19.涙と笑顔とレモンクッキー(1)
夏季休暇が終わった、八月の末。ふと思い立った胡桃は、お菓子を作ることにした。バタークッキーに甘酸っぱいレモングレーズをたっぷりかけた、夏にぴったりのレモンクッキーだ。
グレーズとは、お菓子の乾燥防止や艶出しなどに使用される、いわゆる砂糖水のことだ。冷めると白く硬くなって、お菓子を優しく包んでくれる。今回は少し水分量を多めにして、甘さ控えめの爽やかなものにする。
レモンの形に型抜きされたバタークッキーを、半透明のレモングレーズで包む。見た目もとっても可愛くて、レモンのいい匂いがする。中央にトッピングしたハチミツ漬けのレモンも、素敵なアクセントだ。このままでも食べても美味しいだろうが、レモングレーズがしっかり固まるように、一晩冷やしておくことにする。
(やっぱり、お菓子作りって楽しい……)
スイーツ女と揶揄されようが、やはり胡桃はお菓子作りが好きなのだ。まるでみずみずしい美少女のようなレモンクッキーの香りを嗅いでいると、落ち込んでいた気持ちが浮き上がっていく。
いくつかは明日の会社のおやつにして、残りは佐久間にあげることにしよう。今度は余計な陰口を叩かれぬよう、誰にも見つからないようにしなくては。
翌朝胡桃が出社すると、栞が既に自席でパソコンを叩いていた。胡桃は小さく咳払いをしたあと、シャキッと背筋を伸ばして挨拶をする。
「夏原先輩、おはようございます」
「おはようございます」
栞はほんの一瞬だけ顔を上げてから、すぐにディスプレイに向き直ってしまう。相変わらずの冷たさだったが、それでも胡桃は以前ほど彼女に苦手意識を抱いていなかった。
――本人が弁明できないところで、彼女の行動についてとやかく言うつもりはありません。
ロッカールームでの栞の言葉に、胡桃は少なからず救われていた。胡桃は一方的に栞に苦手意識を抱いて避けていたというのに、彼女は胡桃の陰口に加わることなく庇ってくれた。無愛想ではあるけれど、きっと根っから冷たいひとではないのだ。
(せっかく二人きりの事務員なんだから、もうちょっと親しくなれないかな)
そんなことを考えつつ、彫刻のように整った横顔をじっと見つめる。栞はキーボードを叩きながら、こちらを一瞥もせずに言った。
「糀谷さん。シンエイ機工さんにお渡しする見積書、数字が間違っていました。こちらで訂正しておきます」
「えっ。す、すみません」
「あなたももう四年目なんですから、いつまでもこんなミスをしてもらっては困ります。もっと気を引き締めてください」
「……はい……」
朝から早々にお説教を食らって、胡桃はがっくりと項垂れる。この調子では、彼女と仲良くなるのはまだまだ難しいかもしれない。
今日は業務量も落ち着いており、いつもは仕事に追われている胡桃も多少は余裕があった。ピリピリしていることが多い営業課の空気も、比較的長閑である。このまま何も起こらなければ、残業せずに帰れそうだ。
15時を過ぎたところで、胡桃はサブバッグからこっそりレモンクッキーを取り出した。小腹も空いたし、おやつを食べることにしよう。
レモンクッキーが入った透明の袋には、先日購入したレモンのシールが貼ってある。なんだかお店の売り物みたいだ、と一人でテンションが上がった。
レモン型のクッキーを袋から出して、音を立てぬよう静かに頬張る。サクッとした食感に、バターとレモンの甘さがマッチしていて、とても美味しい。
「あれ、糀谷さん。何食べてるの?」
突然声をかけられて、胡桃はぎくりと肩を揺らす。顔を上げると、水羽がニコニコ笑顔を浮かべてこちらを見ていた。胡桃は慌ててクッキーを飲み込み、勢いよく立ち上がる。
「すっ、すみません……! 仕事中なのに……」
「いやいや、おやつ食べるぐらい全然いいでしょ。この時間、おなか空くよね」
「ハイ……」
「もしかしてそれも、糀谷さんの手作り?」
手元を覗き込んでくる水羽に、胡桃は首が千切れそうなほどの勢いで、ぶんぶんとかぶりを振る。
「ちっ……違います! その、えーと、そう、貰い物です!」
「そうなんだ。このあいだの糀谷さんのクッキー、美味しかったなあ。よかったら、また食わせてよ」
(そういうこと、あんまり大きい声で言わないでください!)
