22.背徳ガトーバスク(1)
九月の末である。昼間こそまだまだ夏の名残はあるものの、朝晩はずいぶんと過ごしやすくなってきた。気温も湿度も下がってきて、焼き菓子作りに適した季節になりつつある。
二人で残業をしたあの日以来、胡桃と栞はずいぶん打ち解けた。相変わらず仕事中は能面のような顔つきで胡桃のミスを指摘してくるけれど、業務終了後のロッカールームでの雰囲気はずいぶんと柔らかくなったし、雑談にも付き合ってくれるようにもなった。
仕事が遅く残業ばかりの胡桃を見かねてか、極限まで効率化された事務フローを伝授してもらった。あらためて教えてもらうと、いかに自分の仕事に無駄が多かったのかを思い知らされた。当然、すぐには栞のようにはなれないけれど、胡桃の残業時間はぐっと減った。やはり栞はすごい。
「夏原先輩、ありがとうございます! 今度お礼させてください! そうだ、一緒にランチでもどうですか?」
「結構です。後輩の教育も、私の業務の一環ですから」
胡桃の申し出を、栞はすげなく却下する。しかし、「そうですか……」と目に見えてしょんぼりした胡桃を見て、動揺したように目を泳がせた。コホンと小さく咳払いをしたあと、「それなら」と続ける。
「……あなたの作ったお菓子が食べたいわ」
「え?」
「どうしてもお礼を、ということならば」
栞はそう言って、ふいっと視線を逸らしてしまった。表情はいつもと変わらないけれど、ちょっぴり耳が赤い。このひとちょっとだけ佐久間さんに似てるなあ、と思って、なんだかおかしくなった。
「よ、喜んで! 夏原先輩、どんなお菓子が好きですか!? リクエストがあれば……!」
「先日のレモンクッキーも、とても美味しかったけれど……チーズケーキなんか、どうかしら」
「お任せください! 糀谷胡桃、全身全霊をかけて作ってきます!」
意気込んだ胡桃は、栞の両手をガシッと握りしめる。メラメラとやる気に満ちている胡桃に、栞は呆れた顔で「今この時間は、仕事に全力を傾けてください」とたしなめられてしまった。
栞からのリクエストに答え、胡桃は張り切ってベイクドチーズケーキを作った。昨夜のうちに、味見係である佐久間に食べてもらい、「口当たりがしっとりとしていてチーズが濃厚だが、サワークリームの酸味によってほどよいさっぱり感がプラスされている。素晴らしいベイクドチーズケーキだ」との太鼓判を貰っている。
会社に持って来たものの、周りの目が気になったので、昼休みになるなり、栞を「どこかに移動しませんか」と誘った。
天気が良かったので、胡桃と栞は会社のそばにある公園に移動した。栞はたまに、ここで一人で昼食を食べているらしい。
「夏原先輩……やっと二人きりになれましたね。嬉しいです」
「……糀谷さん。あなた、不用意な言動で誤解を招くタイプなんじゃない? 気をつけた方がいいわよ」
並んでベンチに座って、胡桃は持ってきていたお弁当を、栞はコンビニで買ったおにぎりを食べた。ほんの数週間前までは凶悪だった太陽の光は嘘のように穏やかで、そよぐ風も心地良い。
二人とも食べ終えたところで、胡桃は保冷バッグに入ったタッパーをいそいそと取り出した。
「約束通り、チーズケーキ作ってきました!」
「ありがとう。では、いただきます」
ベイクドチーズケーキをタッパーから出すと、持って来ていた紙皿に乗せて栞に手渡す。佐久間にも好評だったし、おそらく不味いことはないと思うのだが。それでもやっぱり、緊張する。
プラスチックのフォークにのったチーズケーキが、小さな口へと運ばれるのを、穴が開くほどじいっと見つめる。すると、「あまり見ないで」と叱られてしまった。恥ずかしがっているところも可愛らしい。
ベイクドチーズケーキを一口食べた栞は、目を見開いて「うわっ、美味しい!」と声をあげる。彼女がこんなに大きな声を出すところを、胡桃は初めて見た。
「夏原先輩も〝うわっ〟とか言うんですね」
「……失礼しました。つい」
