12.新たな恋とアップルパイ(1)

 失恋の傷もようやく癒えてきた、7月。ここ数日は雨続きで、じめじめと不快な気候が続いている。

 エアコンが効いたフロア内は寒いぐらいで、胡桃は制服の上からカーディガンを羽織っていた。外回りの営業から帰ってきた職員は、蒸し暑そうに汗ばんでいるため、エアコンの温度を上げることはできそうにない。


(はあ、今年も夏がきちゃったな……)

 

 胡桃は夏があまり好きではなかった。焼き菓子作りのベストシーズンは秋冬だと、個人的に思う。どうしても生地の温度が上がってしまうし、クッキーなどは湿度が高いと湿気やすくなってしまう。そもそも、夏は焼き菓子よりともっとさっぱりしたものが食べたくなるのだ。

 せっかくだし、夏らしい涼しげなデザート作りに挑戦してみようか。佐久間さんはアイスやゼリーは好きかしら、なんてことを考えていると、課長に声をかけられた。


「糀谷さん。悪いんだけどこの見積書、技術課まで持って行ってくれる?」


 その瞬間、胡桃はひゅっと息を吸い込んだ。今は比較的手が空いているし、断る理由はない。ワンテンポ遅れて「はい」と返事をする。声がやや震えたが、課長には気付かれなかったらしい。

 一ヶ月前の胡桃だったら、尻尾を振って大喜びでおつかいを頼まれていただろう。技術課には、胡桃の元カレ――香西かさい彰人あきとがいる。


「技術課の森脇もりわきさんが担当だから。もし不在だったら、事務の子にでも渡しといてよ」

「はい、わかりました……」


 ファイルを抱え、胡桃は渋々立ち上がった。エレベーターに乗って、技術課のフロアがある七階へ降りる。営業課の人間は昼どきは出払っていることが多いため閑散としているのだが、それに比べると活気がある。

 不自然にならない程度に、キョロキョロと周囲を確認する。彰人の姿は見えなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。

 彰人と付き合っていたときは、会社で彼の顔を見れるだけで嬉しかった。エレベーターで一緒になったときなど、天にも昇る心地だったのだ。もちろん会社で会話を交わすことはなかったし、せいぜいこっそりアイコンタクトをする程度だったけれど。

 担当者はあいにく不在だったので、事務員にファイルを託すことにした。技術課の事務担当は同期の菅生すごうひとみだ。ものすごく親しいわけではないものの、顔を合わせれば雑談ぐらいはする。


「お、糀谷ちゃん。どしたのー?」

「ひとみちゃん。悪いけどこれ、森脇さんに渡しておいて」

「おけおけ、渡しとく。ところで、どう? 元気してる?」

「うーん、あんまり元気ではない……四半期決算で忙しいよー」

「糀谷ちゃんとこ、大変でしょ。夏原先輩とふたりっきりだもんねえ。あたしだったら絶対ムリ」

「そ、そんなことないよ。助けられてることも多いし」


 ひとみの言葉を、胡桃は慌てて否定した。

 夏原栞がおっかないのは本当のことだが、いつも胡桃のミスをフォローしてくれるし、仕事が積み上がっているときはさりげなく手助けをしてくれる。こんなところで、陰口めいたことを言うのは嫌だった。

 胡桃の反応が思ったようなものではなかったからか、ひとみはつまらなさそうに「ふぅん」と息を吐く。


「……森脇さん、もうちょっとしたら帰ってくると思うけど。香西さんと一緒に出てるから」


 不意打ちで元カレの名前が飛び出してきて、胡桃は内心ぎくりとした。当然ひとみは胡桃と彰人の関係を知らないため、まったくの偶然である。

 彰人が帰ってくる前に、さっさとお暇しよう――そう思った瞬間、胡桃の背後から聞き慣れた声が響いた。


「香西、ただいま戻りましたー!」


 朗々とした、耳に心地良い響き。その声を聞いただけで、胡桃の心臓が大きく跳ねた。

 胸がどきどきと高鳴って、ぐるぐると全身の血液が巡って、かあっと頬に熱がともる。何度も愛を囁いてくれた大好きなひとの声だと、染みついた記憶が教えてくれている。

 別れを告げられたあの日以来、胡桃は彰人の顔を見ていない。


(今、振り返ったら――彰人くんが、そこに居る)


 振り向くべきではない、とわかっている。振り向かずにフロアを出て、エレベーターに飛び乗って、まっすぐ自席に帰るのだ。あんなろくでもない男のこと忘れてしまおうと、心に決めたではないか。

 それなのに、胡桃は振り返ってしまった。

 パーマがかった焦茶色の髪。くっきりとした二重で、黒目がちの大きな瞳。すっと通った綺麗な鼻筋。唇の片側を持ち上げるような、ちょっと斜に構えた笑い方が好きだった。

 彼と目と目が合った瞬間に、胸の奥底で燻っていた恋心が、再び燃え上がってしまう。


(ああ、やっぱり、ぜんぜん……忘れられて、なかった)


 彰人がこちらを見ていたのはほんの一瞬のことで、何事もなかったかのように、すぐにふいっと視線を逸らしてしまう。彼にとって、今の胡桃はただの背景にすぎない。

 胡桃は今にもこぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、ひとみに「じゃあまた」と言って、足早に技術課のフロアをあとにした。

 



