行き詰まりの気休め

「リーリエ……? あ、あああ……ッリーリエ!」


「おかあ、さん……っう、うぅ……!」


 殺したくなかった。もっと生きていて欲しかった。だけど、これで、母の苦しみは終わった。母も最期まで恨み言一つなく、愛を綴りながら逝った。


 正しい事をしたと思わない。今ユリウスは、人として最も罪深い過ちを犯した。

 しかし、後悔はない。

 この裁かれない罪が、母を呪縛から解放し、父の安らぎとなったなら、生涯背負う覚悟を持って刃を振り下ろしたのだ。


「あぁ……がんばった。今日までよくがんばったね、リーリエ。まったく、こんな穏やかな顔で死ぬなんて……あんたは立派な母親で、親孝行な娘だ……ほら、ユリウスもこっちにおいで」


「?」


「何だか知らないけど、クラウスに邪魔されるかもしれないんだろう? 今のうちに、たくさん触れておきな」


「……はい」


 ここ数年、母と直に触れ合えなかった。これが最期の触れ合いになるだろう。

 鎌を消し、涙で濡れた顔を拭いながら祖母の横に移動する。手のひらに残った木の実を母の枕元に置いて、恐る恐る手を伸ばした。


 刃を当てた首に傷は見えない、直接触ってもまだ温かみの残る肌の感覚だけ。脈も、感じ取れない。

 再び涙が溢れ出したユリウスを祖母が抱き締めながら髪を梳く。

 こんな風に慰めてもらう権利はないと自責が込み上げてくるが、鎌の存在が見えない祖母に説明をしても理解されない――されたとしても、祖母はきっとユリウスを突き放さないだろう。それが嬉しくて、酷く後ろめたい。


 早く祖母の誤解を解いて父も呼んで、家族揃ってお別れをしよう。そう考えながら首に触れていた手で頬に触れようとした瞬間の事。


 ――――母の目が開かれた。


「え、」


 ユリウスと同じヘーゼル色の瞳が、宝石のような眩いプリズムの輝きを放ち、無菌室として囲われていた一瞬でひび割れガラスが弾け飛んだ。


「ひぃっ!」


「〈反発フリッカ〉!」


 祖母に抱き締められていたのが幸いし、降ってくるガラスの破片から身を守る事が出来た。

 しかし息をつく間はない。

 急速に室内を満たす魔力濃度、異質な目の輝きをした母の体がゆっくりと浮かび上がり、体に繋がれていた管が外れてバチバチと床に叩きつけられ、母の生命維持を担っていた機械が騒ぎ立てるようにエラー音をけたたましく響かせる。


「あ、あぁ、一体、何が……」


「おばあさんっ! おばあさん、しっかり!」


 祖母は目の前の出来事の許容が越えたらしく、ユリウスにもたれかかるように失神してしまった。


 何が起きたのか、何が起こっているのか。

 この状況の原因が全くわからない。だが、心当たりは一つある。


「これが、世界の、呪縛……?」


 母は確かに息を引き取った。それなのに、この異常事態。まるで息を吹き返したように開いた目と、息苦しさを錯覚するほどの溺れるような魔力量。

 これでは、話が違う。

 どう見てもアーノルドが約束した『限りなく正しい形の死』ではない。


「リーリエ!!」


「おとうさん……!」


「ユリウス!? これはッ……!」


 ノック一つなく部屋に飛び込んできた父の姿にユリウスは一瞬気が緩みそうになったが、状況は何一つ好転していない。

 母の体を覆っていた掛布団も滑り落ち、失った四肢を再生させるように光が凝縮していく。背中を中心に六方向へ細く伸びる結晶は天使の羽のように広がり、そして――。


「…………あ、これ、駄目ね」


 たった一言の後、全ての動きが止まった。

 驚愕に目を見開き硬直していた父もユリウスも、母の異変も。時間が止まったような錯覚を起こしかけるが、時計の秒針は動き続けている。


「駄目だわ。変ね? きちんと合図の後だったはずなのに、ちっとも動けないわ」


「お、おかあ、さん……?」


 どこか呑気な声は母のものに聞こえた。そんなわけがないと心の中でわかりながらも、問いかけずにはいられなかったユリウスの声に反応して、母の首が傾く。人形師の演出じみた人間らしからぬ不気味な動きで、喉に貼りついた悲鳴が情けなく漏れる。


