03.持ちつ持たれつパウンドケーキ(1)

 恋人に振られてタルトを作った、その翌日。当たり前だけれど、世界は滅亡することなく――また新しい朝がやってきた。


 スマホのアラームが鳴る前に目が覚めた胡桃は、ベッドから起き上がって、うーんとその場で伸びをする。どうやらぐっすりと眠れたらしく、やけに頭がすっきりしていた。寝起きが悪い胡桃にしては、珍しいことだ。

 キッチンに向かうと、食パンをトースターで焼いて、コーヒーを入れる。ワンルームの部屋にダイニングテーブルなんて洒落たものはないから、食事をするのはテレビの前にあるローテーブルだ。マーガリンと杏ジャムをトーストに塗ると、昨夜食べたアプリコットタルトの甘酸っぱさが甦ってきた。


 ――ごちそうさま。ありがとう、美味かった。


(まさか、初対面のおとなりさんの前で号泣しちゃうなんて。……彼氏の前でも、泣いたことなんてほとんどなかったのに)


 あんなに好きだった恋人と別れたというのに、胡桃は意外なほど清々しい気分だった。今になってあれこれ思い返してみると、どうしてあんなに好きだったのかわからない。佐久間の言う通り、ろくでもない男だったのだ。

 今の胡桃の頭の中は、ロクデナシの元彼よりも、おかしな隣人のことで占められていた。佐久間凌、と名乗った男のことを思い出す。変なひとだったな、と改めて思う。

 彼は一体何者なのだろうか。紅茶もティーセットも明らかに高価なものだったし、鼻セレブの箱を半分空にした胡桃に対しても文句を言わなかった。まあ、今後彼と関わることもほとんどないだろう。

 トーストを平らげた胡桃は、身支度を整えて出勤の準備をする。今日は金曜日、あと一日で週末だ。そう思えば、なんとか頑張れる気がする。

 パンプスを履いて玄関から外に出ると、エレベーターを乗る前に、チラリと隣の部屋を確認する。胡桃はこのマンションに丸二年住んでいるが、佐久間と遭遇したことは一度もなかった。在宅で仕事をしている雰囲気もあったし、普通の勤め人ではないのかもしれない。

 エレベーターで一階に降りると、柔らかな五月の日差しが降り注いでいた。立ち並ぶ街路樹の緑が爽やかに輝いている。胡桃の住んでいるマンションは、都心からは少し離れているけれど、比較的緑が多い良いところだ。

 白から薄青へと移り変わっていく東の空を見上げながら、胡桃は大きく息を吸い込む。ひやりとした清々しい朝の空気が心地良くて、胡桃は心の底から思った。


(うん。やっぱり滅亡しなくてよかった、世界)


 ぴんと背筋を伸ばした胡桃は、軽やかな足取りで最寄り駅へと歩き出した。



 

「糀谷さん。悪いけどこの見積書、13時までに用意しといてくんない?」

「えっ! もう12時半ですけど……」

「急遽お客さんとこ行くことになっちゃってさ。無理言って悪いけど、頼むよ」

「……はい。わかりました……」


(……ああ。やっぱ滅亡しないかなぁ、世界)


 文句を飲み込んで、渋々と取り掛かっていた作業を中断する。出社してからおよそ四時間足らずで、胡桃の精神は再び悪の大魔王に侵食されつつあった。


 胡桃の仕事は、産業機器メーカーの営業事務だ。主に発注業務や見積り、書類作成や電話対応などを行なっている。入社してから三年目だが、いつまで経っても慣れる気がしない。自分の事務能力の低さには、うすうす気付いている。

 ほんの少しでも手を止めると、次から次へと新たな仕事が舞い込んできて、どんどん手付かずの仕事が積み上がっていく。ひとつひとつはそれほど難しい作業ではないけれど、あれもこれもしなければならない、という焦りが胡桃の動きを鈍らせる。

 時刻はもう12時をとうに過ぎているが、お昼休みを取るタイミングを逃してしまった。せっかくお弁当を作ってきたけれど、仕方ないから夜ごはんにしよう。保冷剤を入れておいてよかった。

 

 必死で見積書を完成させたところで、容赦なく外線電話が鳴る。目の前の仕事で手一杯だったが、放置するわけにもいかない。渋々出ると、取引先からの電話だった。


「あいにく田山たやまは席を外しておりまして……ええ、かしこまりました。折り返し連絡するよう、伝えておきます」


 電話を切って、該当の社員のデスクにメモを置いておく。ようやく席に戻ったところで、営業二課の冴島さえじま課長から声をかけられた。


「糀谷さん。今日14時からの会議資料、できてる?」


 はっと顔を上げて、時計を見る。時刻は13時すぎ。そろそろ取り掛かろうと思って、ついうっかり後回しにしていた。


「す、すみません。今から急いでやります」

「えーっ、まだできてないの!? もうちょっと余裕持って仕事してくれないと、困るよ。ちゃんと優先順位考えてる?」

「すみません……」


 説教はまだ続きそうだったが、今はそれを聞く時間すら惜しい。未処理ボックスの下の方に埋まっていた書類を発掘していると、冴島は「ほんとに、いつまでも新人気分で……」などとブツクサ文句を言いながら立ち去っていった。


(ああ、早く世界滅びろ!)

