10.おかえりブルーベリーマフィン(2)

 両手にキッチンミトンをはめて、オーブンから天板を取り出す。綺麗に焼き上がったマフィンから、甘い香りが漂ってくる。慎重に型からマフィンを取り出しながら、胡桃は尋ねた。


「佐久間さん。一体どうしたんですか?」


 意気消沈した様子の佐久間は、ぐったりとテーブルの上に突っ伏している。目線だけをこちらに向けると、消え入りそうな声でボソボソと言った。


「……今日が締切だというのに、まだ原稿が終わっていない」

「えっ、大丈夫なんですか」

「大丈夫なわけないだろう。今度こそもう無理だ。絶対に無理だ。脳味噌を雑巾のように振り絞っても、一滴たりとも何も出てこない……俺の作家人生もいよいよ終わりだ……」


 出逢って未だ一ヶ月ほどだが、こんなにも弱っている佐久間を胡桃は初めて見た。いつもの無駄に自信満々で傍若無人な彼は、どこに行ってしまったのだろうか。


「……かくなるうえは、もう世界を滅ぼすしかない」


 しかしこういうとき、胡桃のように漫然と「世界滅びないかなあ」と願うだけでなく、積極的に滅ぼそうとするあたりが、佐久間凌の佐久間凌たるゆえんである。


「とりあえず、マフィン食べましょう。紅茶淹れますね」

「……マフィンにはアッサムティーがいい……」

「すみません、スーパーで売ってるブレンドのティーパックしかなかったです。これでいいですよね」


 胡桃の言葉に、佐久間は反論しなかった。電子ケトルで湯を沸かし、ティーパックを入れたマグカップにお湯を注ぐ。「熊出没注意」と書かれた北海道土産のマグカップは、胡桃が元カレのために買ったものだった。

 ブルーベリーとクリームチーズが入ったマフィンを皿に乗せて、紅茶とともに彼の前に置く。死んだ魚のようだった彼の瞳に、ようやくわずかに光が宿った。


「……いただきます」

「はい、どうぞ」


 焼きたてのマフィンにフォークを入れて、そのまま口へと持っていった。もぐもぐと咀嚼しているうちに、佐久間の表情が安心したように和らいでいく。


「……美味いな」

「それはよかったです」

「やはりブルーベリーとクリームチーズの相性は最高だ……クランブルのサクサク感もいい。甘さが程良くて、いくらでも食べられそうだ」


 突然饒舌になった佐久間に、胡桃はほっと胸を撫で下ろした。いつも感じが悪いひとだけど、らしくもなく弱っているところはあまり見たくない。


「よかったです。実はこのマフィン、佐久間さんのために作ったんですよ」

「へ」

「佐久間さんに会いたかったから。お菓子作ったら、もしかしたら帰ってくるかなーって。まさか、ほんとに帰ってくるとは思いませんでしたけど」


 胡桃がニコニコと言うと、佐久間は狼狽したように落ち着きなくマグカップを持ち上げて、口もつけずにそのまま戻す。


「な、なんなんだそれは。あ、会いたかったって、どういう意味だ」


 胡桃はベッド脇に置いていた文庫本を手に取ると、佐久間に向かって「これ!」と見せる。黒い犬の表紙を見た佐久間は、なんだか嫌そうに表情を歪めた。


「……俺の本じゃないか。まさか、読んだのか」

「読みました! あの、ほんとに……す、すごかったです!」


 胡桃は文庫本を胸にぎゅっと抱きしめる。あんなにたくさん感想があったはずなのに、いざ口にしようとすると、ちっとも上手く言葉にできない。自分の語彙の少なさが恨めしい。


「あ、あの……読みながらずっと、ドキドキしてて。ずーっと最悪を更新し続けてて、すんごい嫌な気分になるんですけど、途中でやめられなくて! 特にあの、主人公がずっと心の支えにしてたモノの正体がわかるところ、わたしもうこれ書いた人性格悪すぎ! って思いましたもん!」

「……」

「えっと、わたし普段、本とかあんまり読まないんですけど、一気に読んじゃって、あの、とにかく……ものすごく、面白かったです! 書いてくださってありがとうございます!」