「……ああ、なるほど。そういうこと」


 母の顔と向かい合って気付く。喋っているのに唇が動いていない――この母の声は喉から出ているものではなく、〈意思疎通シェロ〉による念話に近いものだ。

 父ですら力不足で不可能だと教わった高等技術を、魔力を少しも感じ取れなかった母が成している。


 一体、母の身に何が起きているのか。

 よく観察するユリウスも同時に、瞬きもせず七色を散らす目によって洞察されていた。表情に変化はないが、声色には諦念と落胆を滲ませる。


「ねぇ、あなた。これはあなたの母の身なのでしょう?」


「え、は……はい、――――」


 困惑しつつ返事をしてしまったが、問いかけを意味するものが何か理解したユリウスは激しい嫌悪感に目を見開き、身震いする。

 母の顔で母の声で母と同じように話をしている目の前の存在は、母ではない何かだ。


 得体の知れない存在に作られた声はますます消沈していく。

 声も、喋り方も、母そのものなため、聞いているだけで胸が締め付けられ、同時に悍ましかった。


「そう……今回は私が悪かったわ。耐えられなかったとはいえ、一度結んだ約束を反故にしたのは、よくないこと。……怒らせて、しまったかしら」


「あ……っ!」


 七色の光が下ろした瞼に遮断された瞬間、手足になろうとしていた光も、翼になり損ねた結晶もシャボン玉のように弾けて霧散する。

 母の体も重力に従って寝台の上に落下した。弾んだ勢いで床に飛び出しそうになるのをユリウスと父が同時に押さえ込んだ。


 エラー音も止まり、静まった部屋に残ったのは父子の荒い呼吸音だけ。

 何が起こったのかわからないままだが、嵐は過ぎ去ったのだろうか。まだほんのりと温かさが残る骨張った母の身体を離せないまま、ユリウスは不安げに周囲を見回す。


「……ユリウス」


「はっ、はい」


「お前は一体、何をした」


 母の亡骸に顔を埋めているせいで、父の表情が見えない。

 叱られているわけでも、怒りを抑えている様子もない。どこか抜け殻のような父の声が何故か恐ろしく、言葉を詰まらせる。

 促すように「ユリウス」と呼ばれ、慌てて頷いた。


「はい! ぁ、の、始祖アーノルドから鎌をいただいて、それを使えば、おかあさんを助けられると教えを受けて……! お、おとうさんも、それを知っている事だと、お話を聞きました!」


「〈方舟遺物アークレガシー〉を、お前が?」


「は、はい、ほら、見てください!」


 寝台から床に転がり落ちていた木の実を拾い上げ、同じように鎌を出現させる。事実を示す、ただそれだけのために。


 しかし、ユリウスはまだ幼く知らなかった。

 八年間、父を苛み続けた苦しみと葛藤。母が解放され、肩の荷が下りた事への脱力。希望そのものと呼んだ我が子に、何もかも肩代わりさせてしまった罪悪感と安堵感。

 死は畏れられるものであると同時に、強烈に魅せられてしまうものである事。

 そして、疲れ果てた人間は、時に致命的な魔が刺してしまう事を。


「――――え、」


 顔を上げた父は一言では表せない表情だった。喜怒哀楽の全てであり、どれでもない。目だけを大きく見開いて、鎌を一心に見つめていた。

 そして、触れた。一瞬の出来事だった。

 父が伸ばした指先に鎌の刃が触れて、何かを断つ感触を所有者であるユリウスも感じ取る。

 目の前で起きた事の意味を、理解出来なかった。母の上に重なるように父が倒れてようやく、頭が働き出す。


「――おとうさん!」


 母を殺した。父も死ぬ。――死なせたくない! 死なせないで!

 願ったところで鎌は刈り取るしか出来ず、過ちを無かったことにする奇跡も、切り離されたものを繋ぐ役割もない。


「……あ、ぁ、すまない、ユリウス」


「おとうさ、おとうさん、私が、私は……!」


「お前は何も、悪くない……悪くないんだ、すまない、」


 差し伸べられた父の手は、ユリウスが掴むより先に力尽きて落ちる。


 その瞬間、何もかも耐えきれなくなった。

 ユリウスは自らの首を切り離すために鎌を振り切る。この衝動が思考放棄なのか、贖罪のためなのか、親と逸れないように駆け足をしただけだったのか、よくわからない。

 結果的に、失敗に終わった。


「ぁ……ああぁぁ、あぁ、ああああ!!」


 触れた瞬間にわかった。この鎌では首を切り離す事も出来なければ、所有者の命を刈り取れない。

 死ねない。償えない。離れてしまう。

 ユリウスの慟哭は祖母が目覚めるまで、室内に虚しく響き続けた。




 両親の葬儀後、ユリウスは数ヶ月間休学した。精神的に参っていたのもあるが、腐っている暇はなかった。

 祖母と力を合わせて生きていかねばならない。安定した生活基盤を整えるのに並行して諸々の後始末に追われ、父への罪悪感も何度憤りに変わったことか。

 思い出しても溜息しか出ない怒涛の日々もやがて落ち着き、ユリウスは復学した。

 退寮し、学校の近くに住まいを移して祖母と慎ましやかな二人暮らし。慣れない仕事に苦労する祖母を労いつつ、支え合う生活の中ユリウスは無事卒業し、就職する。


 安定した生活から、余裕のある生活になり、後回しにしていた遺品整理をしていると父が保管していた手紙を発見した。

 消印のない簡素な封筒に書かれていたのは『ツグカタより』のみ。どこかで聞き覚えのある独特な名前は、一度だけ父の口から聞いたものだ。母の治療を支援していたとかなんとか……。


「……何も報告してない!!」


 とんでもない不義理が父母の死後七年を経て発見された。

 結局ツグカタ――継片家の所在と連絡先を入手し、アポイントを取って訪問に至るまで一年を要し、ユリウスは二十歳になっていた。

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