23.背徳ガトーバスク(2)
ダイエットを始めてから、一週間。胡桃のストレスは、早くも最高潮に達していた。
まず食事の量を減らしているので、おなかが空く。空腹でただでさえイライラしているのに、仕事のストレスは容赦なく降りかかってくる。ストレス発散のために、お菓子が作りたくなる。
……なのに、作れない。最悪の負のループである。胡桃はこのときばかりは、自分のストレス解消方法がお菓子作りであることを心底呪った。
「糀谷さん、最近元気ないね。大丈夫?」
三時間かけて作った書類を「ごめん、やっぱりこっちのプラン断られたからいらなくなった」と言われ、途方もない虚無感に襲われていたところ。栞に書類を出しにきたらしい水羽が、声をかけてきた。
「顔色も良くないし、体調悪いんじゃない?」
心配そうな水羽の声からは、胡桃への気遣いが滲み出ている。以前栞のフォローをしていたときにも思ったが、本当に善良なひとである。天然タラシだなんて思ってごめんなさい、と胡桃は心の中で謝罪する。
「だ、大丈夫です。最近ダイエットしてるだけで。全然元気です」
「えっ、そうなの!? 必要ある!?」
「お菓子ばっかり食べてるせいで、すごい太っちゃって……人生最高体重更新してて、ほんとにやばいんですよ……」
「糀谷さん、全然太ってないのになー。俺、ちょっとふっくらしてる女の子の方が好きだよ」
そう言ってニコッと笑いかけられて、胡桃は(やっぱりこのひと天然タラシだわ)と認識を改める。こんなことを言われては、勘違いする女性はごまんといるだろうに。
以前までの胡桃であれば、もしかすると勘違いして舞い上がっていたかもしれない。しかし、今の胡桃は自分の男運のなさをよくよく理解している。こんなに善良そうな男性が、自分のことを好きになってくれるはずもないのだ。
「水羽主任。そういう発言は、昨今ではセクハラとも捉えられかねないので、控えた方がよろしいかと」
「ヤベッ。それもそうだな。ごめん、糀谷さん」
隣の栞からクールにたしなめられて、水羽はバツが悪そうに片手を上げる。胡桃は「いいえ!」とかぶりを振った。このあいだ「丸くなったな」などと言い放った隣人に比べると、全然失礼じゃない。
「食べるの我慢するより、運動した方が健康的に痩せられるんじゃない? 俺が通ってるジム、紹介しようか」
「そ、そうですね……検討します」
「じゃあ、あとでLINEするよ。よかったら、糀谷さんの連絡先……」
水羽がスマホを取り出したところで、栞がスッと書類を彼に差し出す。
「水羽主任、申請書チェックできました。こことここ、修正お願いします」
「あ、ハイ」
「あと、そういうプライベートなお話は業務終了後にしてください。あと20分で、定時が終わりますから」
栞の厳しい言葉に、水羽は「……そうします」と苦笑した。腕時計にチラリと目を落として、にこやかに胡桃に話しかけてくる。
「糀谷さん、今日定時で仕事終わりそう?」
「あ、はい。なんとか」
「俺も。もしよかったら、今日このあと……」
水羽が言いかけたそのとき、向こうから二課の社員である田山が、猛スピードでこちらに走ってくるのが見えた。なんだか嫌な予感、と胡桃は冷や汗をかく。
「ちょっと、糀谷さん! 悪いんだけど
「えっ、ええ……!? わ、わかりました……」
定時間際に無茶な仕事を押し付けられ、胡桃は半泣きでパソコンに向き合う。残念ながら、今日も定時退社は叶わないらしい。栞と水羽が「手伝おうか」と言ってくれたが、さすがに申し訳なく、断った。
必死でキーボードを叩きながら、胡桃が考えるのはお菓子のことだ。
(……お菓子、作りたい。カスタードクリームとダークチェリーが入った、カロリーの爆弾みたいなガトーバスクがいい……)
想像しただけで、にわかに空腹が襲ってくる。ぐうっと大きく腹の虫が鳴いて、胡桃は奥歯を食いしばった。……そろそろ、我慢の限界が近いようだ。
結局胡桃は残業をしたあと、20時すぎに帰宅した。勢いのままにエプロンを身につけて、狭いキッチンに立つ。今すぐ、ガトーバスクを作らなければ気が済まない。
ガトーバスクは、フランスのバスク地方に伝わる郷土菓子だ。クッキーとケーキの中間のような生地でカスタードクリームを挟んでおり、素朴だけれど贅沢な味わいもあって、とっても美味しい。
(作るだけなら、セーフ! 別に、自分が食べなきゃいいんだから……)
まずはボウルに常温に戻したバター・粉糖・塩を入れて、ゴムベラでよく混ぜる。ホイッパーに持ち替えて、白っぽくなるまでまた混ぜる。卵を4〜5回に分けて入れながら、まだまだ混ぜる。アーモンドプードルとラム酒を加えて、どんどん混ぜる。
(……ああ、わたし今、生きてるって感じがする……!)
