18.ツンデレ男とオレンジゼリー

 佐久間諒の担当編集になってから、大和の手土産のセンスは抜群に磨かれたと思う。昨年末に久方ぶりに帰省した際は、佐久間イチオシのカヌレを購入して帰ったところ、妹から「兄ちゃん、なんで彼女もおらんのにこんなん知っとんの?」と訝しがられた。余計なお世話である。

 本日の手土産は、フルーツパーラーのオレンジゼリーだ。オレンジの中身をそのままくり抜いた皮の器の中に、果肉がたっぷりのゼリーが入っている。小さな容器に入ったホイップクリームを乗せて食べるらしい。ふだん3個パックで100円のゼリーしか買わない大和にとっては、至極贅沢な一品である。

 

 合鍵でオートロックを解除して、エレベーターで15階へ。そのまま鍵を開けて突入してもいいのだが、一応のマナーとしてインターホンを鳴らすことにしている。返事がなければ強行突破だ。

 インターホンを鳴らしてしばらくすると、ガチャリと扉が開く。大和の目の前に現れたのは、長い髪を頭の後ろでひとつにまとめた、可愛らしい女性――佐久間の隣人である、糀谷胡桃だった。


「あ、筑波嶺さん。こんばんは」

「……!?」


 予想外の展開に、大和は言葉を失った。

 胡桃が佐久間の部屋から出てくること自体は、もはや意外でも何でもない。彼女は手作り菓子を差し入れがてら、しょっちゅうここに入り浸っているのだ。

 しかし今日の彼女は、明らかに様子が違っていた。長い髪は濡れており、いつもより眉が薄く素朴な顔つきをしていて(おそらくすっぴん)、肩からバスタオルを掛けて、白いTシャツにパイル地のショートパンツを身につけている。……どこからどう見ても、風呂上がりである。


「……もしかして僕、重大なイベントスキップしちゃいました!?」

「え、なんの話ですか?」

「なんだ、筑波嶺くんじゃないか。何の用だ」


 部屋の奥から出てきた佐久間は、訝しげな表情で大和を見ている。


「何の用だ、じゃないですよ! 今日20時から打ち合わせです! 時間指定したのは先生ですよ!」

「ああ、そうだったな。忘れてた」


 佐久間は悪びれもせずに言った。まあ、彼が打ち合わせの予定を忘れるのはいつものことなので、それは別に構わない。問題は何故、風呂上がりの隣人が彼の部屋にいるのか、ということである。


「筑波嶺さん、こんな時間までお仕事なんて大変ですね。頑張ってください」

「え、いや、まあ、ハイ」

「それじゃあ佐久間さん、お風呂ありがとうございました。あんまり筑波嶺さんに迷惑かけちゃダメですよー」

「余計なお世話だ。さっさと帰れ」


 佐久間が顰めっ面でしっしっと手を振ったが、胡桃は嫌な顔ひとつせず「じゃ、おやすみなさーい」と言って、ゴムサンダルを履いて部屋を出て行った。

 大和は呆然とその背中を見送ったあと、佐久間の襟首を掴んでガクガクと揺さぶる。


「……なんか、彼女ヅラして出て行きましたけど……事後ですか!? やっちゃったんですか!?」

「な、何を馬鹿なことを言ってるんだきみは! 指一本しか触れていない!」


 大慌てで言い返した佐久間に、大和はひとまずホッとする。せっかくじれじれのラブコメを見守ろうと思っていたのに、一番美味しいところを見逃してしまったのではないかと心配していたのだ。まあ、指一本触れていないというのも、それはそれでいかがわしい気もするが。


「あー、よかった。ちゃんと手を握るまでに、文庫本一冊ぶんぐらい時間かけてくださいね。次はそろそろ名前呼びイベントですかね」

「筑波嶺くんとは長い付き合いになるが、俺は未だにきみが何を言っているのかわからないことがある」

「とりあえずこれ食べて、話聞かせてください」


 大和は手土産の紙袋を佐久間に手渡して、ダイニングチェアに腰掛ける。佐久間はさっそく、オレンジゼリーを両手でうやうやしく取り出した。


「パーラーイトウのオレンジゼリーか。夏にぴったりのデザートだ。褒めてつかわそう」

「はいはい、ありがたき幸せ」


 佐久間は蓋代わりに乗っていたオレンジのヘタ部分を持ち上げて、別添えのホイップクリームを乗せる。銀色のスプーンでゼリーとクリームをすくって、幸せそうに口に運んでいる。相変わらず、甘いものを食べているときだけはご機嫌そのものだ。

 とにかく、打ち合わせは後回しだ。焦れた大和は「状況を教えてくださいよ」と身を乗り出した。


「ああ、書きたいものはだいたいまとまった。きみからのメールを踏まえて修正してみたから、一度プロットに目を通してくれ」


 質問の意図からズレた佐久間の回答に、大和は椅子からずり落ちそうになった。

 

