13.新たな恋とアップルパイ(2)
金曜日、夜19時すぎ。仕事を終えた胡桃は、待ち合わせ場所である繁華街の駅前へと向かった。
改札を出る前に駅のトイレに入って、軽く化粧と髪を直す。思えば、ネットで知り合った人と直接会うのは初めてだ。一応写真でお互いの顔を確認してはいるけれど、がっかりされなければいいなと思う。
今日の胡桃は半袖のニットにロングスカート、白のスニーカーを履いている。本当は踵の高いパンプスにしようと思ったのだけれど、ふと佐久間の「そんなにすぐ、知らない男に会って大丈夫なのか」という言葉が頭をよぎったのだ。おそらく、走って逃げるようなことは起きないと思うけれど。
金曜夜の駅前は、いつも以上に混雑している。無事会えるだろうかと不安になったけれど、改札を出て正面にあるコンビニの前に、グレーのスーツ姿の男性が立っているのが見えた。
ゆっくり近づいていくと、向こうも胡桃に気がついたらしく、お互いに探るような視線を交わし合う。
「……あの、ミノルさんですか?」
「あ、やっぱりくるみさん? はじめまして、ミノルです」
「は、はじめまして」
ぎこちない挨拶をとともに、ぺこぺことお辞儀をする。ひとまずスムーズに会うことができてよかった。待ち合わせに行ったものの、誰も現れずに待ちぼうけを食らう、ということもあるらしいから。
「とりあえず、移動しましょうか」
「そうですね」
ミノルが歩き出したので、胡桃もそれを追いかけるように足を進める。歩くのが遅いな、と思ったけれど、どうやら胡桃に合わせてくれているらしい。元カレである彰人や、先日一緒に出掛けた佐久間は、まったく歩幅を合わせてくれないタイプだったのに。
(やっぱり、いいひとかもしれない!)
ちょろい胡桃は、そんな些細なことでミノルへの評価が上がった。会ってみると顔立ちだってなかなか整っているし、写真で見るより好印象だ。いや、もう顔で判断しないと決めたのだけれど。
ミノルが選んだ店は、個室の居酒屋だった。そんなに高級感があるわけではないけれど、ほどほどに落ち着いていてお洒落な雰囲気がある。マッチングアプリで出逢った男女が初めて食事をするには、ちょうどいいかもしれない。
「くるみさん、お酒飲める?」
「はい。少しなら」
「じゃあ生ビールでいいかな」
「あ、えっと……」
胡桃が緊張してまごついているうちに、ミノルが適当に注文をしてくれた。ほどなくして、生ビールと枝豆が運ばれてくる。
「じゃあ、乾杯。お仕事お疲れ様です」
「お、おつかれさまです」
カチンとジョッキをぶつけたあと、お愛想程度に口をつける。最近は飲み会にもあまり積極的に参加していないし、お酒を飲むのは久しぶりだ。甘いお酒は好きだけれど、ビールや日本酒などは、あまり美味しさがわからないというのが本音だった。二杯目はカシスオレンジにしよう、と心に決める。
生ビールをあっというまに飲み干したミノルは、こちらを見て嬉しそうに目を細めた。ニッコリ笑うと目が垂れて、人の良さそうな顔つきになる。優しそうなひとだな、と胡桃は思った。
「それにしても、こんなに可愛くて若い子と会えるなんてラッキーだな。くるみさん、写真で見るより可愛くてびっくりした」
「えっ、いや、そんなこと」
ストレートに褒められて、胡桃は頬を赤らめた。なにせ、容姿を褒められ慣れていないのだ。会社で日頃「美人じゃない方」扱いをされているぶん、ちょっと可愛いと言われただけですぐに舞い上がってしまう。
「こんなに可愛いと、モテるでしょ。えーと、何の仕事してるんだっけ?」
「メーカーの営業事務です」
「そうなんだ。オレも営業だけど、こんなに可愛い事務員さんがいたら絶対口説いてるけどなー」
「いえ、全然……わたしの先輩がすっごく美人で仕事もできて、わたしは完全に引き立て役です」
「えー? 信じられないなあ」
お酒が入ると、少しずつ口が滑らかになってきた。運ばれてくる料理もどれも美味しい。やっとのことでビールを半量ほど飲んだところで、勝手にお代わりを頼まれてしまった。親切のつもりなのかもしれないが、ちょっと困る。
「くるみちゃん、たしか25歳だよね。若いよなー」
次第に打ち解けてきたのか、いつのまにか〝くるみさん〟が〝くるみちゃん〟呼びになっている。ちょっと馴れ馴れしいな、と思ったけれど黙っていた。
「ミノルさんだって、まだ若いじゃないですか」
「くるみちゃんは、歳上の男は恋愛対象としてアリ? 5つ上でもイケる?」
「うーん、そうですね。元カレも歳上だったので」
言ったあとで、こういう場で昔の恋人の話をするのはマナー違反だったかしら、と後悔した。しかしミノルは気を悪くした様子もなく、「そっかあ」と頷いている。
