17.煙草の匂いとバニラアイス
8月の半ば、待ちに待った夏休みが始まった。
せっかくの長期休暇だというのに予定はほとんどなく、胡桃は一日のほとんどを、佐久間の小説を読んで過ごしている。面白くてやめられないのだが後味が悪く、陰鬱な気分になるのが悩みどころだ。二冊目の文庫本を読み終えたところで、この世のすべてを呪いたいような気持ちになった。
(人類って、なんて愚かなの……今すぐ滅んだ方がいい……)
このままでは、積極的に世界を滅ぼす悪の大魔王になりかねない。気分転換でもしようかとも思ったのだが、ここ最近は連日猛暑が続いており、お菓子を作る気力もない。やはり暑さは焼き菓子作りの天敵だ。
……もっとも理由はそれだけではなく、先日会社で〝スイーツ女〟呼ばわりされたことも、少なからず尾を引いているのだが。ストレス解消のためのお菓子作に、嫌な思い出がセットになってしまった。
(あー……お風呂、入らなきゃ……)
お湯に浸かるのがめんどうで、夏場は大抵シャワーで済ませている。胡桃は寝巻き代わりのTシャツとショートパンツを持って、脱衣所に向かう。ノロノロと服を脱いでからバスルームに入ると、勢いよくシャワーコックを捻った。
「ぎゃああああ!」
頭からシャワーを浴びた瞬間、文字通り冷や水をぶっかけられた胡桃は叫び声をあげた。
ずぶ濡れになりながら慌ててコックを閉めて、給湯器のスイッチが入っているか確認する。きちんと入っているようだ。しばらくシャワーを出してみたけれど、お湯が出てくる気配はない。もしかして、故障したのだろうか。胡桃は全裸のまま、風呂場でがっくりと項垂れる。
(どうしよう。修理の依頼は明日するとして、水風呂だとさすがにこの季節でも風邪ひいちゃうかな……)
胡桃はひとまず脱衣所に戻り、髪と身体を軽く拭いたあと、Tシャツとショートパンツを着た。スマホを取り出し、マンション周辺にある銭湯を調べてみる。歩いて15分ほどの場所にあるらしい。
(……うーん、仕方ない。行くか)
夏休み中とはいえ汗だくだし、お風呂に入らないわけにはいかない。胡桃はTシャツとショートパンツ姿のままお風呂グッズを持って、ゴムサンダルを履く。部屋の外に出たタイミングで、インターホンを押そうとしている佐久間と鉢合わせた。
「あれ、佐久間さん。どうかしたんですか」
佐久間が胡桃を訪ねてくることは珍しい。胡桃がキョトンとしていると、彼はこちらを見て渋い顔をする。
「どうしたもこうしたもないだろう。さっきの悲鳴はなんだ。ゴキブリでも出たのか」
「えっ、聞こえてたんですか?」
このマンションは比較的防音がしっかりしている方だが、そんなに大きな声で叫んでいただろうか。胡桃が頬を赤らめていると、佐久間は怪訝そうにじろじろとこちらを眺めてくる。
「そんな格好で、いったいどこに行くつもりだ。髪が濡れているぞ」
「あ、実はお風呂のお湯が出なくなっちゃって。今から銭湯に行こうかと」
「こんな時間に? 一人でか?」
佐久間は腕組みをしたまま、胡桃を睨みつけた。時刻は23時前。女性が一人歩きをするには、たしかにやや心もとない時間帯だ。
怖い顔をしているけれど、もしかして心配してくれているのだろうか。それなら、そんなに眉間に皺を寄せなくてもいいのに。
「平気ですよ。そんなに遠くないですし」
「いや、俺はきみの危機管理能力を信頼していない。初対面の男にホテルに連れ込まれそうになる女だぞ」
「あのときは、ちゃんと逃げられましたよ」
「次に逃げられるとは限らないだろう」
佐久間はそう言うと、自分の部屋の扉を開けて「入れ」と顎をしゃくってくる。
「……仕方ない。うちの風呂を貸してやろう」
「え、いいんですか?」
それはありがたい申し出だ。正直なところ、胡桃も濡れた髪のまま15分も歩くのは嫌だなと思っていたのだ。よく知らない人間ならば遠慮するところだが、相手が佐久間なら問題はないだろう。「お邪魔します」と足を踏み入れる。
「佐久間さん。お風呂はどちらですか?」
ここにやって来たことは何度もあるが、風呂を借りるのは当然ながら初めてである。佐久間が無言で指差した方に向かうと、洗面所の隣にバスルームへと続く扉があった。一応確認してみたが、女性向けのメイク落としや化粧水などはない。
「あら、女性の影がないですね」
「いまさら何を言ってるんだ。他に女がいるなら、ホイホイきみを家に入れたりしない」
それは当然だ。佐久間に恋人がいるならば、胡桃はとっくに鉢合わせして修羅場になっているだろう。
「中にあるものは勝手に使ってくれ。必要なら湯を張るが」
「いえ、シャワーで大丈夫です。すみません、助かります」
銭湯に行くつもりだったので、必要なものはすべて持ってきている。佐久間の姿が見えなくなってしばらくしてから、おそるおそる服を脱いだ。他人の家で全裸になるのは、さすがに少し緊張する。