「そっちの状況じゃなくて! ……いや、そっちの状況も大事なんですけど! まず僕が聞きたいのは、お隣さんの件です」

「……別に、話すようなことは何もない。彼女の部屋の給湯器が壊れたから、うちの風呂を貸してやってるだけだ。明日修理に来るらしいから、今日が最後だな」

「は!? 僕が知らないあいだに、そんな美味しい思いしてたんですか!?」

「……言っておくが、やましい気持ちは微塵もないぞ」


 果たして本当にそうだろうか。大和は訝しげな視線を佐久間に向ける。彼は下を向いたまま、半透明のゼリーをスプーンでつついていた。

 

「でも自分の部屋で可愛いお隣さんがシャワー浴びて、風呂上がりにウロウロしてるんでしょ? 多少はドキドキソワソワしません?」

「……………………しない」


 大和の問いに、佐久間はあさっての方向を向きながら、怒ったようにそう答えた。ふーん、なるほど。

 これは長い付き合いだからわかるのだが、彼は嘘をつくときに露骨に目を逸らす癖がある。意外と正直な男なのだ。


(まあ、今日はこのへんにしといてやるか……)


 恋愛慣れしていない担当作家をからかうのも楽しいが、変につついて意識をさせて、二人の仲がぎくしゃくするのも本意ではない。


「そうですか、変なこと訊いてスミマセン。じゃ、仕事の話しましょう」


 大和は雑談を打ち切り、頭を仕事に切り替えた。ようやくこちらを見てくれた佐久間は、資料をテーブルに広げ、真剣なまなざしで話し始める。


 次回作の打ち合わせは、なかなか白熱したものになった。佐久間が譲れない部分と、大和が譲れない部分の折り合いがつかず、良い落としところが見つからない。

 大和だって佐久間諒のファンとして、彼の書きたいものを存分に書いてもらいたい気持ちはある。しかし編集者としては、そういうわけにもいかない。「売れる」作品を作家に書いてもらうことが、大和の仕事なのだ。売れなければ次は出ない。そうなると、大和は二度と佐久間諒の新作が読めなくなってしまうのだ。

 ……こればかりは、「このへんにしといてやるか」で済ませられる問題ではない。

 佐久間は苛立ちを露にしながら、人差し指でテーブルをトントン叩いている。そろそろお互いに、クールダウンした方がいいだろう。


「先生。ちょっと休憩しましょう」

「……賛成だ」


 平行線のやりとりを中断して、大和は放置していたオレンジゼリーを一口食べた。果肉がたっぷり入っていて瑞々しかったが、すっかりぬるくなっていて、美味さは半減だ。打ち合わせに夢中になって食べ頃を逃すのは、いつものことである。佐久間に「勿体無い」と叱られることもしばしばだった。

 とっくの昔にゼリーを食べ終えている佐久間は、テーブルのそばにある小物入れから、煙草の箱を取り出した。それほど頻繁ではないが、打ち合わせが長引いたときはよく見られる光景だ。大和は非喫煙者であるが抵抗はないし、自分の前では断りなく吸っても構わないと伝えてある。

 彼が手にしている箱が見慣れないものだったので、大和はおやと目を見開いた。あまり煙草に詳しいわけではないが、漂ってくる匂いもいつもと違う。


「先生。煙草の銘柄、変えたんですか」

「……ああ。ちょっとな」

「へー、珍しいですね。どういう心境の変化ですか?」


 佐久間は香水や歯磨き粉、洗剤などの日用品に至るまで、「これ」と決めたブランドやメーカーを使い続けるのだと言っていた。頑固でこだわりの強い彼は、簡単に自分を曲げるタイプではないのだろう。

 佐久間はやや逡巡しつつも、白い煙を吐き出しながら言った。


「……彼女の元恋人が、俺と同じ銘柄の煙草を吸っていたらしい」

「ん? 彼女って、お隣さんのことですか?」

「ろくでもない男だったらしいからな。……俺の煙草の匂いを嗅ぐたびに、そんな奴のことを思い出すのは嫌だろ」


 大和は唖然とした。あの傍若無人な佐久間が、先ほどから大和相手に一歩も譲ろうとしない頑固な佐久間が。糀谷胡桃のために――ほんの些細なことではあるが――自分のこだわりを曲げたのだ。


(それってなんかこう、つまり)


「あの佐久間先生、それって」

「……別に、彼女のためじゃない。目の前で泣かれると面倒臭いからな。意外と泣き虫なんだ、あの女は」


 佐久間はまるで言い訳でもするかのように、早口でそう言った。大和は「ツンデレのテンプレありがとうございます!」と大声で叫びたいのを必死で堪える。誤魔化すように、オレンジゼリーを口に運んだ。


(……そういうの、世間じゃ愛って呼ぶんじゃないですかね!?)


 もちろん、まだ教えてやるつもりはないが。もう少しだけ、不器用な大人たちのじれじれラブコメを楽しませてもらおうじゃないか。


 そのあと再開された打ち合わせでも、頑固で強情な作家はなかなか折れようとはしなかった。悔しいけれど、この男のこだわりをいとも容易く曲げられるのは、可愛らしいお隣さんだけなのだ。

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