08.おでかけバターサンド(2)

 佐久間に連れられてやってきたのは、住宅街の一角にある焼き菓子店だった。ごく普通の邸宅にまぎれてひっそりと佇んでおり、意識しなければ素通りしてしまいそうだ。店の前に〝cohaRu〟と書かれた看板がさりげなく立っている。コハル、と読むのだろうか。チョコレート色の扉には、鈴蘭のスワッグが掛かっていた。

 到着したのは9時40分だったが、すでに三人が開店待ちをしていた。佐久間とふたり、最後尾に並ぶ。


「やっぱり、開店前から並んでるんですね」

「そうだ。ここでは取り置きはやってないし、人気商品はすぐに売り切れるからな。店内が狭いから、一組ずつ順番に入ることになる」

「了解です」


 寒くも暑くもないちょうど良い気候ということもあり、待つのはそれほど苦痛ではなかった。佐久間も胡桃もほとんど喋らなかったが、沈黙を気まずく感じることもなかった。元カレと一緒にいるときは、「つまらないと思われたくない」と必死で話していることが多かった気がするが。


(なんで、こんなに楽なんだろう。……このひとには、どう思われても構わないからかな)


 そんなことをぼんやり考えていると、店の中か出てきた年配の女性が、「お待たせしましたあ」と言いながら〝OPEN〟の札を出した。一番乗りの若い女性は、意気揚々と店内へと入っていく。

 中で食事をするわけではないので、順番はすぐに回ってきた。扉を開けて店内に入ると、カランコロン、と軽い音が鳴る。ふわりと甘い、バターの香りが漂ってくる。胡桃の大好きな匂いだ。


「いらっしゃいませ」


 どうやら店員は女性ふたりだけらしい。カウンターの上に、焼き菓子がずらりと並んでいる。クッキーにパウンドケーキ、サブレにマドレーヌ。佐久間おすすめのバターサンドもある。色彩は地味で、SNS映えするような華やかなものではないけれど、どれも可愛くて愛おしい。胡桃は両手を胸の前で組んで、はしゃいだ声をあげた。


「わあ! どれにしようか目移りしますね」

「お、今日はキャロットケーキがあるのか。これもかなり美味いぞ」


 佐久間の言葉に、店主らしい女性がくすりと笑って「いつもありがとうございます」と言った。どうやら顔を覚えられているらしい。

 焼き菓子を見つめる佐久間の瞳は、まるで少年のようにきらきらと輝いている。それを見ていると、胡桃はなんだか面白くない気持ちになってきた。ブルームーンのシュークリームを食べる佐久間を見たときと、同じ感情だ。


(……わたしのお菓子を食べるときよりも、嬉しそうな顔しないでほしい)


「…………浮気者」

「ん? 何か言ったか?」

「いえ、なんでもないです!」


 思わずこぼれた本音を誤魔化すように、胡桃はぷいっと目を逸らした。どれにしようかと吟味していると、店主はニコニコと話しかけてくる。


「バターサンドは、味が週替わりなんですよー。今週は黒ゴマチョコレートです」

「わ、美味しそう。ちょっと和風なテイストもいいですね!」

「前回来たときはラズベリーとミントだったな。斬新な組み合わせだと思ったが、美味かった」


 胡桃は悩みに悩んで、バターサンドのプレーンと黒ゴマ、バニラのパウンドケーキ、ブールドネージュクッキーを選んだ。佐久間は全種類とまではいかないまでも、かなりの量を購入していた。会計をしようと思ったところで、佐久間に押し留められる。


