20.涙と笑顔とレモンクッキー(2)
「……ええ、はい。このたびは大変申し訳ありませんでした。すぐにお届けしますので、はい」
電話を切った水羽は、栞に向かって指でOKサインを作ってみせた。栞は安堵したように息を吐いて、強張っていた表情をやや緩める。
水羽と栞があちこち奔走した甲斐もあり、なんとか先方に部品を届けることができたらしい。胡桃はなりゆきを見守っていただけだったが、心の底からホッとした。
「水羽主任。このたびは本当に申し訳ありませんでした」
「いいよいいよ。夏原さんがミスするなんて、めったにないことだし」
「……いえ。こんなミスをすることなど、あってはならないことです。以後、充分気をつけます」
「じゃあ、今度は俺の書類不備見逃してね」
水羽は悪戯っぽく笑うと、菓子折りを持って堂本課長とともに会社を出て行った。きっと、直接お詫びに行くのだろう。
時刻は19時を回っている。定時はとうに過ぎているが、栞のデスクにはまだ仕事が残っていた。つい先ほどまで、ミスの後始末にかかりきりだったのだから当然だ。
「……糀谷さん、お疲れさまでした。私のことは気にせず、先に帰ってください」
カタカタとキーボードを叩く栞の横顔には、さすがに疲れが見えた。先ほども課長からさんざん怒られていたし、精神的なダメージが多いのだろう。
胡桃はといえば、自分の仕事はなんとか終わらせている。栞が良いと言うのだから、このまま退社してもいいはずだ。この時間ならば、家に帰ってお菓子を作る時間だってある。でも。
(……でも、夏原先輩は。いつもわたしのこと、助けてくれた……)
栞は言葉こそキツかったけれど、胡桃が困っているときに、さりげなく手を差し伸べてくれた。胡桃のミスに先回りして気付いて、指摘をしてくれた。そんな彼女を置いて、帰るつもりにはなれない。
「……いえ! わたしも手伝います! これ、入力すればいいんですよね」
胡桃は栞の返事を聞かず、彼女の目の前に詰まれたファイルを奪い取った。エクセルソフトを立ち上げて、データを入力していく。栞は呆気に取られたように目を丸くして、こちらを見つめていた。
「糀谷さん……」
「このぐらいなら、わたしでも出来ます! 夏原先輩ほど早くはないですけど、頑張って終わらせましょう!」
胡桃はそう言って、胸の前でぐっと拳を握りしめる。栞はやや戸惑ったような表情を浮かべていたけれど、小さな声で「……ありがとう」と呟いた。
それから二人がかりで作業に没頭して、気付けば胡桃と栞以外の社員は誰もいなくなっていた。胡桃は入社以来こんなに集中したことはないのでは、というぐらいに集中した。だだっ広いフロアに、カタカタとキーボードを叩く音だけが響き渡る。
「おわっ……たぁ〜……」
最後の数字を打ち込んだ瞬間、胡桃はへなへなとデスクに突っ伏した。
栞が普段こなしている業務量は半端ではなく、控えめに見積もっても胡桃の三倍はあった。営業一課の方が人数が多いのだから、当然である。日頃業務時間内にこの仕事を完璧にこなし、しかも胡桃のフォローまでしている栞は超人である。
窓の外は真っ暗で、どっぷりと夜が更けている。パソコンに表示された時刻を確認すると、21時だった。どうなることかと思ったが、思っていたよりも早く終わってよかった。
「……ありがとうございます。助かりました」
栞はそう言って、深々と頭を下げた。胡桃の戦力はせいぜい彼女の1/3程度なので、それほどお役に立ったわけではない。胡桃は「お気になさらず!」と力いっぱい首を横に振った。しかし栞の表情は晴れず、俯いて下唇を噛み締めている。
「私、あなたに偉そうにお説教できるような立場じゃなかった。……ごめんなさい」
栞の謝罪に、胡桃はしどろもどろになる。
「そ、そんなことないです。いつも夏原先輩が私のミスを見つけてくれるから、大事にならずに済んでるだけで……それに夏原先輩は普段めったにミスしないから、こういうとき余計に目立つっていうか……」
「……」
「えっと、わたしなんて去年、機材10ケースのところ間違えて100ケースも発注しちゃって……営業さんたちに頑張って売り捌いてもらって……はは……」
静まり返ったフロアに、胡桃の自虐が虚しく響く。先輩が落ち込んでいるというのに、慰めの言葉がちっとも出てこない。こういうとき、自分の語彙のなさが心底恨めしい。これでは、佐久間のことをとやかく言えないではないか。
胡桃が口を噤むと、二人のあいだにしんと重たい沈黙が落ちる。必死で次の言葉を探していると、ふいに栞が下を向いた。その拍子に、ポタリ、とデスクの上に雫が落ちる。ぐす、と鼻を啜る音が聞こえてきて、胡桃は慌てふためいた。
「なっ……夏原先輩! すっ、すみません、わたしっ」
