16.スイーツ女のフロランタン(2)

 珍しく、ほとんど残業することなく仕事が終わった。ウキウキとパソコンの端末を落として、課長に挨拶をしてからフロアを出る。

 紙袋の中に、フロランタンはまだ残っていた。今日、佐久間は部屋にいるだろうか。もし会えたら、フロランタンに合う紅茶を教えてもらおう。


 ロッカールームで制服を脱いでいると、「おつかれさまでーす」と女性二人組が入ってくる。ひとみと、庶務課の前川まえかわ梢絵こずえだ。梢絵は社交的ではあるのだが、やや気が強く高圧的なきらいがあり、胡桃は彼女のことをやや苦手にしていた。栞とは別の種類の怖さだ。

「お先に失礼します」と愛想笑いで頭を下げて、そそくさと外に出た。扉を開けた瞬間、栞と鉢合わせになる。


「な、夏原先輩……お疲れさまです」

「お疲れさまです」


 足早にしばらく歩いたあと、ハッとする。残ってしまったフロランタンを、ロッカールームにいる女性陣に渡せばよかったのでは。


(……佐久間さんがいるとは限らないし、せっかくだから誰かに食べてもらった方がいいよね。……喜んで、もらえるかな)


 悩んだ結果、胡桃は引き返すことにした。昼休みに水羽が「美味しい」と言ってくれたことも、胡桃の背中を後押しした。

 ロッカールームの扉をそうっと開いたところで、梢絵の大きな声が聞こえてくる。


「そういえば今日、糀谷さんが水羽くんにお菓子渡してるの見たんだけど」


 突然出てきた自分の名前に、ぎくりとした。そういえば、梢絵は水羽と同期だったっけ。おそらく、昼休みのやりとりを見られていたのだろう。

 胡桃は反射的に、入り口のすぐそばにあるロッカーの影に隠れる。


「あー、あれ糀谷ちゃんの手作りらしいですよ。あたしも今朝もらいました」

「え、ほんとに!? あざとー」

「これですこれ、フロランタン」

「うわっ、しゃらくせえ。アピールに余念がないなー、あのスイーツ女」


 きゃはは、と意地の悪い笑い声がロッカールームにこだまする。スイーツ女、という響きには、隠しきれない悪意と侮蔑が滲んでいた。スイーツかっこわらい、の方。

 胡桃はフロランタンの入った紙袋を抱きしめたまま、下唇を噛み締める。


「そういえば、ひとみちゃんって糀谷さんの同期だっけ」

「そうですよー。あの子、入社してすぐの同期会でも、趣味はお菓子作りです、とか言ってて。悪い子じゃないんだけど、絶対仲良くなれないなーって思いました」

「あー、男ウケ100%って感じ。私も無理なタイプだわ」


(……なんで、そこまで言われなきゃいけないの……)


 お菓子作りが好きなのは、本当のことだ。別に男ウケを狙ったわけでもないし、自分の好きなものを好きだと言っただけで、そんな風に馬鹿にされる筋合いは少しもない。


「お菓子作ってきて、水羽くんにだけ渡すっていうのが露骨だよねー。他にも営業課に男いっぱいいるだろっていう」

「そういえば、夏原先輩は貰いました? 糀谷ちゃんのお菓子」


 ひとみの言葉に、胡桃は冷や汗をかいた。栞には渡すチャンスが何度もあったのに、胡桃は彼女にフロランタンを渡さなかったのだ。他意はなかったとはいえ、栞の立場になってみれば、「自分を無視して男に媚びを売っている」と感じても仕方ないかもしれない。


「いいえ。貰っていません」

「あー。やっぱりあのスイーツ女、水羽くん狙いなんじゃん」

「一番近くにいる夏原先輩スルーするなんて、なんか感じ悪いですよねー」


 同意を求めるようにひとみが言うと、バン! と勢いよくロッカーを閉める音がした。しん、とロッカールーム内が水を打ったように静まり返る。


「本人が弁明できないところで、彼女の行動についてとやかく言うつもりはありません」


 栞がきっぱりとした口調で言った。梢絵とひとみはゴニョゴニョと口籠っていたが、「別に、陰口叩いてるわけじゃ」とようやく話題を切り上げる。

 心はズタボロに傷ついていたけれど、栞の一言で、胡桃はほんの少しだけ救われたような気がした。必死で涙を堪えて、音を立てぬようにロッカールームから逃げ出す。

 喜んでもらえるかも、だなんて思った自分があさはかだった。フロランタンの入った紙袋をぎゅっと握りしめながら、もう二度と他人に自分のお菓子を食べさせるものか、と決意した。




 マンションに帰り着いて胡桃が最初にしたことは、佐久間の部屋の電気が点いているか確認することだった。

 カーテンの隙間から漏れ出る光を見た瞬間に、胡桃は足早に彼の部屋へと向かう。自分の部屋に入る前に、隣のインターホンを押した。


「なんだ。今日はやけに早いな」


 扉から顔を出した瞬間、胡桃はフロランタンの入った紙袋を彼に押し付ける。佐久間は中身を確認すると、ウキウキした声色で「入れ」と言った。部屋に入って扉を閉めるなり、胡桃は声を荒げる。