「いえ、喜んでもらえて嬉しいです! お口に合いましたか?」
「ええ、とても……! ものすごくしっとりしていて、今まで食べたどんなチーズケーキよりも美味しい……もし近くにお店があったら、毎日通ってしまいそうなぐらい」
思いのほか熱のこもった褒め言葉に、胡桃は嬉しくなった。喜びのあまり栞に抱きつきたくなったが、先日佐久間にも拒絶されたことだし、やめておこう。
「なんだか、紅茶が欲しくなるわね。さっきコンビニで買えばよかった」
「チーズケーキには、アールグレイのミルクティーがよく合いますよ。昨日お隣さんに教えてもらいました」
佐久間の部屋にはたくさんの紅茶があるけれど、いつもそのときのお菓子に合うものをスッと出してくるのが不思議だ。昨日飲んだアールグレイのミルクティーも、渋みが少なくベルガモットの風味が感じられて、ベイクドチーズケーキにぴったりだった。
「参考にします。紅茶に詳しいお知り合いがいるのって、いいわね」
「紅茶というより、筋金入りのスイーツオタクなんです! 甘いものが大好きで、もう血液がハチミツみたいになってるんじゃないかってぐらい。でも性格は全然甘くなくて、口と態度が悪くて偏屈なんです」
「酷い言いようね」
「……でも、そのひとと一緒に食べるお菓子が一番美味しいんです。きっと、美味しい食べ方を知ってるんでしょうね」
佐久間に淹れてもらった紅茶の味を思い出して、美味しかったなあとウットリする。チーズケーキを乗せたストーンプレートも洒落ていて、そのままお店に出せそうだった。胡桃の作ったお菓子を一番美味しく食べてくれるのは、きっとあの男なのだ。
胡桃の話を聞いていた栞は、なんだか微笑ましいようなものを見るような目でこちらを見ていた。目元が緩んで、いつもより優しい顔をしている。
「? 夏原先輩、どうしたんですか」
「……いいえ。あなたはお隣さんのことが、とても好きなのね」
「え」
「お付き合いしているの?」
予想外の誤解をされて、胡桃は慌てふためいた。
そりゃあ佐久間のことは嫌いではないけれど、そういう目で見たことはなかった。不器用なりに優しいことも知っているし、一緒にいると楽だけれど、恋愛対象では断じてないのだ。
「ちっ……違います! す、好きは好きですけど、こ、恋人とかじゃないっていうか!」
「あら、ごめんなさい。口ぶりからてっきり交際相手かと」
「いやっ、さ、佐久間さんは、そんな……そ、そんなことより、夏原先輩! チーズケーキ、まだあるんですけど、もうひとつ食べませんか!?」
動揺を誤魔化すように、胡桃は栞に向かってタッパーを突き出す。栞は少し悩んだ様子を見せたが、「遠慮しておきます」と片手を上げた。
「……とても、美味しかったけれど。これ以上食べるのは、さすがにカロリーが気になるわ」
「えっ!? な、夏原先輩、そんなに痩せてるのに……!」
胡桃はまじまじと、隣に座る栞を見つめる。栞は胡桃よりも華奢で、ウエストなどは内臓がちゃんと揃っているのか心配になるほど細い。同じ制服を着ているぶん、その差は顕著である。
(そういえばわたし、最後に体重計乗ったのいつだったっけ……)
今日はお風呂上がりに体重計に乗ろう、と心に決めて、胡桃はベイクドチーズケーキを頬張る。とろけるような甘さが口いっぱいに広がった瞬間、カロリーのことなんてすっかり忘れてしまった。
……次に胡桃がベイクドチーズケーキのカロリーのことを思い出したのは、入浴後に身体を拭いていて、自分の身体が洗面所の鏡に映ったときだった。
(なんか……おなか出てる!? チーズケーキ食べすぎたかな……)
胡桃はもともと比較的肉付きがいい方で、全体的にふっくらとした丸みのある身体つきをしている。元カレからもよく、「もうちょっと痩せろよなー」なんてことを言われていたのだが、そんなことは今はどうでもいい。
(彰人くんと付き合ってたときより、絶対、太ってる気がする……!)
