07.おでかけバターサンド(1)

 ピンポーン、というインターホンの音で目が覚めた。

 ゆるゆると瞼を持ち上げた胡桃は、充電器に刺さったままのスマートフォンで時刻を確認する。6月最初の日曜日、午前8時50分。いつもの休日なら、まだ眠っている時間だ。

 寝起きの悪い胡桃は、再び枕に顔を埋めてウトウトし始める。と、ピンポンピンポン、とインターホンが連打された。あまりのしつこさに「はぁ〜い……」と覇気のない声で返事をした胡桃は、やっとのことでベッドから這い出る。寝ぼけ眼を擦りながら、玄関の扉を開けた。


「なんだ、まだ寝ていたのか」


 そこに立っていたのは、背の高い爽やかなイケメンだった。黒髪のマッシュショートで、やや長めの前髪を斜めに流している。ブルーグレーの長袖シャツに黒い細身パンツという出でたちは、シンプルだったが清潔感がありよく似合っていた。


(こんなにかっこいい知り合い、いたっけ……)


「……どちらさまですか?」

「まだ寝惚けているのか。出掛けるぞ。30秒で支度しろ」


 海賊でも40秒は猶予をくれるというのに、ずいぶんと横暴だ。その不遜な物言いで、やっと目の前にいる男の正体に気がついた。

 ようやく脳が覚醒して来た胡桃は、目の前にいる爽やかイケメンの顔面をまじまじと見つめる。


「もしかして佐久間さん?」

「もしかしてもクソもないだろう。きみはたった一週間会わないだけで、ひとの顔を忘れるのか」


 佐久間は心底呆れた顔で、はぁ、と溜息をついた。たしかによくよく見てみると、無愛想で口と目つきが悪い隣人に間違いない。服装や髪型の爽やかな雰囲気で誤魔化されていて、わからなかった。

 それにしても、こうしてちゃんとした格好をしていると、結構かっこいい。胡桃がぼうっと見惚れていると、パチンと額を人差し指で弾かれた。


「いたっ」

「まさか、俺との約束を忘れていたんじゃないだろうな」

「ちゃ、ちゃんと覚えてましたよ。こんなに早く迎えに来るとは思ってなかっただけです」


 今日はことのなりゆきで、佐久間と二人でお出かけをすることになっている。時間のことは何も言われなかったので、どうせ午後からだろうと高を括り、昼前まで寝ようと思っていたのだが。


「ちょっと早くないですか?」

「早くない。行きたい店は10時オープンだ」

「まだ9時前ですけど……もしかして、開店前から並ぶつもりですか」

「当たり前だ。バターサンドが売り切れたらどうする」


 堂々と言ってのけた佐久間に、胡桃は呆気に取られた。

 胡桃もかなりお菓子が好きだが、どちらかというと自分で作る方が専門で、パティスリーの開店待ちをしたことは一度もない。やはり甘味に対する隣人の熱意は、なかなか凄まじいものがある。


「俺は部屋で待ってるから、準備ができたら呼びに来てくれ」


 佐久間はそう言って、さっさと自分の部屋に戻ってしまった。なんて一方的なひと、などと憤る暇もない。

 胡桃は大急ぎで身支度を整えた。歯磨きをしたあと、顔を洗って化粧をして、長い髪を頭の後ろでひとつにまとめる。

 服をじっくり選ぶ時間はなかったので、一枚でそれなりに様になるように、七分袖のセパレート風ワンピースにした。ベージュのぺたんこパンプスを履いて外に出ると、急いで隣の部屋のインターホンを押す。すぐに出てきた佐久間は、高級そうな腕時計を一瞥した。


「9時10分か。意外と早かったな」

「そりゃどーも!」

「17分のバスに乗れるな。急ぐぞ」


 佐久間はエレベーターのボタンを押して、タイミングよく到着した箱に乗り込む。置いていかれないように、慌ててその背中を追いかけた。




 マンションの最寄りにあるバス停から、普段は乗らない系統のバスに乗った。日頃はJRや地下鉄を利用することが多いため、なんだか新鮮な気持ちがする。後ろから二番目の、ふたつ並びの席に腰を下ろすと、ぷしゅう、と音を立ててバスが発車した。

 窓際に座った佐久間は、まるで親の仇でも睨みつけるかのような目で窓の外を見つめている。怒っているわけではなく、きっともともとそういう顔なのだ。

 じっと見つめていると、差し込んでくる太陽の光が眩しくて、胡桃はパチパチと瞬きをした。今週から6月に入ったが、まだ梅雨入り宣言はなされていない。今日もとても良い天気だ。

 佐久間の頭の向こうにあるカーテンを閉めようと、胡桃は身を乗り出して手を伸ばす。カーテンの端っこを掴んだ瞬間、佐久間がこちらを向いた。至近距離にある彼の瞳が、ぎょっと見開かれる。


