14.新たな恋とアップルパイ(3)
自宅の最寄り駅についたのは22時すぎだったが、胡桃はアップルパイを諦めきれなかった。24時間オープンのスーパーに寄って、リンゴを購入する。足早に帰宅すると、まるで戦闘服に着替えるかのような気持ちで、エプロンを身につけた。
これから作るのは、ショソンオポムというてのひらサイズのアップルパイだ。フランス語で、「リンゴのスリッパ」という意味らしい。
まずはアップルパイの中に詰める、リンゴのコンポートからだ。包丁でリンゴのヘタと芯を除くと、綺麗に皮を剥いて、いちょう切りに。鍋にリンゴと砂糖、洋酒とシナモンを入れて弱火にかけ、焦がさないように混ぜながら、20分ほど煮る。リンゴを軽く潰してから、バットに上げて冷ましておく。
次はパイ生地だが、今日は市販のパイシートを使うことにする。冷凍庫からパイシートを取り出して、少し戻したあと、麺棒で伸ばして型で抜いていく。リンゴのコンポートを楕円形の生地の真ん中に置いて、縁に水をつけてパタンと折り畳む。
ずらりと並んだアップルパイの赤ちゃんたちは、とても可愛い。焼く前からもうこんなに可愛いのに、焼き上がったらどれほど可愛くなってしまうのか。
塗り卵を塗って、冷蔵庫でしばらく休ませる。そのあとは200℃のオーブンでおよそ30分焼く。そのあいだに、パイ生地に塗るシロップを水とグラニュー糖で作っておくのも忘れない。
オーブンから天板を取り出すと、アップルパイにこんがりと綺麗な焼き色がついていた。すぐにシロップをハケで塗ってあげると、ツヤツヤと輝き出す。
(はあ、なんて可愛いの……)
自分の作ったお菓子が世界一可愛い、と感じるのも親バカの一種なのだろうか。食べるのがもったいないぐらいに可愛いけれど、アップルパイは焼き立てに限る。今すぐ佐久間に食べてほしい。
胡桃はすぐさまアップルパイを抱えて部屋を出ると、隣のインターホンを鳴らした。隣人のもとに突撃するには非常識な時間だが、夜型の佐久間はまだ起きているだろう。
「……こんな時間にどうしたんだ。今日はデートだったんだろう」
予想通り、スウェット姿の佐久間がすぐに顔を出した。
胡桃は「お邪魔します!」と言ったあと、ズカズカと遠慮なく中へと入っていく。ここに来るのもずいぶん慣れて、もう半分我が家のようなものである。
「聞いてくださいよ、佐久間さん! 今日会った男のひと、ほんとに最低だったんです!」
「お、ショソン・オ・ポムじゃないか。見事な焼き上がりだな。今日の紅茶は、ダージリンを少し薄めに淹れることにするか」
佐久間は喚いている胡桃を無視して、テキパキと紅茶を淹れている。いつもと変わらない彼の様子を見て、胡桃は心の底からホッとした。話を聞いているふりをして聞いていない男より、聞いていないようで聞いている男の方が、ずっといい。
「とりあえず、座ったらどうだ」
促されるがままにダイニングチェアに座ると、佐久間は胡桃の目の前にティーカップを置いてくれた。温かい紅茶を飲むと、次第に怒りが落ち着いてきた。それと同時に、じわじわと恐怖感が湧き上がってくる。無事に逃げ帰って来れてよかった、としみじみ思う。
クリーム色の可愛らしいお皿に、小さなスリッパのようなアップルパイが乗せられる。もうそろそろ、日付が変わろうかという時間だ。本来ならば、こんな時間にお菓子を食べるのは憚られるが、今日は甘いものでも食べなければやっていられない。
「……いただきます!」
半ばヤケになったような気持ちで、ぱくりとアップルパイを頬張る。サクサクの生地の中からとろりと溢れ出るリンゴのコンポートは、うっとりするほど甘くて幸せな気持ちになれる。
ああ、やっぱりお菓子って最高。お菓子だけは、胡桃のことを裏切らない。
「……美味しいです」
「そりゃあ、そうだろうな。きみが作ったアップルパイだ」
「佐久間さんも食べてください! そしてあわよくば褒めてください!」
