21.涙と笑顔とレモンクッキー(3)

 栞と話し込んでいたせいで、結局終電ギリギリで帰ることになってしまった。地下鉄から降りた胡桃は、駅からの自宅マンションまでの道を足早に歩いていく。目の前の信号が点滅し始めたので、ダッシュで横断歩道を渡った。

 ふつふつと胸の奥から湧き上がってくる、この喜びを。今すぐ伝えたいひとがいる。

 いったん自分の部屋に戻った胡桃は、着替えもせずにレモンクッキーが入ったタッパーを抱えて、再び外に出た。逸る気持ちを押さえながら、隣のインターホンを鳴らす。すぐに、佐久間が顔を出した。


「一体どうしたんだ、こんな時間に」


 言われて初めて、ハッと我に返った。時刻は深夜0時。突然隣人の元を訪れるには、いささか非常識な時間帯である。


「す、すみません。レモンクッキーがあるんですが、明日出直してきましょうか」

「いや、問題ない。俺にとってはこれからがゴールデンタイムだ」


 家主の許可が下りたため、遠慮なくお邪魔させてもらうことにする。パソコンの電源が点いているため、仕事をしていたのだろう。胡桃からタッパーを受け取った佐久間は、中身を確認して瞳を輝かせた。


「レモンの良い香りがするな。キームンを淹れることにしよう。スモーキーで少々癖があるが、柑橘系のお菓子とよく合う。皿を出してくれ。棚の二段目にある、ミントグリーンのやつだ」


 いつものように佐久間が紅茶を淹れてくれて、深夜のお茶会が始まった。最近、深夜に甘いものを食べすぎている気がする。

 クッキーを目の前に置いた佐久間は、「それで」と呆れた目を向けてくる。


「今度は一体誰に泣かされたんだ」

「な、泣いてません!」


 胡桃は拗ねたように唇を尖らせると、ティーカップを持ち上げて口に運ぶ。佐久間の言う通りやや癖のある味だったが、ミルクを入れたおかげかややマイルドになっていた。


「食べる前に。話、聞いてもらえますか」

「いいだろう」


 胡桃が言うと、佐久間はつまらなさそうな顔で頬杖をついた。彼が胡桃の話を聞くときは、大抵この体勢だ。

 

「……今日。会社の先輩が仕事で失敗して落ち込んでたから、わたしが作ったレモンクッキー食べてもらったんですけど……」

「ほう」

「そしたら、美味しい、って言ってくれて……普段すごく冷たくて、怖い先輩なのに。わたしが作ったお菓子食べて、笑ってくれたんです!」

「まあ、それはそうだろうな。当たり前だ」


 佐久間はそう言って、涼しい顔で紅茶を飲んだ。胡桃本人よりも自信満々なので、なんだかおかしくなってしまう。このひとはどうして、胡桃の作ったお菓子のことを、何の疑いもなく信じてくれるのだろう。


「笑ったところ初めて見たんですけど、もうすごく可愛くて……うっかり好きになっちゃいそうでした」

「……きみはまた、性懲りも無くそんなことを……」

「……わたしが作ったもので、ありがとうって、元気出た、って言ってもらえるのって、幸せなことですね」


 栞の顔を思い出して、またふわふわと気持ちが浮き上がっていく。胡桃の話を聞いていた佐久間は、頬杖をついたまま、「それで、どうしたんだ」と続きを促してきた。

 

「え、そ、それで……すごく嬉しかったっていう、ただそれだけです。おしまい」


 話はここで終わりである。胡桃の話にヤマもオチもないのは、いつものことだ。

 しかし佐久間はやや驚いたように眉を持ち上げて、言った。


「……こんな時間に、ここまで来て。愚痴を言いにきたんじゃないのか」

「へ?」

「俺の役目は、きみの愚痴を聞くことだろう」


 そういえば、もともと彼との関係が始まった当初はそういう話だった。お菓子を作って差し入れする代わりに、愚痴を聞いてもらう。持ちつ持たれつの、おかしな関係。

 しかし今日の胡桃は愚痴ではなくて、嬉しかったことを佐久間に聞いてほしかった。栞と、他でもない佐久間が教えてくれた、このあたたかな喜びを。彼と一緒に、分かち合いたかったのだ。


「……先輩が笑ってるの、見たとき。佐久間さんが言ってたこと、思い出したんです」

「俺が、何か言ったか」

「わたしの才能を認めて必要としてくれるひとがいる、ってやつ」

「……そういえば、そんなことも言ったな」

「あの、たぶん先輩にとっては、そんな大袈裟なことじゃないんですけど……佐久間さんの言う通りだったよ、って、佐久間さんに伝えたくて」

「……」

「だから……これからは……えっと。愚痴だけじゃなくて、たまには、嬉しかった話も聞いてください」


 そう言ってぺこりと頭を下げると、佐久間は落ち着きなくティーカップを持ち上げて、またすぐにソーサーの上に戻した。それからやけにムスッとした顔を取り繕って、つまらなさそうに言った。


「……まあ、いいだろう。辛気臭い泣き顔を見ているよりは、多少はマシだ」


 相変わらずの物言いに、胡桃は思わず吹き出してしまった。この佐久間語を翻訳機に通すと、「きみが泣いているところなんて見たくないよ」である。佐久間と出逢って三ヶ月で、胡桃も多少は彼のことがわかってきた。

 ミントグリーンの皿に乗ったクッキーに手を伸ばして、サクッと齧りつく。冷蔵庫でしっかりと冷やされたレモングレーズに包まれたクッキーはひんやりとしていて、爽やかなレモンの酸っぱさのあとに、バターの柔らかな甘さが追いかけてくる。世界一幸せなマリアージュだ。


「いただきます」


 佐久間はそう言って両手を合わせてから、レモンクッキーを口に運ぶ。心底嬉しそうに綻んだ彼の表情を見ると、栞の笑顔を見たときと同じような感情が湧き上がってきた。

 ……どうやら胡桃は、自分の作ったお菓子で無愛想なひとを笑顔にすることに、どうしようもなく喜びを感じる性質らしい。

 思わず立ち上がった胡桃は、がばっと勢いよく両手を広げる。怪訝そうな顔をしている佐久間に向かって、衝動のままに叫んだ。


「……あの、佐久間さん!」

「なんだ」

「……だ、抱きしめてもいいですか!?」


 その瞬間、佐久間は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。珍しく狼狽した様子で、「駄目に決まっているだろう!」と力いっぱい拒絶されてしまった。

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