必死で生地を混ぜているこの時間こそ、自分が一番輝いているのではないかとさえ思う。ハンドミキサーを使用せずに、これだけ頑張って混ぜているのだから、少しはカロリーが消費されないだろうか。お菓子作りダイエット、と銘打って流行らせてみようか。ただし完成品は食べられないものとする。
ふるった薄力粉を加えて、ゴムベラでさっくり混ぜる。粉っぽくなくなったところで、口金をつけた絞り袋に入れる。
15cmのセルクル型に沿って、底に円を描くように生地を絞っていく。冷凍庫に入れて軽く冷やしたあと、先に作っておいたカスタードクリームの半量を流し入れる。シロップ漬けのブラックチェリーを並べて、更にその上からカスタードクリームを。上からまた生地を絞ったあと、綺麗にならす。塗り卵を塗ったあと、170℃に予熱していたオーブンへ。
焼き上がりを待っているあいだ、オーブンからとてつもなく良い匂いが漂ってきて、胡桃はテーブルに突っ伏した。晩ごはんは、キャベツとササミを茹でたものしか食べていない。
オーブンから完成したお菓子を取り出す、本当ならばお菓子作りにおいてもっとも幸せであるはずの時間が、今日ばかりは拷問のように感じられる。こんなに美味しそうなのに、匂いしか嗅げないなんて……。
冷めたあと、型から外したら完成だ。こんがりと綺麗に焼けて、表面がひび割れしたちょっと無骨な見た目だけれど、飾らない可愛さがある。せめて味見だけでも、と手を伸ばしかけて、ぐっとこらえる。
(……仕方ない。佐久間さんに食べてもらおう)
胡桃は皿にガトーバスクを乗せて部屋を出ると、隣のインターホンを出す。まるで待ち構えていたかのように、すぐに扉が開いた。
「おっ、やっと来たか」
「……なんですか、それ」
「さっきから、いい匂いがするなと思って待っていたんだ。ガトーバスクとは、また良いチョイスだな」
「はあ」
「入れ。紅茶を淹れよう」
佐久間はウキウキとガトーバスクを受け取り、いつものように胡桃を招き入れようとした。が、胡桃は力なく首を横に振る。
「……いえ、いいです。わたしは部屋に戻るので、佐久間さんお一人でどうぞ……」
「なんだ。ダイエットは諦めたんじゃないのか」
「あ、諦めてません! まだ全然痩せてないんですから!」
胡桃が言うと、佐久間は胡桃の頭の先からてっぺんまでを、じろじろと眺めた。少々無遠慮だったけれど、いやらしい視線ではなかったので黙っていた。
「きみ、今体重何キロなんだ」
「い、言えるわけないでしょう!」
「見たところ、充分健康体重の範囲内だろう。つくべきところに肉がついているだけだ。健康に問題がないのなら、無理して痩せることはないんじゃないか」
「それは、そうですけど……でも、気になります」
自分の周りにいるスタイルの整ったひとたちを見ていると、「自分も痩せなければ」という強迫観念に近いものを覚えるのだ。彰人にふざけて「デブ」と言われたことだって、何度もある。
「食べちゃダメだけど、どうしても作りたかったから……佐久間さん、わたしの代わりに一人で食べてください」
胡桃がしゅんと肩を落としていると、佐久間はガシガシと頭を掻いた。しばらく腕組みをして考えたあと、「歩きやすい靴に履き替えてこい」と言う。
「……え?」
「食べるのならば、そのぶん運動すればいい。一時間ほど歩けば、多少はカロリーも消費されるだろう」
「な、なるほど」
「俺も付き合う。ガトーバスクはそのあとだ。さっさと行くぞ」
強引な佐久間の言葉に、胡桃は押し切られるように頷く。急いで自分の部屋に戻ると、白いスニーカーに足を突っ込んだ。
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