熱いお湯でシャワーを浴びてさっぱりしたあと、持参してきたスキンケアセットでしっかりと保湿をして、胡桃は再びTシャツとショートパンツ姿になった。髪を乾かすのは、自分の部屋に戻ってからでいいだろう。長い髪をひとつにまとめ、バスタオルを首から下げたまま、脱衣所から出る。
「佐久間さーん、お風呂いただきました……って、あれ?」
広々としたリビングダイニングに、佐久間の姿はなかった。電気も点いているし、エアコンも消えていないし、パソコンのスイッチも入ったままだ。キョロキョロと見回していると、リビングからベランダへと続く窓のカーテンが開いていた。
「さーくまさん」
窓を開けてベランダに出ると、佐久間がそこに立っていた。ベランダのへりに頬杖をついたまま、呆れた顔でこちらを見ている。右手に持った煙草から、細い煙が立ちのぼっていた。
「……せっかく気を利かせてベランダに出ているんだから、今のうちに自分の部屋に戻ったらどうだ」
「すっぴんぐらい、佐久間さんに見られてもへっちゃらです。もっと酷い泣き顔とかも見られてるし」
「そういう意味ではないんだが……」
胡桃は佐久間の隣に並んで、外の景色を眺めてみる。排気ガスで煙る空には星のひとつも見えず、行き交う車のヘッドライトの光が、遠くでチカチカと光っていた。夏の夜は昼間の熱がまだ残っていて、むっとした空気に包まれていたけれど、頬を撫でるなまぬるい風は案外心地良い。
佐久間はどこか遠い目をしたまま、ふぅっと白い煙を吐き出した。煙草を吸っている男は、どうして妙に物憂げな表情をするのだろう。懐かしい匂いが鼻をついて、胡桃の胸はぎゅっと締めつけられた。
「……この匂い、久しぶりに嗅ぎました」
「……ああ、煙草か。不快なら消すが」
「いえ。元カレが吸ってたのと同じ銘柄だな、と思っただけです」
胡桃の言葉に、佐久間は盛大に顔を顰める。そのまま、煙草を携帯灰皿に押し付けて消した。
「別に、よかったのに。もう未練なんてありませんから」
「きみのためじゃない。そんな碌でなしと重ねられるのは、俺が不愉快だっただけだ」
吐き捨てるように言った隣人のことを、素直じゃないな、と胡桃は思う。それでもそんな彼の不器用な優しさは、胡桃にとって好ましいものだった。
「佐久間さん、煙草吸うんですね」
「口寂しいときだけだ。ここ最近は、きみがお菓子を持ってこないからな」
「……すみません。こう暑いと、お菓子作る気力もなくて。それに夏休み中はストレスも溜まらないし」
「愚痴ならいくらでも聞いてやるから、さっさとストレスを溜めてきてくれ。きみの作ったものを食べないと調子が出ない」
佐久間にそう言ってもらえると、なんだかやる気が漲ってきた。何を作ろうかな、と久しぶりにお菓子のレシピを思い浮かべてみると、心がふわりと浮き上がる。
「そうですね……夏らしくアイスとか、ババロアとかムース作るのもいいかも。あ、ホワイトチョコムースなんてどうでしょう。ちょっとレモンの風味を加えて、底にはベリーのソースを入れて……」
「……くそ。甘いもの食いたくなってきたな」
佐久間は「少し待ってろ」と言い残して、リビングへと戻っていく。しばらくすると、透明な器を両手に持って戻ってきた。右手に持った方を胡桃に渡す。
「きみのぶんだ」
「わ、ありがとうございます」
涼しげなガラスの器には、ひんやりとしたバニラアイスが入っていた。バニラアイスの上には、茶色い液体がかかっている。銀色のスプーンでほんの少し溶けたアイスをすくって、口に運ぶ。濃厚なバニラの甘さとともに、ほろ苦くもフルーティーな風味が口の中に広がった。
「美味しい! これ、なんですか?」
「少量のブランデーだ。酔っ払うほどではないだろう」
「うわあ、大人の味だ……これ、アイスも絶対いいやつですよね。バニラビーンズを感じます」
美味しいデザートを食べたとき、自分でも作れるだろうかと考えてしまうのは胡桃のサガだ。リンゴのコンポートにバニラアイスを添えるのもいいな、などと想像していると、幸せな気持ちになってきた。
隣の佐久間もアイスを食べて、「うん、美味い」と満足げに頷いている。恋人でもないひとの部屋でシャワーを浴びて、一緒にアイスを食べているなんて、なんだか変な感じだ。それでも、ちっとも嫌じゃない。
「ね、佐久間さん。明日もお風呂直らなかったら、貸してもらえますか?」
「断る。遅くならないうちに銭湯に行け」
「美味しいデザート作ってきますから。ねっ」
「…………仕方ない。ただ、きみはそれでいいのか。普通は男の部屋で、ホイホイ風呂を借りるものじゃないぞ」
「大丈夫ですよ、相手が佐久間さんですから」
「……やはり、きみは危機管理能力に欠けているな」
佐久間は呆れたように肩を竦めて、胡桃の額を人差し指でパチンと弾く。元カレと同じ煙草の匂いは、甘いバニラとブランデーの香りにすっかり上書きされてしまった。
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