「俺が買う。もともと、そういう話だっただろう」

「え、そうでしたっけ」


 佐久間はそう言って、さっさと支払いを済ませてしまった。胡桃がぼうっとしていると、茶色の紙袋を手渡される。


「いつもお菓子を作ってもらっている礼だ。今後ともよろしく頼む」

「は、はい。こちらこそ」


 紙袋を受け取ると、佐久間の後ろについて店を出た。「ありがとうございましたー!」という声を背中で聞きながら、彼と並んで歩き出す。


「よし、次に行くぞ。こっちはチョコバナナマフィンを取り置きしてある。他にも欲しいものがあれば遠慮なく選んでくれ」

「はい」


 胡桃のものよりも大きな紙袋を抱えた男の横顔を盗み見ると、口元が嬉しそうにニヤニヤ緩んでいた。ちょっと悔しいけど、幸せそうなひとの顔見るのって、なんかいいな。




 それから胡桃と佐久間はパティスリーを三軒回り、あれこれ目移りしながら買い込んだあと、マンションへと戻ってきた。

 スイーツオタクの佐久間と二人、大好きなお菓子を見ながらあれこれ言い合うのは、思っていたよりもうんと楽しかった。が、甘ったるい空気は微塵もなく、デートというよりは買い出しのような雰囲気だった。


「今日はありがとうございました」


 部屋の前で「それでは」と別れようとしたところで、「ちょっと待て」と佐久間に呼び止められる。


「なんでしょう」

「きみは、バターサンドをどうやって食べるつもりだ」

「どうやってって……普通に手掴みで食べます」

「そういうことじゃない。合わせる飲み物の話だ。まさか適当に、そのへんのインスタントコーヒーで食べるんじゃないだろうな」


 お菓子と食べる飲み物のことなんて、真剣に考えたことがなかった。一緒に飲むのは、たいていスーパーで売っているティーパックの紅茶か、佐久間の言うところの「そのへんのインスタントコーヒー」である。


「ちょうどおあつらえ向きに、うちにはバターサンドにぴったりの紅茶があるんだが」

「? はあ」


 迂遠な佐久間の発言に、胡桃は首を傾げる。佐久間は顰めっ面でこちらを睨みつけたまま、焦れたように言った。

 

「……察しが悪いな。飲んでいかないか、と言っているんだ」


 佐久間は溜息をつくと、胡桃が手にしていた紙袋を奪って、部屋の中に入っていった。相変わらず、こちらの意見を聞かないひとだ。しかし不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。


 キッチンに立った佐久間は、手慣れた様子で紅茶を淹れた。いつもの黒いスウェット姿ではなく、ちゃんとした格好をしていると、まるで素敵なカフェスタッフのように見える。


「ディンブラだ。しっかりとした渋みがあり、まろやかなバタークリームとよく合う」

「へえ。佐久間さんといると、紅茶に詳しくなれそう」

「洋菓子を楽しむために、紅茶は必要不可欠だからな。きみも勉強するといい」


 プレートの上にバターサンドをふたつ乗せて、ティーセットとともに並べる。厚みのあるバタークリームを丸いサブレでたっぷり挟み込んでおり、横から見るととても可愛らしい。見た目も匂いも、非常に食欲をそそる。

 そこでようやく空腹であることに気付いて、昼食を食べそびれていたことを思い出した。時刻はもう15時過ぎだ。


「そういえば、お昼ごはん食べ損ねましたね……おなか空いちゃった」

「これが昼食ということでいいだろう。俺は夜にキャロットケーキを食べる。野菜が入っているから、夕食ということにしておく」


 真顔で言ってのけた佐久間に、胡桃は呆れた。まるで子どもの理屈である。キャロットケーキに入った人参だけで、生きていくうえで必要な栄養素が補えるとは思えない。


「……佐久間さんって、甘いもの以外も食べるんですか?」

「必要なら食うが、極力甘味だけを食って生きていきたい」

「うわあ、糖尿病で死んじゃいますよ。それにしても、ずいぶんたくさん買い込みましたね……」


 カウンターの上に置かれた戦利品たちを見て、胡桃は言う。胡桃もそれなりの量を買ったが、佐久間はここまでの三軒で大量の焼き菓子を購入していた。胡桃の父も、ときおり研究と称してお菓子屋さん巡りをしていたが、それでもここまでの量ではなかった気がする。