 思っていたことの半分も伝えられなかったが、感想を口にしたことで、胡桃はちょっとすっきりした。ふぅ、と息をつくと、カラカラに乾いた喉を紅茶で潤す。


「……あの、それを伝えたくて、佐久間さんを待ってたんですが」

「……」

「……ん? 佐久間さん?」


 片手で顔を覆った佐久間は、ふいとそっぽを向いて胡桃から目を逸らしている。黒髪から覗く耳が赤く染まっていることに気付いて、胡桃は身を乗り出した。


「……佐久間さん、もしかして照れてます?」

「……」


 返事はない。が、おそらく照れているのだろう。胡桃が顔を覗き込もうとすると、佐久間はくるりと身体ごとむこうを向いてしまった。


「……まさか、読むとは思わなかった……きみが読むような作品じゃないだろう」

「読みますよ。布教されましたもん」

「……担当以外の人間から、自作の感想を面と向かって言われることに慣れていないんだ。俺の身内は、俺の本を読まないから」

「えっ、そうなんですか」


 そのあたりの感覚は、胡桃にはよくわからない。ひとつだけわかるのは、普段無愛想な隣人が照れているところはちょっと可愛い、ということだ。


「ねえ佐久間さん、こっち向いてくださいよ。照れてるとこ見たいです!」

「な、なんなんだ! 30手前の男の照れ顔なんて見ても、面白くもなんともないだろう!」

「そんなことないです! 普段態度の悪い大人の男の照れ顔でしか得られない栄養があるんです!」

「何を言ってるんだ、きみは!」


 胡桃を怒鳴りつけた佐久間は、誤魔化すようにマフィンを頬張った。目の前で胡桃の作ったマフィンを食べている男が、あんなに素晴らしい作品を書いただなんて、なんだか信じられない。


「佐久間さんって、天才だったんですね……」

「はあ?」

「あんなお話が書けるなんて、すごいです。わたし、文章書くのも絵を描くのも下手だし、そういうクリエイティブな才能が備わってないから。尊敬しちゃうなあ……」


 そういえば栞の話によると、佐久間は高校在学中にに新人賞を受賞したと言っていた。その若さで、自分の才能ひとつで生きていく道を選んだ彼の覚悟は、いかほどのものだったのだろうか。

 どこをとっても平均かそれ以下、平々凡々な胡桃には、必死で勉強してそれなりの大学に入って、それなりの会社に就職するしか選択肢がなかった。良く言えば堅実なのだろうが、つまらない人間だな、と自分でも思う。

 溜息をついた胡桃に向かって、佐久間は「何をバカなことを言ってるんだ」と呆れたように言った。プレートの上に乗ったマフィンを指差す。


「これは、きみの立派な才能だろう」

「……これが?」

「俺にしてみれば、こんなに美味いお菓子を作れる方がよほど凄い。天才はきみの方だ」

 

 真正面からまっすぐ褒められて、胡桃の頬はかあっと熱くなった。それを見た佐久間は、さっきまでのお返しとばかりに意地悪い笑みを浮かべる。


「なんだ。きみも照れてるじゃないか」

「……反省しました。面と向かって〝天才〟って言われるの、すごくこそばゆいです」

「わかったならいい」


 佐久間はそう言って、マフィンをぱくりと食べる。それからマグカップに入った紅茶を飲み干したあと、はっとしたように瞳を見開いて、勢いよく立ち上がった。


「……今なら書けそうな気がする」

「えっ! ほんとですか。完成したら読ませてくださいね!」

「無事に発売したら買ってくれ。俺は自分の部屋に戻る」

「あ、それじゃあ残りのマフィンも持って行ってください」

「いいのか」

「一日経ったら味が落ち着いて、また別の美味しさがありますから、朝ごはんにでもしてください。だから、あの……締切間に合わなくても、世界滅ぼさないでくださいね」

「……善処しよう」


 胡桃の言葉に、佐久間は大真面目な顔で頷いた。胡桃が包んだマフィンを受け取ると、バタバタと慌ただしく部屋を出て行く。

 日付が変わるまで、あとおよそ2時間。果たして彼は、締切に間に合わせることができるのだろうか。

 一人残された胡桃は、頬杖をついて先ほどの佐久間の言葉を反芻する。


(……才能。才能かあ……)


 自分にお菓子作りの才能があるなんて、考えたこともなかった。あくまでも趣味の範疇で、家族や恋人にだけ食べてもらえれば、それでいいと思っていた。


(わたしが作ったものでも、知らないひとの心を動かすことができるのかな)


 佐久間が書いた作品に、胡桃が大きく心揺さぶられたように――胡桃の作ったお菓子にも、そんな力があるのだろうか?

 プレートに乗ったマフィンを手で掴んで、そのままむしゃりと齧りつく。しっとりとした生地に、甘酸っぱいブルーベリーとまろやかなクリームチーズがマッチして、とても美味しい。かなりの自信作だ。


(……まあとりあえず、今は。自分と……ついでに佐久間さんのことだけ、幸せにできればいいかな)


 今ごろ隣の部屋で、必死で脳味噌を搾っているだろう男のことを考えながら、胡桃はそう思った。

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