 

 冴島の背中に向かって、心の中で呪詛を吐き捨てたそのとき。隣からすっと白い手が伸びてきて、胡桃のファイルを掴んだ。弾かれたように顔を上げると、氷のように冷たい黒の瞳がこちらを見据えている。


「な、夏原なつはら先輩」

「それ、私がやります」


 胡桃からファイルを取り上げたのは、二年先輩の夏原しおりだった。胡桃と同じ営業部の事務員だ。

 胡桃は営業二課、栞は営業一課を担当している。年次は二年しか変わらないが、胡桃より遥かに優秀で仕事が早く、おまけにかなりの美人である。ただし、すこぶるクールで愛想はない。


「あの、でも、わたしが頼まれた仕事で……」

「私は今、手が空いてるから。糀谷さんは自分の仕事を片付けてください。あなたの手が止まると、周りに迷惑がかかります」


 栞は冷たくそう言うと、こちらを一瞥もせずキーボードを鳴らし始める。申し訳ない気持ちはあったが、正直ありがたかった。栞に向かって、胡桃は深々と頭を下げる。

 

「……はい、わかりました。ありがとうございます。あの、今度何かお礼します!」

「結構です。いいから、口よりも手を動かして。だから毎日残業することになるんですよ」

 

 栞はぴしゃりとそう言い放つ。厳しい物言いだったが、正論なので言い返す余地はなかった。すごすごとパソコンに向き直ると、溜まっていた仕事を片付け始める。

 入社当初の教育係はおおらかで明るく、優しい先輩だったのだが、去年から産休と育休に入り、代わりにやって来たのが栞だった。営業部の事務員は二人だけだし、もっと打ち解けたい気持ちはあるのだが、どうにも彼女はとっつきにくい。昼休みも一人でさっさとどこかに行ってしまうし、課の飲み会にもめったに参加しない。

 胡桃の三倍ぐらいのスピードで会議資料を作成し終えた栞は、課長のところにそれを持っていく。


「おお、さすが夏原さんは仕事早いなあ。ほんとに一課が羨ましいよ」


 課長のそんな嫌味ったらしい声が聞こえてきて、胡桃はぐっと下唇を噛み締める。絶対に、わざと胡桃に聞こえるような音量で言ったに違いない。

 ……営業二課の事務員は、一課に比べて「仕事ができない方」「美人じゃない方」だと、陰で噂されていることを胡桃は知っている。

 悔しさを堪えていると、ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。この仕事の積み上がり具合では、お菓子を食べる暇すらない。


(……甘いもの食べたい。自分で作ったパウンドケーキがいい。ふわふわよりもしっとりが強めで、バニラとチョコとキャラメル味の三種類)


 そんなことを考えると、ほんの少しだけ気力が湧いてくる。胡桃は必死で自分を奮い立たせ、一心不乱にキーボードを叩いた。




 結局、胡桃が仕事を片付けたのは21時を回っていた。がらんとしたフロアに一人残って仕事をするのは、なんとも言えず寂しいものがあるが、誰もいないと余計な仕事を頼まれることもないので、それはそれで気が楽だ。

 栞は帰り際に「手伝いましょうか」と言ってくれたが、胡桃はそれを固辞した。いつも業務時間中にフォローしてくれているのに、残業にまで付き合わせるわけにはいかない。

 スマホを取り出して、いつものように恋人に「仕事終わったよ」とLINEを送ろうとしたところで――はっとする。


(……そういえば。わたし、昨日振られたんだった)


 今朝は、ろくでもない男だったとせいせいしていたくせに――今この瞬間は、どうしようもなく寂しくて悲しくなる。めったに会えなくても、おつかれさま、と一言返してくれれば満足だったのに。

 ひとりぼっちで残業しているとき、恋人がフラッと現れて、「頑張ってるね」とか言って缶コーヒーを差し出してくれる――なんて想像をしたことは、何度もある。あいにくそんなお仕事ラブコメのような出来事は一度も起こらなかったけれど、妄想しているだけで、幸せだったのだ。

 ろくでもない男でも、どうしようもない男でも――この世界でたった一人でも、自分のことを好きでいてくれる人が存在するのだと思えれば、それでよかった。

 枯れ果てたはずの涙が滲みそうになるのを、上を向いて堪える。しばらくそのままじっとしていると、ようやく涙を飲み込めた。喉の奥が、ほんの少ししょっぱく感じられる。


「……うん。よし。帰ろっと」

 

 デスクの上を片付けて電気を消して、セキュリティシステムをセットしてからフロアを後にする。しんと静まり返った薄暗い廊下はやけに冷たく、胡桃は足早にロッカールームへと向かった。

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