オロオロと狼狽えていると、栞は鼻声で「大丈夫です」と言った。
「違うんです。……すこし……気が緩んで」
「……」
「私なんて、仕事しかできないのに……仕事でもミスするなんて、本当にダメね……」
「そ、そんな……」
黒い瞳から透明な涙がとめどなく溢れて、はらはらと頬を流れていく。栞は唇をいびつに歪めると、頬を手の甲で拭って、自嘲するように言った。
「……私。糀谷さんと比べて、愛想がない方、可愛げがない方だって言われてるの、知ってる」
「え?」
栞の言葉に、胡桃はぽかんと口を開けた。仕事ができない方、美人じゃない方。そんな風に周りから揶揄されるのは、自分ばかりだと思っていた。
「……ごめんなさい。取り乱しました」
ようやく少し落ち着いたらしい栞は、ハンカチを取り出して涙を拭う。マスカラとアイラインも落ちて、目の下が黒くなっていたけれど、それでも栞の美しさが損なわれることはなかった。
栞が落ち込む必要など少しもないのに、かけるべき言葉が見つからない。お互いが黙り込んだ瞬間、ぐうぎゅるるる、という、やけに間抜けな音が鳴り響いた。
「……?」
「……」
「もしかして今の、夏原先輩のおなかの音ですか?」
胡桃が尋ねると、栞は耳まで真っ赤になった。バツが悪そうに俯いて、「すみません」と蚊の鳴くような声で呟く。なにそれ、可愛い。普段キリッとしているぶん、意外なギャップにときめいてしまう。
「お、おなかすきましたよね! そういえば晩ごはん食べてないし! あっ、わたしクッキー持ってるんです、けど……」
恥ずかしがっている栞を横目に、胡桃はサブバッグからレモンクッキーを取り出す。おやつに一枚食べたので、残りは一枚だ。差し出そうとすると、遠慮がちに押し留められる。
「いえ、大丈夫。糀谷さんが食べてください」
「実はこれ、作りすぎちゃって。家にまだまだたくさん残ってるんです。よかったらどうぞ」
「……これ、あなたが作ったの?」
透明の袋に包まれたレモンクッキーを見て、栞は目を丸くする。スイーツ女、という陰口が蘇ってきて、ほんの少し不安になった。けれども栞ならきっと、胡桃のことを馬鹿にしたりはしないだろう。
「実は、そうなんです……だ、大丈夫ですか? 手作りとか嫌だったら、無理には……」
胡桃は緊張しつつも、栞に向かってクッキーを差し出した。彼女は「いいえ」と首を横に振って、それを受け取ってくれる。
「抵抗ないです。……ありがとう」
栞はレモンのシールが貼られた袋を破ると、レモングレーズのたっぷりかかったクッキーを、控えめに一口齧る。胡桃は固唾を飲んで、その様子を見守っていた。
「……とっても美味しい」
栞はそう言って、目を細めて柔らかく微笑む。油断して思わずこぼれ落ちた、という風に。
胡桃が彼女の笑った顔を見たのは、初めてのことだった。まるで無垢な少女のように可憐で無邪気で、思わず恋に落ちそうになるほど、可愛らしい笑みだった。
(……あの夏原先輩が。冷たくて怖い、いつも無愛想な夏原先輩が。わたしが作ったお菓子食べて、笑ってくれた……!)
今すぐ栞に飛びついて、力いっぱい抱きしめたいような気持ちになる。思わず勢いよく立ち上がって、がばっと両手を広げてしまった。突然の奇行に、栞は怯えたようにびくっと肩を揺らす。ハッと我に返った胡桃は、「失礼しました……」としずしず着席をした。
「ど、どうしたんですか」
「いえ、ちょっと感極まっちゃって。あの、お口に合ったならよかったです」
「ええ、本当に美味しい。……糀谷さんは凄いのね」
「いえ、そんな、えへへ……」
「……仕事以外にも誇れるものがあるって、素敵なことだと思う。私、あなたが羨ましい」
「え」
(あの夏原先輩が? わたしなんかのことを、羨ましいって言った?)
美人で仕事ができて、いつでもクールで毅然とした、完璧な先輩。彼女のようなひとは、胡桃のようにくだらないことで思い悩むことなどないのだろうと、そう思っていたのに。
なんだか信じられないような気持ちで、胡桃はまじまじと栞を見つめる。彼女はレモンクッキーを食べながら、もう一度優しく微笑んでくれた。
「糀谷さん、ありがとう。……元気、出ました」
(わたしの作ったものが、誰かに元気を与えることができるんだ……)
――俺はきみの才能が、きみのことを必要としている人間に届けばいいと思う。
(ねえ、佐久間さん。佐久間さんが言ってたのって、こういうことですか?)
胡桃はなんだか笑い出したいような、泣き出したいような気持ちで、ぐっと拳を握りしめる。なんだか今すぐ、無愛想な隣人に会いたくなった。
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