「わたし、新しい恋をしようと思うんです」


 胡桃の言葉に、カップケーキを頬張った佐久間は「はあ」と気のない返事をした。

 彼が食べているのは、胡桃が作ったカップケーキだ。大きめに切った生のイチジクが入ったそれを、佐久間はいたく気に入ったようで、先ほどから満足げに口に運んでいる。


「先週会社で、久しぶりに元カレに会ったんです」

「ジャムで作るカップケーキもいいが、生のフルーツを入れるのは格別だな。イチジクの果汁が出て、しっとりとした仕上がりになっている」

「もうとっくに吹っ切れたかなって思ってたのに、顔見たらやっぱり、全然忘れられてなくて。ろくでもないひとだってわかってるはずなのに、未練ばっかりで……」

「それでいてベタベタせず、ちょうどいい焼き上がりだ。生地に入っているアーモンドの風味もいい」

「だからきっぱり忘れるために、新しい恋をしようって心に決めたんです!」

「あのー……さっきから全然話噛み合ってないですけど、ふたりともそれでいいんですか?」


 お互いに言いたいことばかり言い合っている胡桃と佐久間を見て、大和が呆れたように肩を竦めた。


 いつものように、隣人にお菓子を差し入れに行ったところ、偶然大和も佐久間の部屋にやって来ていた。仕事中のようだったが、佐久間が「そろそろ休憩したい」と言ったので、お邪魔させていただくことしたのだ。


「反応がなくても、別にいいんです。壁打ちみたいなものなので」

「一応ちゃんと聞いてるぞ。まだ元恋人に未練があったとは、きみはかなりの被虐趣味らしいな。もしかして、駄目な男に尽くしている自分に酔い痴れるタイプか」

「そ、そんなんじゃないです!」

「じゃあ、どこがいいんだ。そんな男」

「…………顔、とか」


 小さな声でボソリと答えた胡桃に、佐久間は憐れむような表情を浮かべて、「きみは本当に救いようがないな」と言い捨てた。自覚があったので、何も言い返せなかった。


「だ、だから、新しい恋をしようって決めたんです! 今度は顔だけじゃなくて、もっと中身が素敵なひとを見つけますから!」

「そうですね! 僕もいいと思いますよ。失恋の痛手を癒すのは、新たな恋だと相場が決まってます。ねっ、佐久間先生!」


 大和は何故だかやけにウキウキした様子で、身を乗り出してきた。他人の恋愛話を聞くのが好きなタイプなのかもしれない。

 

「やっぱり、筑波嶺さんもそう思いますよね!」

「まず、近くに居るひとに目を向けて見たらどうですかね。運命の相手は、意外とすぐそばにいるもんですよ。ねっ、佐久間先生!」

「筑波嶺くんはやめておいた方がいいぞ。悪い男ではないが、面倒な作家に振り回されて、休みもロクにないからな」

「自覚があるなら振り回すのやめてください……じゃ、なくて! 僕のことじゃありませんよ! ほら、幸せの青い鳥はいつでも足元に……」

「それが、意外と周りにいないんですよね……」


 身の回りにいる男性を思い浮かべてみたが、今ひとつピンとこなかった。胡桃には男友達はほとんどいないし、友人自体がそもそも少ないのだ。営業部には独身男性もたくさんいるが、もう社内恋愛は懲り懲りだ。


「だからわたし、マッチングアプリを始めてみたんです」

「マッチングアプリ?」

「明日、アプリで知り合った男性と初めて会うんですよ! ちょっとドキドキします。素敵なひとだったらいいなあ」

「はあ」

「そうですか……」


 佐久間はつまらなさそうに、大和はがっかりしたように、カップケーキに齧りついた。大和が食べているのはまだひとつめだが、佐久間はもうみっつも食べている。

 元カレと遭遇した日の帰り道、地下鉄の吊り広告を見て「これだ」と思った胡桃は、勢いでマッチングアプリに登録した。そんなに簡単に相手が見つかるものなのだろうかと訝しげに思っていたのだが、すぐに一人の男性から連絡がきた。登録名は〝ミノル〟さん、胡桃より5つ歳上の30歳。すぐ近くで働いているらしく、すぐにでも会いたい、と言ってくれた。一週間ほどやりとりをして、ようやく明日会うことになったのだ。

 胡桃の説明を黙って聞いていた佐久間だったが、次第に眉間の皺が深くなってきた。


「そんなにすぐ、知らない男に会って大丈夫なのか?」

「え? べつに、変なひとではなさそうですけど……」

「どうだろうな。きみは男を見る目がないからな」


 佐久間の言葉に、胡桃は唇を尖らせた。彼の淹れてくれた紅茶を一口飲んで、じろりと睨みつける。


「もう、アドバイスのひとつでもしてくださいよ。わたしに魅力が足りないのは自覚してますから。どうしたら男性をイチコロにできると思いますか?」

「そうだな……筑波嶺くん、ちょっと俺の後ろに立ってみてくれるか」


 佐久間に命じられ、大和は「はい」と素直に彼の後ろに立った。


「男性に後ろから抱きつかれるというシチュエーションがあるだろう」

「ああ! 少女漫画でよく見る、バックハグってやつですね」

「げっ、僕が実演するんですかぁ?」


 大和はげんなりしつつも、渋々佐久間の後ろから腕を回した。二人の身長はあまり変わらないが、大和の方がほんの少しだけ高いようだった。佐久間が猫背なだけかもしれない。


「自分の顔の前にある男の小指を、こうやって掴んで」

「はい」

「関節の曲がる方向とは反対側に、全力で曲げる。遠慮はいらない」

「いててててて!! 痛い、痛いです先生!!」


 思い切り小指を捻りあげられた大和は、大声で喚いてその場に倒れ込んだ。床で呻いている担当編集者をよそに、佐久間は涼しい顔で腕組みをしている。


「非力な女性でも簡単にできる護身術だ。あとは、怯んだところを急所でも蹴り上げればイチコロだろう。覚えておくといい」

「……イチコロって、そういう意味じゃないです! 佐久間さんが、わたしの見る目をまったく信用してないことは、よくわかりました!」

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