15.スイーツ女のフロランタン(1)

 サブレ生地にキャラメルコーティングしたナッツ類をたっぷり乗せて焼き上げたお菓子、それがフロランタン。

 胡桃はキャラメルを纏ってツヤツヤと輝くフロランタンを見つめて、うっとりと目を細めた。贅沢に乗ったアーモンドの香ばしい匂いが芳しく、永遠に嗅いでいられる。

 タッパーに詰めた焼き立てのフロランタンを持って、隣のインターホンを鳴らす。ピンポン、という音がして、しばらく待っても反応がない。


(あれ、珍しい。留守なのかな?)


 時刻は21時。彼がこんな時間に外出することなどめったにない。もしかすると、また執筆に行き詰まり逃げ出したのだろうか。

 胡桃は自分の部屋に戻ると、ベランダに出て、隣の様子を確認した。カーテンが閉まっているため中までは見えないが、電気が点いているかどうかぐらいはわかる。電気は消えており、中にひとがいる気配はなかった。


(なーんだ、佐久間さんいないんだ……)


 胡桃はがっかりした。上手にできたフロランタンを、佐久間に食べてほしかったのに。

 肩を落としながらキッチンに戻り、インスタントのカフェオレを入れる。少しお行儀が悪いけれど、流しの前で立ったままフロランタンを食べた。サクサクのサブレにパリパリのアーモンド、甘さの中にほんのりと苦味のあるキャラメルが、口の中で優しくほどける。

 自分で作ったお菓子が美味しければ美味しいほど、(佐久間さんに食べてほしかったな)と思う。彼がお菓子を食べている姿を見るのが、ストレス解消にもっとも有効なのだ。そして何より、


(これ、どうしよう……絶対ひとりじゃ食べきれないよ……)


 タッパーにてんこ盛りになったフロランタンを見て、胡桃は溜息をつく。最近は佐久間に食べてもらうことを想定して、ついつい量を作りすぎてしまう傾向にあるのだ。

 明日の夜まで待ってもいいのだが、佐久間が帰ってくるかどうかはわからない。連絡先を知らないので、「帰ってきますか?」と聞くすべもない。


(……仕方ない。会社に持って行くか)


 胡桃は棚から透明の小分け袋を取り出すと、フロランタンを中に詰めた。シーラーという機械でビニール袋を熱で溶かし、乾燥剤とともにしっかり密閉する。割れないように、気をつけて持っていかなければ。




 七月も後半。暑さもどんどん本格的になってきて、満員電車に乗って出社するだけで汗だくだ。夏季休暇まであと一ヶ月まであると思うと、余計にげんなりする。

 毎朝胡桃は出社すると、まず10階にある女子社員専用のロッカールームへ向かう。ロッカーの中に荷物を入れて、制服に着替えるのだ。一応制服の着用は自由ということになっているし、着ていない社員もいるのだけれど、胡桃は私服を汚すのが嫌で毎日制服を愛用している。毎日服を考えるのも面倒だし。


 胡桃がロッカールームに入ると、栞が制服に着替えているところだった。彼女はいつも、胡桃よりも少し早めに出社している。ふたりきりの空間にやや緊張しつつ、控えめに声をかけた。


「な、夏原先輩、おはようございます」

「おはようございます」


 栞はほんの一瞬だけこちらを向いて、挨拶を返すとすぐに目線を逸らしてしまう。ロッカールームは女子社員の社交場だけれど、彼女はいつも、用がないなら話しかけないでください、というオーラを全身から放っているのだ。

 胡桃はブラウスのボタンを止めながら、こっそりと栞の横顔を盗み見る。ツヤツヤの長い黒髪を、頭の後ろでひとつに結んでいるところだった。すぐそばから、爽やかなフローラルの香りがする。ごくナチュラルなメイクなのに、彼女は胡桃よりもずっと美しい。比べるまでもないのだけれど、やっぱり少し落ち込んでしまう。

 ロッカーに荷物を入れるときに、紙袋に入ったフロランタンが目に入った。栞に渡すべきかどうか、胡桃は逡巡する。

 これ作りすぎたんでよかったら、と差し出すなら今がチャンスだろう。今このタイミングならば、業務時間中だと叱られることはないだろうが――勇気が出なかった。


(……いりません、って言われたら立ち直れない……)


 胡桃はこれまで、家族や恋人といった、ごく親しい人間にしかお菓子を振る舞ったことがなかった。勢いに任せて佐久間に突撃したのは、特殊な例だったのだ。冷たくておっかない栞に、いつものトーンですげなく断られたら、きっと落ち込むだろう。


(……うん。夏原先輩は、やめとこう。他人の手作りとかダメなタイプかもしれないし……)


 そう自分を納得させているあいだに、栞は着替えを済ませてロッカールームを出て行ってしまった。彼女の姿が見えなくなって一人になった瞬間、胡桃はふうっと安堵の息を吐く。


「あ、糀谷ちゃん。おはよー!」

 

 栞と入れ違いにやって来たのは、同期の菅生ひとみだった。胡桃の隣のロッカーを開けて、てきぱきと着替え始める。ひとみちゃんならいいかな、と思い、胡桃は紙袋からフロランタンを取り出した。


「あの、ひとみちゃん。これわたしが作ったんだけど、よかったら食べない?」


 個包装されたフロランタンを受け取ったひとみは、驚いたように目を丸くする。


「えー、これ糀谷ちゃんの手作りなの!? スゴ! 売り物みたいじゃん!