「え、な、なんだ。なんなんだ」

「あ、ごめんなさい。カーテン閉めようと思って」

「それならそうと口で言え!」


 佐久間は目を三角につり上げると、シャッと勢いよくカーテンを閉めた。すると、眩しい光がようやく遮られる。ぷいとそっぽを向いた彼が何故怒っているのかわからず、胡桃は首を傾げた。


「ところで、どこで降りるんですか? 結構遠い?」

「一軒目の店は10分ぐらいで着く。二軒目の店は、そこから電車で15分ぐらいだな。そっちはマフィンがお薦めだ」


 どうやら今日は、彼のお薦めのパティスリーを巡ることになるらしい。強引だなとは思ったが、胡桃も興味があったので異論はなかった。美味しいお菓子に出逢えると思うと、ワクワクする。

 思えば、こうして休日に出掛けるのはずいぶん久しぶりだ。いつも部屋に引き篭もってお菓子ばかり作っていたが、たまにはこうして外出するのもいいものだ。


「わたし、こうやって休みの日におでかけするの、久しぶりです」

「……恋人と出掛けたりはしなかったのか」

「はい。彼とは、ほとんどおうちデートだったから……」

「ふーん。インドア派だったんだな」

「いえ、そういうわけじゃなくて。彼自身はかなりアクティブで、キャンプとか好きなんですけど。会社のひとに見られたくなかったんだって」

「はあ? なんでだ?」


 佐久間が怪訝そうに眉を寄せる。このひと顰めっ面ばかりしてるなあ、と思いつつ胡桃は説明した。


「社内恋愛だったから、周りにバレて噂されるとやりにくいんだって。わたしは別に構わなかったんですけど」

「……」

「そもそも彼、休日はキャンプとかフットサルとか行ってたから、あんまり会ってくれなかったなあ。彼の誕生日もクリスマスも年末年始も、忙しいって言われてデートできなかったし」

「……それは、本当に付き合っていたと言えるのか」

「え?」

「きみはその男に遊ばれていたんじゃないのか、ってことだ」


 佐久間の言葉に、胡桃は愕然とした。

 好きだよ胡桃、と囁かれる声が頭の中で響いて、また遠くなっていく。当時の胡桃は、何の疑いもなく彼から囁かれる愛を信じていたのに。「まさか」と笑い飛ばそうとしたけれど、あまり上手にできなかった。


「……ちゃ、ちゃんと好きって言ってくれたし、付き合おうって言われましたもん」

「そんなもの、何の根拠にもならない。口ではいくらでも言えるだろう」

「それは、そうですけど……」

「明らかに、他に本命がいる男の挙動じゃないか。どうして気付かないんだ。きみは馬鹿か」


 背中がすうっと冷たくなって、唇が震える。胡桃は膝の上で、拳をかたく握りしめた。

 佐久間に言われて、元カレとの思い出を手繰り寄せてみると、たしかに不自然なことばかりだった。誰と会ってるとかどこに居るかとか、ほとんど教えてくれなかった。突然電話がかかってきて、何も言わずにその場を離れることもしょっちゅうだった。「胡桃のために」と彼の部屋に置いてくれたシャンプーや化粧水は、本当に胡桃のためだったのか?

 考えれば考えるほど、佐久間の言うことが正しいのではないか、という気がしてくる。当時の胡桃は幸せいっぱいで、そんなこと考えもしなかったのに。

 ……いや、もしかすると。胡桃はうすうす、その可能性に気付いていたのかもしれない。きっと胡桃が「わたしとのことは遊びなんでしょう」と言えば、その瞬間にあの男はあっさりと胡桃を捨てていただろうから。

 しょんぼりと落ち込んでしまった胡桃に気付いたのか、佐久間はやや気まずそうに目を伏せた。かける言葉を探すように、唇をぱくぱくとさせたあと、「あー」と口ごもる。


「……いや、その、悪い。馬鹿は言いすぎた」

「……いえ。わたしがバカなのはほんとのことです」

「馬鹿なのは、その男の方だろう。いずれにせよ、俺がとやかく言うことではなかったな」


 そのときバスのアナウンスが流れて、次の停留所を知らせる。佐久間は胡桃の腕を引くと「降りるぞ」と立ち上がらせた。


「……まあ、ともかく。今から行く店のバターサンドは、美味いぞ。碌でもない男のことなんて、一瞬で忘れてしまうぐらいにな」


 つっかえながら囁く口調は硬く、やけに怖い顔をしている。初めて出逢ったときも思ったけれど、このひとは女の子を慰めるのがあんまり上手ではないらしい。

 うろうろと目を泳がせる佐久間がおかしくて、胡桃はくすりと笑みを零す。「はい」と笑って頷いた胡桃を見て、佐久間はほっとしたように頬を緩ませた。

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