胡桃が言うと、佐久間も続いてアップルパイを口に運んだ。その瞬間、男の表情が幸せそうに綻ぶ。普段仏頂面ばかりしているくせに、お菓子を食べているときの表情は本当に甘い。その顔を見ているだけで、迸っていた怒りや悔しさが薄れていく気がする。
「リンゴに入った洋酒とシナモンが効いているな。このサイズだと、パイのサクサク感がストレートに感じられる。やはり、きみの作るものは美味いな」
褒めて、と言ったらちゃんと褒めてくれるところが、佐久間のいいところだ。
胡桃が無言で彼からの賞賛を噛み締めていると、佐久間も何故だか黙り込んだ。テレビもついていない、深夜の男の部屋はやけに静かだ。二人のあいだにしんと沈黙が落ちたけれど、ちっとも気まずくはない。さっきの男と二人きりの空間に比べると、どれだけ息のしやすいことか。
(……このひとのそばに居ると、不思議と安心する。ちっとも優しくないのに、なんでかな)
「佐久間さん。アップルパイ代だと思って聞いてくれますか」
「なんだ」
「……わたし。今日会った男のひとに、ホテル行こうって言われたんです」
胡桃の言葉を聞いて、佐久間は露骨に不愉快そうな顔をした。胡桃はアップルパイを食べながら、じりじりと湧き上がってくる憤りをそのままぶつけていく。
「最初からずっと、わたしの見た目とか年齢の話しかしないし。全然、わたしの話聞いてないし。いやらしい目で、む、胸とか見てくるし!」
「……」
「下ネタばっかり振ってきて、手握られて、後ろから抱きしめられて……ほんとに最悪……」
「……大丈夫なのか。何もされなかったのか」
「セーフですよ! ちゃんと逃げました! でも、佐久間さんに教えられた通り、急所蹴り飛ばしてやればよかった……!」
「……そうか」
佐久間はほっと息をついたあと、紅茶を飲んだ。それから呆れたように、やれやれと首を振る。
「どうしてきみはマッチングアプリでも、いきなりSランク級のクズを引き当てるんだ。もう少し、マトモな男はたくさんいるだろうに」
「うう……」
たしかに、マッチングアプリの利用者の中にも、真剣に交際相手を探している誠実な男性はたくさんいるだろう。その中でもとびきりのロクデナシを選んでしまうあたり、胡桃の男運のなさは本物だ。
(もうしばらく、男のひとと二人で会うのはやめよう……)
そもそも、本当に恋をする必要があるのだろうか。胡桃はもともと恋愛体質で、常に誰かを追いかけていたいタイプだったが、元カレと別れてからの日々の方が精神が安定している気がする。仕事のストレスが溜まればお菓子を作ればいいし、そのお菓子を「美味しい」と言って食べてくれるひとがいるのだ。
「……わたし、しばらく恋はうんざりです」
「それがいいだろうな。べつに恋愛なんてしなくても生きていけるんだから、無駄に精神を擦り減らすことはないだろう」
佐久間はそう言って、アップルパイをさくりと噛み締めた。そして、「ただ」と意地が悪そうに唇の片側を持ち上げる。
「……きみが男に振られるたびにこんなに美味いものが食べられるなら、それも悪くないかもしれないがな。そういうことなら、どんどん失恋してくれ」
「……やっぱり佐久間さんって、性格悪い」
胡桃がじろりと睨みつけても、佐久間は少しも堪える様子はない。むかっ腹が立った胡桃は、彼の目の前にあるアップルパイの皿をひょいと取り上げてやった。
「あっ、おい。何をするんだ」
「発言には気をつけてください! もしわたしに、わたしの作ったものを美味しいって食べてくれる素敵な恋人ができたなら、佐久間さんなんてお役御免なんですからね!」
「俺にそんなことを言っていいのか。もしそうなったら、俺はきみの恋路を全力で邪魔することになるぞ」
ぎゃあぎゃあと他愛もない言い合いをするこの時間も、何故だか不思議と心地良かった。
もっと男性を見る目が養われて、本当に素敵なひとと出逢って、新しい恋をするまで。まだまだ、この隣人とのおかしな付き合いは続きそうだ。
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