「えへへ、そ、それほどでも……」

「ありがとー! 昼休みに食べるわ!」


 快く受け取ってもらえた。フロランタンはまだまだ残っているが、この調子ならなんとかなるかもしれない。

 お弁当とスマホが入ったサブバッグと一緒に、フロランタンの入った紙袋を抱えて、胡桃は足取りも軽くロッカールームを後にした。




 しかし昼休みになっても、紙袋の中身はちっとも減っていなかった。忙しく飛び回っている営業課の面々に、のんきにお菓子を配り歩く勇気はなかったのだ。勝手にデスクの上にでも置いておこうかとも考えたが、得体の知れない手作り菓子がいつのまにか置かれているなんて、ホラー以外のなにものでもない。


 胡桃は社員食堂の片隅で、お弁当を広げていた。タイミングが合えば同期とランチをすることもあるけれど、お昼休みは大抵ひとりで過ごしている。昼休みが始まるなり、栞はさっさとどこかに行ってしまうのだ。もっとも、栞とふたりきりでランチをするのも、それはそれで緊張するだろうが。

 お弁当を食べ終わったあと、紙袋からフロランタンを取り出した。デザート代わりに、ひとつ食べることにしよう。

 袋から取り出したフロランタンに、サクッと齧りつく。焼き立てのときはサクッと軽い味わいだったけれど、時間が経つとキャラメルとサブレの層が馴染んでまた美味しいのだ。


「あれ、糀谷さん。お疲れさま」


 しみじみとフロランタンを味わっていると、ふいに声をかけられた。顔を上げると、営業一課の水羽みずは直樹なおきが立っている。同じ営業課の社員ではあるものの、二課の事務担当である胡桃とはほとんど関わりがない。


「水羽主任。お疲れさまです」

「ここ、空いてる? 他の席いっぱいでさ」

「あ、どうぞ」


 胡桃が頷くのを待ってから、水羽は胡桃の正面に腰を下ろした。テーブルの上に、唐揚げ定食の乗ったトレイが置かれる。それほど親しくない先輩と向き合って食事をするのは、妙な緊張感があるものだ。

 水羽は胡桃より4年先輩の29歳で、営業課のエースとの呼び声も名高い。やや垂れ目の温和そうなイケメンで、仕事もできて上司や部下からの信頼も篤く、しかも独身。社内には虎視眈々と彼を狙っている女子社員が、たくさんいるとかいないとか。

 しかし胡桃は、元カレだった彰人の方に夢中だったこともあり、それほど水羽に興味がなかった。もっとも彼の方も、平々凡々な胡桃なんぞに微塵も興味はないだろうが。


「水羽主任、食堂でごはん食べてるの珍しいですね。営業課のひとたちって、たいてい外でランチしてますし」

「たしかに、外回りのついでに食ってくることが多いからなー。今日も外行こうかと思ってたんだけど、事務作業がぜんぜん終わんなかった」


 水羽はそう言って、垂れ目気味の目を細めて笑う。思わず見惚れてしまうような、優しそうな素敵な笑顔だ。こんな笑みとともに契約書を差し出されたら、サインのひとつでもしてしまいそうだ。さすが営業成績トップ、と胡桃は妙に納得する。


「俺、事務仕事苦手だからさ。糀谷さんも夏原さんも凄いと思う」

「わ、わたしは全然……! 夏原先輩はほんとにすごいですけど」

「いやー、ほんと。凄すぎて、俺夏原さんに頭上がらないし」

「え、水羽主任でもそんなことあるんですか?」

「あるよー。書類に不備があるって、しょっちゅう怒られてるもん。でも糀谷さんは優しいから、二課の連中が羨ましいな」


 ニコッと笑顔を向けられたその瞬間、胡桃はフロランタンを喉に詰まらせそうになった。かあっと頬が赤くなった瞬間、頭の中に警鐘が鳴り響く。


(……いやいや。もしかしたらこのひと、天然タラシなのかもしれない……!)


 二度と顔の良い男に騙されはしないと、胡桃は心に誓ったのだ。もうしばらく恋なんてしない。自分の男運のなさを真摯に受け止め、きちんと身の程をわきまえなければ。


「ところで、糀谷さん。何食べてるの?」


 いつのまにか唐揚げ定食を食べ終えたらしい水羽が、胡桃の手元にあるフロランタンを指差す。


「フロランタンっていうお菓子です。よかったら、食べますか?」

「え、いいの?」

「一応、わたしが作ったんですけど……他人の手作りとか平気ですか?」


 胡桃は紙袋からフロランタンを取り出して、水羽に差し出す。受け取った水羽は、しげしげと物珍しそうにそれを見つめた。


「え、手作り!? こんなお洒落なもの作れるなんて、糀谷さん凄いね。プロみたいだ」

「い、いえ、そこまででは!」

「ありがとう、いただくよ」


 水羽はそう言って、フロランタンを一口食べた。食べながら、うんうんと大袈裟なほど頷いてくれる。


「うわ、すごく美味しい。手作りとは思えないな」

「よ、よかったです」


 水羽の反応に、胡桃はホッと胸を撫で下ろした。自分の作ったものを目の前で他人に食べてもらうのは、ものすごく緊張するものだ。しかし面と向かって美味しいと言ってもらえるのは、やはり嬉しい。


「それにしても糀谷さん、お菓子作り得意なんだね。さすが、女子力高いなあ」


 水羽の言葉に、胡桃は苦笑いで返した。

 お菓子作りの能力を「女子力」と定義されてしまうのは、なんとなく違和感がある。胡桃の中にある「お菓子作り」のイメージは、厳しい顔でキッチンに立つ父親の姿だからだ。

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