 食べ切れるのか少し心配になったが、普段の食べっぷりから見るに、きちんと期限内に消費するのだろう。彼の血を舐めたら、甘い味がするかもしれない。


「……これでも、かなり買い控えてる方なんだが。いつも〝ここからここまで全部〟と言いたいのを必死で我慢しているからな」

「お店ごと買い取っちゃえばいいのに。パティスリーのオーナーになって、パティシエさんに好きなときに好きなだけ好きなお菓子作ってもらうの」


 冗談めかして胡桃が言うと、佐久間は「子どもじみたことを言うな」と呆れたあと、遠い目をして呟いた。

 

「……そういえば、小さい頃。〝大きくなったらお菓子屋さんと結婚する〟と言っていた記憶があるな」

「ふふっ。なにそれ、かわいい」


 無愛想な男のあまりにも可愛らしい幼少期のエピソードに、胡桃は思わず吹き出してしまう。佐久間はムッとした顔で、「大昔の話だぞ」と言う。


「今はそんな馬鹿げたことは考えていない。パティシエと結婚するよりも、パティスリーを買い取るよりも、お菓子を作るのが上手い隣人の愚痴を聞く方が、安上がりで楽で確実だ」

「あら、そうですか?」


 さんざんな物言いだというのに、胡桃はちょっと嬉しくなる。「えへへ」と思わずにやつくと、「なんで笑っているんだ」と不審がられてしまった。


「なんでもないです。それじゃあ佐久間さんイチオシのバターサンド、いただきます」


 胡桃はそう言って、両手を合わせる。まずはプレーン味のバターサンドを手に取って、さくっと一口齧った。


「! 美味しい!」


 サクサクのサブレはほんのりと塩気が効いており、クリームの甘さを引き立てている。サンドされたバタークリームは濃厚でコクがあるのにくどくなく風味が豊かで、素材の味がしっかりと感じられた。

 胡桃はティーカップを持ち上げると、紅茶を一口飲んだ。佐久間の言う通り爽やかな渋みがあり、芳醇な香りがする。


「ああ。やっぱり美味いな」


 正面に座る佐久間も、しみじみと言った。胡桃はティーカップを持ち上げたまま、彼の顔をじいっと見つめる。甘いものを食べているときの隣人は、本当に幸せそうなのだ。


(うーん。やっぱりこのひと、黙ってたらかっこいいんだな)

 

 奥二重のすっきりとした目元に、すっと通った鼻筋、やや薄めの唇。なにより、顎から首にかけての稜線がシャープで非常に美しく色気がある。いわゆる塩顔イケメン、というジャンルに含まれるのだろうか。


「普段はわからなかったけど、佐久間さんって結構かっこよかったんですね」


 一応褒めたつもりだったのだが、佐久間は微妙な顔をした。顔を上げてこちらを見ると、フンと不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「そうやって簡単に顔面に騙されるから、ろくでもない男に引っかかるんじゃないか」


 バッサリと斬り捨てられて、ぐうの音も出ない。おっしゃる通り、胡桃はどちらかというと面食いである。


「う……たしかに、元カレも一目惚れでした……入社してすぐ、他部署での交流会で見かけて。顔がものすごく好みだなーって」

「ほら見たことか。次はちゃんと中身も踏まえたうえで選ぶことだな」

「そうですね。佐久間さんも顔はかっこいいけど、喋ると台無しですもんね……」

「それを面と向かって言えるきみも、なかなかいい性格をしているぞ」


 彼とそんなやりとりをしていると、未だじくじくと血が流れ続けている傷口が、ほんの少しだけ癒えるような気がする。残りのバターサンドを口の中に放り込んで、「うん」と頷いた。


「……やっぱり、佐久間さんの言う通りでした」

「何がだ」

「このバターサンド食べたら、ろくでもない元カレのことなんて忘れられそうです」

 

 胡桃がふにゃりと笑ってみせると、佐久間の表情がむすっとしたものに変わる。「……単純だな」と吐き捨てて、ふいっと視線を逸らしてしまった。

 唇をへの字に曲げている男は、決して甘くはないけれど。機会があればまた二人でおでかけをして、一緒に甘いお菓子を食べるのも、悪くないかもしれない。

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