周囲の目が気になって、胡桃は冷や汗をかく。これ以上身に覚えのないことで、余計なやっかみを買うのはごめんだ。それにしても平然とこんなことが言えるなんて、このひと本当にタラシなのかもしれない。
「は、はい……機会があれば……」
そう答えながら、おそらくその機会はないだろうな、と胡桃は考える。今後はイケメンと充分な距離を取り、乙女心を弄ばれないように気をつけることにしよう。なにせ、胡桃には男運がないのだ。
そのとき、栞の席に置いてある電話が鳴った。営業一課の外線電話だ。栞が席を外しているため、胡桃が代わりに受話器を上げる。
「はい、
『おい、ちょっと! どういうことなんだよ!』
開口一番怒鳴り声が響いてきて、胡桃はひっと息を飲み込んだ。受話器の向こうの声が聞こえたのか、目の前にいる水羽が心配そうにこちらを見ている。
「も、申し訳ありません。何かございましたでしょうか」
『ございましたでしょうか、じゃないんだよ! どう考えても、そっちのミスだろこれ! 責任取れよ!』
「あ、あの……」
突然のことに頭が真っ白になっている胡桃に、水羽がジェスチャーで「代わるよ」と言ってくれる。胡桃はやっとのことで「少々お待ちください」と告げると、震える指で保留ボタンを押す。
「はい、お電話代わりました。いつもお世話になっております。ええ、ええ、はい……申し訳ありません。こちらの手違いです」
水羽は20分ほど謝罪を交えつつ話していたが、ひとまず場を収めたらしい。電話を切ると開口一番、「糀谷さん、大丈夫だった?」と胡桃を気遣ってくれた。自分も怒られただろうに、本当にいいひとだ。
「わたしは全然大丈夫です。あの、今のって……」
「ただいま戻りました」
ちょうどそのとき、郵便局に行っていた栞が戻ってきた。深刻な雰囲気を漂わせている二人を見て、「どうかしましたか?」と尋ねてきた。
「夏原さん。
「はい」
「今日が納期なのに届かないって、先方がカンカンで電話かけてきて。ちょっと、注文書の控え確認してもいいかな」
栞はハッとしたように目を見開き、みるみるうちに顔が青ざめていった。キャビネを開き、綺麗に整理されたボックスの中からクリアファイルを取り出して、愕然とした表情を浮かべる。
「……すみません。発注できていませんでした。私のミスです」
「そうか、わかった。とりあえず、一緒に課長のところ行って報告しよう」
水羽は栞を責めることなく、営業一課の
「くっだらねえミスしてんじゃねえよ! 何年目だと思ってんだ!」
ややあって怒号が響き、胡桃はびくっと身体を震わせる。それが自分に向けられたものでなかったとしても、怒鳴り声を聞くのは嫌な気分になるものだ。
堂本課長は声が大きく、ガタイの良い体育会系だ。短気で大雑把で、自分にも他人にも厳しく、やや威圧的なところがあるので、栞の前任である先輩はこっそり「パワハラじじい」と呼んで苦手にしていたようだ。二課の課長である冴島もネチネチと嫌味な上司ではあるが、それでも堂本よりはマシだと、胡桃は常々思っていた。
「申し訳ありません」
「謝って済む問題じゃねえんだよ。俺たちが汗水垂らして取ってきた契約を、何で黙って座ってるだけのおまえが台無しにしてんだ!」
「……」
「おまえのヘマを尻拭いすんのは、俺ら現場の人間なんだよ。わかってんのか? だったらちゃんと誠意見せて謝れ!」
(ひどい。夏原先輩、わたしと違ってめったにミスなんてしないのに……)
たしかに栞がミスをしたことに間違いはないが、あまりにもひどい言い草だ。堂本はきっと普段から、栞のことを良く思っていなかったのだろう。細かいミスを指摘してくる栞と、口論をしているところもよく見かけた。ここぞとばかりにミスをあげつらって、栞を吊し上げようとしている。
「堂本課長。夏原さんはいつもきちんとしてくれてますし、今回は単純なケアレスミスです。次回以降、気をつけてもらえればそれでいいです」
見かねた水羽が栞を庇う。堂本はチッと舌打ちをして、栞を睨みつけた。栞は90°に身体を折り曲げて、深々と頭を下げる。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「夏原さん、顔上げて。今はそれよりミスをリカバーすることを考えよう。よそに回す予定だった部品、長田さんの方に回してもらうよ。夏原さん、サンヨーテクノさんに連絡してもらえる?」
水羽はテキパキと指示を出し、自分もスマホを取り出してどこかに電話をかけた。栞は「はい」と答えて、こちらに戻ってくる。胡桃はおそるおそる、彼女に声をかけた。
「な、夏原先輩……あの」
「お騒がせしてごめんなさい。私のことは気にせず、あなたはあなたの仕事をしてください」
そう言った栞は、いつものように毅然とした表情を浮かべている。けれど、受話器を持つ手は小刻みに震えていた。
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