02.失恋アプリコットタルト(2)

 招き入れられた部屋の中は、隣にある胡桃の部屋とはまったく雰囲気が違っていた。

 まず、間取りがまったく違う。胡桃の部屋はワンルームだが、角部屋である彼の部屋は1LDKらしい。キッチンも広々としていて羨ましい。

 胡桃の目に一番に飛び込んできたのは、ぎっしりと本が並べられた、驚くほど大きな本棚だった。その隣には、立派なデスクとゲーミングチェア。デスクトップのパソコンとキーボード。デスクの上にも、本が何冊も積み上げられている。自宅というより、仕事場という雰囲気だ。


「そこの包丁でタルトを切ってくれ。俺は紅茶を淹れる」


 隣人はそう言って、キッチンにある棚からティーセットを出した。アンティーク調の、かなりお洒落なデザインだ。一人暮らしの男性の部屋には、あまり似つかわしくない。もしかすると、以前見かけた女性が買ったものだろうか。

 途端に、胡桃は不安になってきた。こうしてノコノコやって来たものの、このひとは既婚者なのかもしれない。既婚者でなくとも、恋人と同棲をしているのかも。余計な揉め事に巻き込まれるのはごめんだ。もし妻や恋人がいるようなら、すぐにでもお暇しよう。


「あの、つかぬことを伺いますが。ご結婚されてるんですか」

「未婚だ」

「一人暮らしなんですか?」

「そうだ。ここに二人で住むのは狭いだろ。なんでそんなわかりきったことを訊くんだ」

「以前、この部屋に女性が入っていくのを見かけたので。恋人ですか?」

「違う。ただの身内だ」


 きっぱりと否定されたので、胡桃はひとまず安心した。胡桃がタルトを切り分けると、男は仏頂面のままプレートを二枚差し出してくる。ティーセットと揃いの、繊細な花柄が描かれたものだった。


「素敵なお皿ですね」

「美味い菓子にはそれに見合った食器を用意しないと、本当の意味でその菓子を味わったとはいえないだろう。おいしさというのは、舌の先で感じるものだけではない。人間から受ける情報の八割は、視覚によるものだからな」


 胡桃も食器にこだわりがある方なので、男の言うことは理解できた。そこまで難しいことを考えていたわけではなく、「可愛いお皿に乗せた方がSNS映えする」という理由だったけれど。


「見事なアプリコットタルトだ。最大限の敬意を持って迎えよう」

 

 男はそう言って、皿に乗ったタルトをうっとりと見つめた。変な人だなあと思ったけれど、自分の作ったものを敬ってくれるのは素直に嬉しい。

 顔を上げた男は、胡桃に向かって仏頂面で布巾を差し出す。


「これでテーブルを拭いたあと、タルトを持って行ってくれ。トレイはそこにある」


 この男、初対面のわりに人遣いが荒い。胡桃が作ったタルトには敬意を払っているようだが、胡桃自身に対してはそうでもないらしい。むくれつつも、おとなしく布巾を受け取った。


 胡桃がダイニングチェアに座ると、男が紅茶を持ってきた。ソーサーの上にカップを乗せると、茶漉しを置いてティーカップから紅茶を注ぐ。明るいオレンジ色の液体が、頭上にある照明の光を優しく跳ね返している。

 男は自分の分も紅茶を注ぐ。ティーカップとソーサーは、胡桃の前に置かれているのと同じものだ。タルトに向かって、「いただきます」と両手を合わせた。胡桃もそれに倣って手を合わせる。


「……いただきます」


 タルトを食べる前に、紅茶をいただくことにする。カップを持ち上げて口元に運ぶと、ふわりと柑橘性のフルーツのような爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。上品で癖のない、すっきりとした味わいで、きっとタルトに合うだろう。

 胡桃はそれほど紅茶に詳しいわけではないけれど、きっとものすごく高価に違いない。いきなり手作りのタルトを持ってきた隣人にこんなものを振る舞うなんて、このひとは一体何者なのかしら。


(……どうしてわたし、彼氏に振られたその日に、知らない男のひとの部屋で紅茶飲んでるんだろう)


 冷静になってみると、なかなかすごい状況だ。タルトを食べ終わったら、今度は胡桃がぱくりと食べられたりはしないだろうか。そういう空気は微塵も感じ取れないけれど、男は狼だというではないか。

 目の前にいる見知らぬ男は、フォークでタルトを一口サイズに切り分け、そのまま口に運んだ。仏頂面だった男の表情が、面白いぐらいにわかりやすく綻ぶ。その顔が言葉よりも何よりも、彼の感想を雄弁に伝えてきた。


(わたしが作ったもの食べて、こんな顔してくれるひとがいるんだ)


 じわじわと、胸に喜びが押し寄せてくる。今までだって、家族や恋人に手作りのお菓子を食べてもらったことはある。みんな「美味しい」とは言ってくれたけれど、こんなに幸せそうに食べてくれるひとは誰もいなかった。


「ダマンドに茶葉が入っているな。アールグレイか」

「わ、正解です。よくわかりますね」

「サクサクホロホロのタルト生地に、ほのかなアールグレイの風味が混ざった濃厚なダマンド、アプリコットの甘酸っぱさが絶妙にマッチしている」


 彼はタルトをもぐもぐと頬張りながら、満足げに何度も頷いている。この顔見るためだけにお金払ってもいいかも、と思うぐらいに、彼の食べっぷりは気持ち良かった。彼に食べてもらえたアプリコットタルトは、きっと幸せだろう。


 残った分は持ち帰ろうと思っていたのだけれど、彼はワンホールをぺろりと綺麗に平らげてくれた。見ているだけで、こっちが満腹になってしまった。胡桃の皿の上には未だ、手付かずのタルトが残っている。


「ごちそうさま。ありがとう、美味かった」


 まっすぐにこちらを見つめたまま、彼がそう言った。無愛想な顔つきには似合わない、驚くほど優しくて温かい声の響きだった。


(……ごちそうさまって、言われたの……久しぶりだ)


 その瞬間に、胡桃の中の何かが決壊して――瞬きと同時に、ぽろり、と水滴が頬を流れ落ちた。

 自分でも何が起こったのかわからず、「あれ?」と頬に触れる。目の前の男は、ぎょっとしたように目を見開いた。


「ど……どうしたんだ」

「え」

「もしかして、もっと食べたかったのか? ならどうして早く言わないんだ。子どもじゃないんだから、何も泣くことはないだろう」

「泣く……? わたし、泣いてますか?」

「どこからどう見ても泣いている」


 どうやら胡桃は今、見知らぬ男のひとの前で泣いているらしい。三年間付き合った恋人に別れを切り出されたそのときも、涙ひとつ見せなかったくせに。


(だって、だって――〝胡桃ならわかってくれるよな〟って、言われたんだもん)


 胡桃はいつだって彼の前で、「物分かりの良い彼女」だった。

 もっと会いたい、とか、ちゃんと連絡してよ、とか、わたしのこと周りに紹介してくれないの、とか。たくさんのワガママを飲み込んで、彼の前では常にニコニコ笑っていた。向こうから急に会いたいと言われたら何を差し置いても飛んでいったし、彼がしたいというならいつでも身体を捧げたし、彼のためなら何だってしてあげた。

 彼のことが好きだったから――いや、からだ。

 本当は泣いて縋って、「別れたくない」と言いたかった。それでも、できなかった。胡桃は最後の最後まで、彼に失望されたくなかった。ものわかりの良いふりをして、「わかった」と笑って――


「……ぅ、うう……っ……」


 下を向いた途端に、涙がテーブルの上にポタポタと零れ落ちる。男は困ったように眉を下げて、胡桃に向かってティッシュの箱を差し出した。柔らかなティッシュでチーンと鼻をかんだ瞬間、鼻セレブだ、と気付く。

 ぐす、と真っ赤な鼻をすすった胡桃は「あの」と切り出した。


「……す、少しだけ……ぐ、愚痴っても、いいですか」

「……仕方ない、聞こう。タルト代だ」


 男は頬杖をついて、じっと言葉の続きを待っている。それに促されるように、胡桃は話し始めた。


「……私、今日、ずっと好きだったひとに、振られたんです。い、いきなり、別れようって、言われて。く、胡桃ならわかってくれるよな、って……」

「……」

「思えば、ずっと身勝手なひとだった。彼が会いたいって言うときだけ会いに行って、部屋でえっちして、で、でも動くのわたしばっかりで、く、口に出されて終わることも」

「ま、待て! ほぼ初対面で、そういう生々しい事情は聞きたくないぞ」

「……あのひと、わたしが、ご、ごはん作っても、お菓子作っても、いただきますも、ごちそうさまも言ってくれなかった! あ、ありがとうって最後に言われたの、いつだろう……」

「……聞けば聞くほど、きみの元彼は碌でもない男に思えるんだが。なんでそんな男と付き合ってたんだ。見る目がなさすぎるだろう」

「そ、そうですよ。ろ、ろくでもないひとだった。わ、わたしが、ばかだったんです!」


 胡桃は再びティッシュに手を伸ばして、チーンと勢いよく鼻をかむ。いい大人がみっともないとわかっているけれど、溢れ出る涙は止まらない。


「ほんとに……ばかだった……でも、好きだったの……」

 

 男はしばらく黙っていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。


「きみは、男の趣味が悪いな」

「……わかって、ます」

「細かい事情は、わからないが……俺が言えることが、ひとつだけある」

「……」

「きみが作ったアプリコットタルトは、死ぬほど美味かった。これを食べ損ねたきみの元恋人は馬鹿だな」


 胡桃は弾かれたように顔を上げる。男はなんだか怒ったような顔をして、人差し指でテーブルをトントン叩いていた。


(……もしかして、わたしのこと、慰めようとしてくれてる?)


 不器用な男の言葉は、じんわりと胡桃の胸の奥へと沁み込んでいく。このひとは無愛想で態度も口も悪いけれど、そんなに悪人ではないのかもしれない。なにより、胡桃の作ったタルトを「美味しい」と言って平らげてくれた彼のことを、胡桃はそれほど嫌いにはなれなかった。


「そういえば」

「は、はい」

「きみの名前を訊いていなかった」


 男の言葉に、胡桃は「たしかに、そうですね」と笑う。二人で向かい合ってタルトを食べて紅茶を飲んで、他の人には言えないような愚痴まで溢したくせに、未だこのひとの名前すら知らなかったのだ。


「糀谷、胡桃です。……あなたは?」

佐久間さくまりょうだ。……ところでそのタルト、食わないなら俺が貰うぞ」

「ま、待ってください! 食べます! わたしが作ったんですから!」


 胡桃は慌ててタルトにフォークを突き刺すと、ぱくりと頬張った。

 甘くて酸っぱいアプリコットタルトは、優しいアーモンドクリームに包まれて、喉から胃の底へと落ちていく。隣人が淹れてくれた紅茶でそれを流し込んだ途端に、なんだか胸のつかえが取れたようにすっきりした。

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