09.おかえりブルーベリーマフィン(1)

 佐久間との「おでかけ」から、はや二週間が経った。ここ数日、隣人が部屋にいる気配がない。

 何時に帰ってきても、電気が消えている。カーテンもずっと閉まったままだ。昨日の夜などは、「先生ー! どこ消えちゃったんですかー!」という担当編集の悲痛な叫び声が聞こえてきた。

 そういえば、締切が近付くと音信不通になることが多いと言っていた。担当の追及から逃れるため、どこかにフラッと消えてしまったのだろうか。多少心配だったが、胡桃は佐久間の連絡先すら知らない。まあ、子どもではないのだから直に帰って来るだろう。


 今日は水曜日、残念ながら明日も仕事だ。6月末は四半期決算があるため、通常業務に加えて余計な仕事が増えてうんざりする。

 そろそろ寝ようかとベッドに潜り込んだところで、枕元に置いている本にふと気がついた。表紙に黒い犬の絵が書かれた文庫本。著者は佐久間諒。


(そういえば佐久間さんの本、担当さんに貰ったんだっけ……)


 胡桃はあまり活字を読む習慣はないが、タダで譲ってもらったのだから、とりあえず読んでみるのが義理というものだろう。

 あまり怖い話で眠れなくなったら困るな、と思いつつ。胡桃は背中と首の後ろにクッションを置き、文庫本を開いて――


 気がついたら、朝だった。

 最後のページを読み終えて文庫本を閉じた瞬間、胡桃は「うぅ〜」と唸って頭を抱える。とんでもない話を読まされてしまった。読んだことを後悔さえしているのに、もう一度最初から読み返したくなっている。

 彼の文章は支離滅裂で、登場人物も頭のネジが外れたキャラクターばかりで、場面展開も唐突だ。それなのに異様なほどに読みやすく、するすると頭の中に入ってくる。陰鬱で醜悪な話の展開の中に、くすりと笑ってしまうようなユーモアもある。情景描写があまりにも真に迫っていて、本を閉じたくなるような場面もあるのに、続きが気になってページを捲る手が止まらなかった。

 もうこれ以上の地獄はないだろうと思っていても、次々に地獄の底を見せられて、まるで読者を奈落の底に突き落とすような結末だった。それでも、ほんのひとかけらの救いを垣間見せてくるところがまた憎い。

 シンプルに、一言で言うならば。佐久間諒の作品は、とてもとても面白かったのだ。


(ああ、この気持ちを誰かに聞いてほしい……)


 とにかく今読んだ作品の感想を、誰かにぶつけたかった。胡桃に布教してきた大和が適任なのだろうが、当然連絡先を知らない。どうしようもない熱量を抱えたまま、ベッドの上でジタバタすることしかできない。

 そのときスマートフォンのアラームが鳴って、胡桃ははっと我に返った。まずい。そろそろ会社に行く準備をしなければ、遅刻してしまう。

 胡桃は慌ててベットから出ると、冷たい水で顔を洗うべく洗面所へと向かった。




 カタカタとパソコンを叩きながら、必死で欠伸を噛み殺す。一睡もしないままに出社したせいで、いつも以上に脳の回転が遅い。仕事は次々と舞い込んできたけれど、胡桃はどこか上の空だった。

 昨夜読んだ佐久間の小説が、頭から離れない。気を抜くと、精神が物語の世界の中に吸い寄せられてしまう。


「……さん。糀谷さん」

「! は、はい!」


 名前を呼ばれて、はっと我に返った。隣を向くと、相変わらず怖い顔をした栞がこちらを見ている。


「この書類、点検お願いします」

「わ、わかりました」


 手渡されたファイルを受け取る。顧客へ手交する一部の書類については、ふたりのあいだで相互点検をするルールだ。とはいえ、栞の作成する書類はいつだって完璧で、ミスなんてほとんどないのだけれど。ダブルチェックの必要性はわかっているつもりだが、わたしの点検必要なのかしら、と胡桃は常々思っている。


(……夏原先輩は、佐久間さんの本読んだことあるかな……)


 一瞬だけ手を止めて、チラリと栞を横目で見る。視線に気付いたらしい栞は、こちらを向いて怪訝そうに眉をひそめた。


「……なにか?」

「い、いえ。……あ、あの……夏原先輩。佐久間諒、っていう作家さん知ってますか?」


 雑談めいたものを栞に振ったのは、初めてのことだった。栞はやや驚いたように瞬きをしたあと、「ええ」と頷く。


「たしか10年ぐらい前に、高校在学中に新人賞を受賞した作家ですよね。当時私も高校生だったので、覚えています」

「わ、やっぱり有名なんですね! すごい! よ、読んだことありますか!?」

「いえ。あまり読まないジャンルの作品なので」

「あ、そうなんですか……」

「その話、仕事に関係ありますか? ないなら黙って手を動かしてください」


 ぴしゃりと叱られてしまって、胡桃はしゅんと萎縮した。

 たしかに今は業務時間中だし、栞の言うことは全面的に正しい。だけれども、少しぐらい雑談に付き合ってくれてもいいのに、と思う。このひとの隣にずっといると、息が詰まりそうだ。