「……佐久間さん! 昨日の夜どこ行ってたんですか!」

「別にどこでもいいだろう。きみには関係ない」

「佐久間さんがいなかったせいで! わたしっ……!」


 そこで胡桃の我慢が決壊して、ポロッと涙がこぼれ落ちた。それを見た佐久間は、ギョッと目を見開く。


「ど、どうしたんだ。泣かなくてもいいだろう。関係ないは言い過ぎた。昨夜は実家に帰っていただけだ」

「佐久間さんが、佐久間さんがあああ」


 胡桃は怒りに任せて、ポカポカと佐久間の胸を叩く。佐久間は「いったいなんなんだ……」と戸惑いつつも、不器用に胡桃の背を撫でた。普段はあんなに冷たいくせに、温かくて大きな手だった。


「とにかく座れ。紅茶を淹れる。ナッツの渋みとよく合うキャンディティーだ」


 ぐすんと鼻を啜りながら、胡桃はダイニングチェアに座った。ウサギのように目を真っ赤にしている胡桃を見て、佐久間は呆れた顔をしている。


「俺はきみの泣き顔をしょっちゅう見ている気がする。いい歳をして泣き虫だな、きみは」

「……さ、佐久間さんの前だけです。ちゃんと、会社では我慢したんですよ」


 胡桃が言うと、佐久間は無言でティッシュの箱を差し出してきた。出逢ったとき以来の鼻セレブの登場だ。涙を拭って鼻をかみながら、胡桃は話し始める。


「……ゆうべ佐久間さんがいなかったから、今日会社にお菓子持って行ったんです」

「ほう」

「そしたら、会社のひとたちに陰で、スイーツ女、とか言われて」

「……? それ、悪口なのか」


 佐久間は不思議そうに首を傾げる。甘いものが大好きな彼にとっては、そこに含まれた侮蔑を感じ取れないのだろう。


「スイーツかっこわらい、の方です」

「よくわからんが、甘いものが馬鹿にされるのは看過できないな」

「……バカにされてるのは、わ、わたしの方です。わたしが作ったお菓子、たまたま営業の先輩に渡したんです。そしたら、そんなつもりないのに、あざといとか狙ってるとか言われて」

「……」

「なんで、お菓子作りが好きって言っただけで、女子力高いねとか、男に媚び売ってるとか言われるんだろう……」

「理解できないな。お菓子作りに性別が関係あるのか」

「……悔しいです。あんなやつに、わたしの作ったお菓子あげるんじゃなかった」


 ひとみに渡したフロランタンを、彼女は果たして食べたのだろうか。もしかすると、食べずに捨てられてしまったのだろうか。可愛い可愛い我が子のようなフロランタンを、佐久間のようにもっと喜んでくれるひとに食べてもらえばよかった。

 佐久間は目の前のフロランタンに手をつけることもなく、胡桃の話を聞いていた。胡桃が再び鼻をかむのを見届けたあと、静かに口を開く。


「細かい事情は、よくわからないが……気にすることはない。自分の才能を曝け出すというのは、常に他人からの妬みや僻みに晒されるということだ」


 佐久間の発言は、やけに真に迫っていた。彼もプロの作家として作品を世間に公表している以上、嫌な思いをたくさんしたことがあるのかもしれない。しかし、佐久間と胡桃では、立っているフィールドがまったく違う。

 

「……才能、だなんて、そんな大袈裟なものじゃないです。佐久間さんはプロですから。わたしとは違います」

「……」

「もう、わたし、お菓子作りが好きだなんて、他人に言いません。佐久間さん以外のひとに食べてもらうのも、嫌です」


 胡桃はいやいやをするように首を振る。好きなものを好きだと言って、余計な陰口を叩かれるのはもううんざりだ。ひっそりと、自分だけで楽しめればそれでいい。


「……それは、勿体無いな」

「もったいない、ですか」


 不本意そうな佐久間の言葉に、胡桃は瞬きをした。その拍子に、瞳に溜まっていた涙がテーブルの上に落ちる。隣人は怒ったような目つきで、個包装されたフロランタンを手に取る。


「この価値がわからない人間に、みすみす食わせてやることはない。しかしこの世界には、きみの価値を理解できる人間が、たくさんいるはずだ」

「……わたしの、価値?」

「趣味の範疇で、自分ひとりだけで楽しむのもいいだろう。それもまたお菓子作りだ。きみがそれで満足できるなら、それでいい」

「……」

「ただ、きみがお菓子を作るのは、本当に100%自分のためだけなのか。きみはよく、俺に向かって〝食べてほしい〟〝褒めてほしい〟と言うだろう。お菓子作りに対して、承認欲求がないと言えるのか」

「……それは……たしかに、なくは、ないです」


 お菓子が作ること自体は、たしかに楽しい。しかし出来上がったものを誰かに食べてもらって、〝美味しい〟と言ってもらえたら、もっと楽しくて嬉しいし、今度は何を作ろうかな、と思える。現に佐久間に出逢ってから、胡桃のお菓子作りに対するモチベーションはうんと上がった。


「俺はきみの才能が、きみのことを必要としている人間に届けばいいと思う」

「……佐久間さんみたいなひとに?」

「……それ、自分で言うのか」


 佐久間はやや照れたように唇を尖らせたけれど、胡桃の言葉を否定しなかった。両手を合わせて「いただきます」と言うと、フロランタンに齧りつく。


(わたしの作ったものを、心の底から喜んでくれる……佐久間さんみたいなひとが、そんなにたくさんいるとは思えないけど)


 心底美味しそうに噛み締めている男の顔を、胡桃は穴が開くほどじいっと見つめていた。とにかく今は、目の前にいる彼にだけ、自分の価値をわかってもらえればいい。

「美味い」という佐久間の言葉が、傷ついた心にじわりと染み込んでいく。胡桃は笑みを浮かべて、彼が淹れてくれた紅茶を飲んだ。

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