「オレも歳下好きなんだよね。くるみちゃん可愛いし、ほんとにアリだな。このまま付き合っちゃう?」
「はは……」
どう答えていいものかわからず、とりあえず笑ってみた。が、自分の顔が引き攣っているのがわかる。彼の視線が、胡桃の胸のあたりに移って、そのまま止まる。胡桃は反射的に、メニュー表で胸元を隠して彼の視線を遮った。
「あ、次何飲む? せっかくだし、赤ワインでも頼もうか」
「すみません。わたし、あんまりお酒飲まなくて……」
「ちょっとぐらい、いいんじゃない? 金曜日なんだしさ。明日休みでしょ」
「そ、そうですね……」
流れに押し切られて、思わず頷いてしまった。悪いひとではなさそうなのに、このひとと話しているとどんどん息苦しくなってくる。
(さっきからこのひと、わたしの容姿と年齢の話しかしてない……)
好きなこととか、嫌いなこととか。趣味とか特技とか、休日の過ごし方とか。出身地とか、家族のこととか。これからお付き合いを始めるならば、もっと話すべきことがあるんじゃないだろうか。
胡桃の話も、真剣に聞いているふりをしているけれど、ちっとも真面目に聞いていないのが丸わかりだ。さっきから、「何の仕事してるんだっけ」と何度も確認されている。胡桃はだんだんうんざりしてきた。
もっと酷いことに、お酒が進んでいくにつれて、彼の話題は少しずつ如何わしい方向に逸れていった。彼氏とどのぐらいの頻度でしてたの、とか。もっと露骨に、どういうプレイが好きなの、とか、胸大きいね、とか。そんな不躾な質問のすべてに、胡桃は苦笑いを返していた。
二時間半が過ぎたところで、店員が「そろそろお席の時間が」と呼びにきた。どうやら混雑しているため、そろそろ出なければならないらしい。胡桃は心底ほっとする。
「あー、もうそんな時間か。残念だな」
「そうですね。あの、お会計……」
「いいよいいよ、さっきトイレ行ったときに済ませといた」
「えっ」
胡桃は絶句した。気持ちはありがたいけれど、この男に借りを作るのは絶対に嫌だった。お財布からお札を抜こうとした胡桃の手を、ミノルが掴む。思いのほか強い力に、ぞっと肌が粟立った。
「じゃあ、出ようか。くるみちゃん」
ミノルの言葉に、胡桃は無言で頷く。最初は優しそうだと思った笑顔は、今はうっすらと男の欲が透けた下卑たものにしか見えなかった。
店を出たあとも、彼は胡桃の手を離してはくれなかった。慣れないお酒を飲まされたせいで、胡桃の足はややふらついている。駅とは反対側へ勝手に歩いていくので、胡桃は慌てて「あの!」と声をあげた。
「わ、わたし。地下鉄なんですけど」
「え、帰るの? もうちょっとだけ一緒にいようよ」
「……いえ、あの……か、帰ります!」
胡桃は勇気を出して、ミノルの手を振り払った。くるりと踵を返した瞬間に、後ろからがばっと抱きつかれる。ひゅっ、という息が喉から漏れた。
「……ホテル行かない? オレんちでもいいけど」
(この男、最低だ!)
胡桃はようやく、自分の愚かさを悟った。このまま無理やりホテルに連れ込まれてしまうのだろうか。それだけは絶対に、絶対に嫌だ。
背後から男に拘束された絶体絶命の状態で、胡桃が思い出したのは佐久間の言葉だった。
――自分の顔の前にある男の小指を、こうやって掴んで、関節の曲がる方向とは反対側に、全力で曲げる。遠慮はいらない。
胡桃は目の前にある男の指を力いっぱい掴んで、思い切り曲げてやった。それこそ、骨を折ってやるぐらいの勢いで。
「イテェ!」
男が大声で叫んで、ようやく腕が離れた。その隙に、胡桃は全速力で駅に向かって駆け出す。ああ、スニーカーを履いてきてよかった!
胡桃はそれほど足が速い方ではない。本気で追いかけてこられたらたぶん捕まるな、と思ったのだけれど、追いかけてくる気配はなかった。どうやらミノルは諦めたらしい。
しょせん、その程度の気持ちだったのだろう。アプリで出逢ったチョロそうな女とヤれたらラッキー、ぐらいの。
(ああ、わたしってほんとにバカ……)
悔しいけれど、佐久間の言うことは正しかった。やっぱり自分は壊滅的に、男を見る目がないらしい。
駅のホームから地下鉄に飛び乗ったところで、ようやくほっと息をついた。汗びっしょりなのに、身体はカタカタと小刻みに震えている。冷房の効いた車内で、胡桃は自らの身体をぎゅっと抱きしめた。
(……お菓子、作りたい。リンゴのコンポートがたっぷり詰まった、小さめサイズのアップルパイがいい)
扉にもたれて目を閉じると、アップルパイを作る手順を思い浮かべる。それと同時に、胡桃の作ったお菓子を美味しそうに食べる男の姿が浮かんできて、胡桃の心はほんの少し慰められた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます