【書籍化】甘党男子はあまくない〜おとなりさんとのおかしな関係〜
織島かのこ
第1部【甘いお菓子と甘くない恋】
01.失恋アプリコットタルト(1)
周りには内緒の、社内恋愛だった。彼は胡桃よりも二年先輩で、入社以来ずっと片想いしていた胡桃の方から熱烈にアピールして、付き合ってもらった。
片想いは一年、交際していたのは二年余りだった。彼は周囲に関係がバレることを嫌がって、外でデートをすることもほとんどなかった。実際、共に過ごした時間はあまりにも少ない。それでも胡桃は満足していたし、会えない時間に彼を思うこともまた楽しかった。
今日は、久しぶりのおうちデートのはずだった。昨日の夜はトリートメントとパックをして、今日は早起きして髪を綺麗にブローして。仕事中に課長に嫌味を言われようが、へっちゃらだった。必死で仕事を終わらせて、なんとか定時で退社して。
彼の部屋を訪れる、その瞬間までは――胡桃は幸せそのものだったのに。
――俺たち、別れよう。勝手なこと言ってごめん。でも、胡桃ならわかってくれるよな。
彼の部屋をあとにして、帰宅するなり、胡桃は着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。絶望的な気持ちで枕に顔を埋める。買ったばかりのシフォンワンピースが皺くちゃになってしまうかもしれないけど、もうどうでもいい。どうせ、「可愛い」と言ってくれる人はもういないのだ。
今日は木曜日だ。指先ひとつも動かせないほどに身体が重くて、うまく呼吸ができなくて苦しいのに、明日も仕事に行かなければならないなんて、信じられない。このまま世界が滅亡してしまえばいいのに、だなんて悪の大魔王のようなことを考えてしまう。
――たとえば明日世界が滅亡するとして、人生最後の日に何をする?
そのとき胡桃の頭をよぎったのは、いつだったかの飲み会で、酒の肴に投げかけられた質問だった。
当時の胡桃は、「そんな現実離れしたこと言われても」と戸惑い、何も答えることができなかった。同僚たちが「たとえ話じゃん。ノリ悪いなー」と白けていたのをよく覚えている。
今の胡桃が同じ質問を投げかけられたら、きっとこう答えるだろう。
お菓子、作りたい。せっかくなら、フルーツがたっぷり入ったタルトがいい。
別に恋人に振られたところで、人類が滅亡するわけではない。それでも、どうしようもない絶望の淵に立たされた、今この瞬間。胡桃はどうしようもなく、お菓子が作りたかった。
「……よし。作るかぁ」
胡桃は勢いよく立ち上がると、ワンピースの上からベージュのエプロンを身につけて、長い髪をヘアゴムでひとつにまとめる。ついさっきまで鉛のようだった身体が、タルトを作ろうと決意した瞬間に自然と動き出した。
お菓子に必要な、基本的な材料は常備している。冷蔵庫からバターと卵を出して、室温に戻しておく。流しの上にある棚を開いてみると、以前購入したアプリコットの缶詰が入っていた。ちょうどいい、これを使うことにしよう。
まずはタルト生地だ。ボウルの中に、きっちりと計量したバターと粉糖、塩をひとつまみを入れて、ホイッパーで混ぜる。ワックスぐらいの硬さになったところで、卵と薄力粉を順番に入れる。ホイッパーをゴムベラに持ち替えると、心を覆う悲しみを吹き飛ばすように、彼への憎しみを込めて、力いっぱい混ぜる。
(いきなり別れたいって、なんなのよ。胡桃みたいな子と結婚したいって言ってたの、嘘だったの? わたし、いつだって嫌な顔ひとつせずに、尽くしてきたのに……)
完成した生地をタルト型に流し込んで寝かせているあいだに、ダマンド――タルトの土台となるアーモンドクリームのことだ――作りに取り掛かる。
バターに砂糖、卵とアーモンドプードルをボウルに入れて混ぜる。ふと思いついて、アールグレイの茶葉を入れてみた。上品な紅茶の風味が、アプリコットにきっと合うはずだ。
寝かせておいたタルト生地の上に、ダマンドを流し込む。アプリコットをぎっしり贅沢に並べて、180℃に予熱しておいたオーブンへ。焼き上がりを想像して、わくわくと胸が高鳴る。
中途半端に余った卵は明日のお弁当の卵焼きにしよう、だなんてことを考えて、苦笑した。さっきまで世界が滅びればいい、だなんて物騒なことを考えていたくせに、もう明日のことを考えている。やっぱりお菓子作りには、自分を前向きにしてくれる不思議な力があるみたいだ。
オーブンから、次第に甘い香りが漂ってくる。胡桃の未練と怨念がこもったタルトは、オレンジ色の光を浴びてじりじりと焼き上がっていく。胸に残る彼への想いが、ほんの少しだけ溶かされていくような気がする。
オーブンがピーッと音を立てて、タルトの焼き上がりを知らせてくれる。オーブンを開けて中から天板を取り出す、この瞬間が一番好きだ。綺麗に焼きあがったタルトは、まるで我が子のように可愛い。
乾燥防止とツヤ出しのため、杏ジャムに水を加えたものを沸騰させて、冷めたタルトに塗る。仕上げに、細かく刻んだピスタチオを飾れば完成だ。
崩れないように慎重に、白いお皿に乗せる。こんがりと焼けたタルトの上で、美しく並んだ杏がツヤツヤと輝いている。包丁で一切れだけカットすると、断面にはアールグレイの茶葉がぽつぽつと散らばっていた。我ながら、完璧な出来栄え。
スマートフォンで何枚か写真を撮ったあと、満足げにふうっと息をついて――胡桃ははっと我に返った。
時刻は夜の21時。目の前にはアプリコットタルトがワンホール。胡桃は一人暮らしで、すぐ会える距離に家族や友人はいない。
タルトの賞味期限は、冷蔵庫に入れたとしてもおおむね一日か二日程度。どう考えても、胡桃一人では食べきれない。会社の同僚に食べてもらう、という手もあるが、ホールのタルトを会社に持って行くのは、なかなか勇気がいる。何しに会社に来てるんだ、と叱られてしまうかも。
胡桃は悩んだ。しばしのあいだ、タルトを前に頭を抱えたのち、はっと妙案を思いつく。
(そうだ、お隣さんに差し入れしよう!)
胡桃が住むマンションの隣人と、交流はほぼない。しかし先日、エレベーターで一緒になった女性が、自分の隣の部屋に入って行くのを見かけたのだ。
胡桃より少し歳上らしい綺麗な女性で、近所にあるパティスリーの箱を持っていた。あそこのケーキと焼き菓子は、胡桃も好きだ。甘いものが嫌いでないのなら、食べてくれるかもしれない。胡桃が帰った後で捨てられたとしても、それはそれだ。
胡桃は意を決して、皿に乗せたタルトを持って部屋の外に出た。少し緊張しつつも、隣の部屋のインターホンを押す。
ややあって開いた扉の向こうから現れたのは、胡桃と同世代ぐらいの見知らぬ男性だった。
「……なんだ?」
ボサボサの黒髪で色が白く、上下黒のスウェットを身につけている。ギロリとこちらを見る奥二重の目はやけに鋭く、不機嫌そうにも見える。扉から顔を出した男は、怪訝そうに眉を寄せた。
(ど、どうしよう。まさか男のひとが出てくるなんて)
予想外の展開に胡桃は慌てたが、ここまで来たら引っ込みがつかない。意を結した胡桃は、「あの!」と勢いよく皿を突き出した。
「……このアプリコットタルト、作りすぎちゃったんですけど、よかったら食べませんか!?」
胡桃の言葉に、男の視線が皿の上へと移る。男がアプリコットタルトを見た瞬間、覇気のなかった黒い瞳に、光が宿るのがわかった。
扉を開いた男は、「入れ」と胡桃に向かって顎をしゃくってみせる。胡桃はキョトンと目を見開いた。
「へ」
「ちょうど、そろそろ休憩しようと思っていたところだ。定期的に甘いものを食べないと、頭が働かないからな」
「あ、あの……」
「紅茶を淹れよう。フルーツタルトなら、やはりニルギリだ。ちょうど先日、最高の茶葉が手に入ったところだった。タイミングが良いな」
「わ、わたし」
「どうした。中に入らないのか」
戸惑う胡桃をよそに、男は一方的に話し続ける。かなり言葉が足りていないが、どうやら一緒にタルトを食べて紅茶を飲もう、と誘われているらしい。
本来ならば、初対面の男の部屋に一人で上がり込むなんて言語道断だ。胡桃は惚れっぽいけれど、そこまで軽い女ではない。
しかし、目の前にいる男に、不思議と下心は感じられなかった。というよりも、胡桃自身に興味がないように見える。その証拠に、彼は胡桃が持っているタルトばかりを見つめていた。まるで少年のように、キラキラと瞳を輝かせている。
まあいいか、と胡桃は開き直った。ちょっと変わっているけれど見た目も悪くないし、一緒にお茶を飲むぐらいならいいかもしれない。彼に振られたばかりで、どこか投げやりな気持ちもあった。
「……お邪魔、します」
胡桃はぺこりと頭を下げると、部屋の中に入る。がちゃん、と後ろで扉が閉まる音がした瞬間に、本当によかったのかな、と少し後悔したけれど、もう遅かった。
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