(はあ、早く誰かに感想言いたい……誰か聞いてくれそうなひと、いないかなあ……)


 書類に目を通しながら、胡桃はひっそり溜息をこぼす。佐久間さんに頼んで筑波嶺さんの連絡先教えてもらおうかな、と考えたところで、ハッとした。


(そうだ。佐久間さんに直接感想伝えればいいじゃない!)


 他でもない、あのとんでもない作品を生み出したのは佐久間そのひとである。感想を伝えるならば、彼以上の適任者はいないだろう。

 そうと決まれば、今日はできるだけ残業せずに早く帰らなければ。ようやくやる気が湧いてきた胡桃は、むんと制服の袖をまくって、書類に向き直った。




 19時まで残業して帰宅しても、隣の部屋の電気は消えていた。締切を目前にして、未だ消息を絶っているのかもしれない。胡桃は心底がっかりした。


(感想、直接伝えたかったのに……)


 スーパーで買ってきた豚肉とキャベツとモヤシを炒めて、もそもそと食べた。ソファに寝転んでテレビを見ても、ちっとも内容が頭に入ってこなかった。何をしていても腹の底がウズウズモヤモヤしていて、どうにも落ち着かない。

 佐久間の他の作品も読んでみようかと思ったが、あんな劇薬のようなものを連日摂取するのはキツすぎる。さすがに、今日は眠らないとまずいだろう。

 何度もベランダに出て、隣の部屋を確認してみるが、いっこうに電気は点かない。狼煙でも炊いてみようかしら。


(……お菓子作ったら、匂いにつられて帰って来たりして)


 そんなことを考えて、胡桃はふふっと笑った。一体佐久間のことを何だと思っているのだろうか。それでも、やってみる価値はあるかもしれない。なにせ、あの男は筋金入りの甘党なのだ。

 

 胡桃はキッチンに向かうと、部屋着のワンピースの上からエプロンを身につけた。何を作ろうか考えて、冷蔵庫を覗いてから、ブルーベリーとクリームチーズの入ったマフィンにしよう、と決める。

 まずはマフィンの生地からだ。バターを入れて練ったあと、砂糖と塩とバニラオイル、それからハチミツを加える。しっかりと攪拌しながら、卵を数回に分けて入れる。ふるっておいた薄力粉、アーモンドプードル、ベーキングパウダーを1/3ほど入れて、ヘラで混ぜる。牛乳と残りの粉を交互に加えて、混ぜすぎないようにさっくりと混ぜる。

 手を動かしながら、もし帰ってきたら佐久間に何を言おうかと考えていた。胡桃は国語があまり得意ではなかったし、学生の頃に読書感想文を書かされるのもいつも苦痛だった。それでも今は、この気持ちを彼に伝えたい、と思っている。

 生地が完成すると、マフィンの型に均等に入れていく。その上から、冷凍のブルーベリーとクリームチーズ、冷蔵保存していたクランブルを乗せる。180℃に予熱したオーブンに入れて、25分。

 オーブンからいい匂いが漂ってきたところで、胡桃はふと思いついて窓を開けた。六月の夜の空気は湿り気を帯びていて、蒸し暑かった。どこにいるのかわからない隣人に向かって、心の中で語りかける。


(佐久間さん、早く帰ってこないと、ぜんぶわたしが食べちゃいますよー。焼きたてのマフィン、すっごく美味しいんですからね)


 オーブンがピーッと音を立てて、焼き上がりを知らせたその瞬間。ピンポーン、と部屋のインターホンが鳴った。

 まさかと思い、エプロン姿のまま玄関に走って、勢いよく扉を開ける。目の前に現れた男は、うつろな目でひくひくと鼻を動かした。


「……お菓子の匂いがする」

「……ほ、ほんとに帰ってきちゃった……」


 胡桃はぽかんと口を開いた。佐久間の黒髪はいつも以上にボサボサで、今にも死にそうなほど憔悴しきった顔をしている。


「とにかく、入ってください」


 胡桃がそう言うと、佐久間はフラフラと部屋へと足を踏み入れる。他人を迎えるつもりはなかったし、それほど綺麗に片付いているとは言い難いが、相手が佐久間ならばまあいいだろう。

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