そういえば最近、制服のスカートが少しキツくなってきた。胡桃は久しぶりに体重計のスイッチをオンにして、ゆっくりとつま先から、体重計に乗って――
「ぎゃああああああ!!」
ディスプレイに表示された数字を見た瞬間、以前頭から水をかぶったときよりも、大きな声が出た。
デジタル式の体重計には、未だかつて見たことのない数値が示されていた。間違いなく、糀谷胡桃至上最大体重である。
そんなまさか、と思って体重計から降りて、もう一度スイッチを入れ直してから乗ってみる。まったく同じ数字が表示されて、胡桃は全裸のまま頭を抱えてしまった。
(でも、当たり前だよね……こんなに甘いものばっかり食べてるんだから……!)
佐久間と出逢ってから、お菓子を作る頻度がうんと増えたし、深夜に甘いものを食べることが多くなった。こんな生活をしていては、太るのも当たり前である。
胡桃が膝を抱えて落ち込んでいると、ピンポーン、とインターホンが鳴った。脱衣所から顔だけ出すと、玄関の扉の向こうから声がする。
「おい。すごい声が聞こえてきたが、大丈夫なのか」
佐久間だ。またしても、声が隣に聞こえていたらしい。きっと佐久間は、風呂場の壁の向こうで仕事をしているのだろう。胡桃は慌てて「だ、大丈夫です!」と返事をした。
「ちょっと待ってください! 今お風呂上がりで裸なので、すぐ服着ます!」
「……」
半袖のシャツとハーフパンツを着たあと、胡桃は玄関の扉を開ける。腕組みをした佐久間は、怒った顔でこちらを睨みつけていた。
「風呂上がりとか裸とか、わざわざ言うものじゃない。相手が俺じゃなかったら、襲ってくれと言っているようなものだぞ」
「あ、すみません。気をつけます」
「それで、どうしたんだ。今度こそゴキブリか」
「違います! その……体重計に乗ってて」
「はあ?」
佐久間は眉を寄せて首を傾げる。胡桃は彼の首根っこを掴んで、勢いよくガクガクと揺さぶった。
「佐久間さんの! せいですよー!」
「おい、なんだ。一体どうした」
「めちゃめちゃ、体重が増えてたんです! 佐久間さんと一緒に、お菓子ばっかり食べてるからー! もう、さっき体重計乗ってびっくりして!」
「……そんなくだらないことで、あんな殺人鬼と遭遇したような悲鳴をあげてたのか。大袈裟な奴だな」
胡桃の八つ当たりに、佐久間は心底呆れたように溜息をついた。それから顔を近づけてきて、じいっと胡桃を見つめる。意外と整った顔が至近距離にあって、ちょっとどぎまぎした。
「言われてみれば、少し顔が丸くなったな。顎のあたりも、もう少しシャープだったはずだが」
「……ええい、うるさい! そもそも、佐久間さんは何で太らないんですか!? わたし以上に食べてるのに!」
「日頃から頭を使っているからだろう」
胡桃が言うと、佐久間はしれっと答えた。その言い方だと、胡桃が普段頭を使っていないみたいだ。
「とにかく! わたしが痩せるまで、しばらくお菓子は作りません!」
「おい、なんだそれは。困るぞ。そもそも太ったのは、きみの自己管理不足だろう」
胡桃の宣言に、佐久間は慌てた様子を見せた。彼してみれば胡桃の体重などどうでもいいのだろうが、作ったお菓子を食べられなくなるのは嫌なのだろう。相変わらず身勝手なひと、と久々に腹が立ってきた。
「もう決めましたから! お引き取りください!」
不服そうな佐久間の背中を押し出して、玄関の鍵をガチャンと閉める。鼻息荒く部屋に戻った胡桃は、そのまま床に寝そべって腹筋を始めた。
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