桃がしみじみと言うと、佐久間はまじめくさった顔で頷いた。


「カロリーは美味い。自然の摂理だ」


 佐久間が淹れてくれた紅茶を飲みながら、ガトーバスクを黙々と口に運んでいくと、積もり積もっていたストレスが嘘のように消えていく。


(ああ、どうしてダイエットなんてバカなことをしていたんだろう……)

 

 胡桃が持ってきたホールのガトーバスクは、佐久間があらかた食べてしまった。胡桃は1切れしか食べなかったが、充分満足だった。


「佐久間さん、たくさん食べましたね」

「ああ。散歩をして腹が減っていたからな。まだまだ食べられるぞ」

「……うう。だったらやっぱり、わたしのぶんも食べてもらったらよかったかな……」


 食べ終わると同時にガトーバスクのカロリーを思い出して、さすがにちょっと後悔した。せっかく頑張って我慢していたのに、この一週間の努力が水の泡になってしまったのではないだろうか。

 しかし佐久間は紅茶を口に運びながら、「もうダイエットはやめておけ」と言う。


「食べたいものを我慢しても、ストレスが溜まるだけだろう。どうしても気になるなら、散歩ぐらいは付き合ってやる」

「……どうして、そこまで」


 本当なら佐久間は、胡桃の作ったガトーバスクを一人で食べたってよかったはずだ。べつにわざわざ胡桃を散歩に引っ張りだしてまで、一緒に食べる必要はない。

 佐久間はじっとこちらを向いて、なんてことのないように言った。


「きみの作るものは、何でも美味いが。一人で食べるより、きみと食べた方がもっと美味いだろう」


 ティーカップを持ち上げた体勢のまま、胡桃は固まってしまった。今このひと、さらっと、結構凄いことを言った気がする。片手で自分の頬に触れると、ほんのりと熱を持っていた。


「……やっぱり佐久間さんって、天然タラシなの?」


 胡桃が首を傾げると、佐久間はようやく自分の発言の意味に気付いたらしく、あからさまに狼狽した。


「……あ。いや、違う。その、別に、他意はない。生産者の顔が見えると安心できるというか……いや、それも何か違うな……」


 しどろもどろに弁明しようとする佐久間がおかしくて、胡桃は思わず吹き出す。ケラケラ笑っている胡桃を、佐久間は「何がおかしい」と睨みつけた。


「わたしも、佐久間さんと食べるお菓子が一番美味しいです」


 それはきっと、彼が淹れてくれる紅茶のおかげだけではないのだろう。どこで誰を何を食べたとしても、隣人と一緒に食べるお菓子が一番美味しい。

 胡桃の言葉に、佐久間はつまらなさそうに「……調子の良い奴だな」とそっぽを向く。そんな素直じゃない男の横顔を見つめながら、きっとしばらくダイエットはできないんだろうなあ、と胡桃は思った。

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