呪縛からの解放

 ――世界の呪縛。


 その大袈裟な言葉の意味がわからず、詳細を聞く前に父は仕事に戻ってしまった。再度話をするタイミングがないまま夜が更け、ユリウスは悶々としつつも布団に潜った。

 父のために、母のために、何か出来る事はないんだろうかと、考えて考えて……考えているうちに眠っていた。



 そして、夢を見た。



「世界の呪縛、か」


 青空を背景に金色の長い髪を風に靡かせ、作り物のように美しい青年が興味深そうに空と同じ青の双眸を瞬かせている。

 一緒に誰か悩んでくれないものかと頭の片隅で思っていたせいだろうか。ユリウスは寝転がりながら青年を見上げ、彼は誰なのかと記憶を探ってみるが、心当たりはない。


「知らないうちに認識が随分捻じ曲がってしまったんだね。私からすれば、摂理に背いたのは私達だけど……」


「え……」


 一緒に悩んでくれたらそれだけで良かったのに、見知らぬ青年の物知り顔な様子に目を見張った。

 話を詳しく聞きたい。ユリウスが言葉を選んでいる間に、青年は憂いを帯びた表情をころりと変えて嬉しそうに微笑みかけてきた。


「まぁ、それはもう錆ついた……どころか、原型すら失われるほど古の価値観なんだろうね。時間と共に価値は変わり、相対的に君達の命の価値が上がった、それ自体はとても喜ばしい。君達が命を本能ではなく、自意識として自覚し始めたのは、素晴らしい変化だ」


 慈愛に満ちた眼差しを向けられてユリウスは少しだけ気恥ずかしく、据わりが悪くなる。

 青年の言葉はいまいちわからなかったが、悪意は感じられない。子供好きで面倒見のいい親切な大人……幼い頃から顔見知りの近所の人のような、近いけれど他人ほど遠くはなく、少しだけ安心感を覚える。


「あの、貴方は何か知っているんですか? 私の母を縛り付けている世界の呪縛とは、何か」


「勿論。ただ、君の価値観に沿った回答を私は持ち合わせていないけれど……」


 説明を拒まれたのはわかったが、到底納得出来る理由ではない。『大人の事情』と言う都合のいい言葉に似たものかとユリウスは無力感に眉を顰めた。

 ユリウスの心境を見透かすように青色が細められる。


「君の母は不本意な制約によって生物的な死を制限されている、君の認識に大きな間違いはないよ。でも、それだけ。私の口から、それが『事実』だと語りたくはないんだ」


「……」


「それに、君が望むのは世界の呪縛と名付けられたものの知識ではなく、君の母を解放する方法だろう? そちらであれば、私は答えられる」


「――っ本当、ですか!?」


「君の父が拒んだ方法だけどね」


 父が拒んだ、という前提にユリウスは一気に警戒心を高める。「……父と面識が……?」と問うユリウスに青年は「一度きりだけどね」と懐かしむように微笑む。


「解放したい人がいると、君と同じものを望んでいた。だから私はその術を与えた、――けれど、彼は扱いきれなかった」


 青年の片腕が風を薙いだ瞬間、宙に浮かぶ鎌が顕現する。

 持ち手も刃も細く長く、絵画の死神が持つ鎌そのものに見えた。謎の浮力が途切れれば自分の体を刺し貫きそうなそれに、ユリウスは何故か恐ろしさを覚えなかった。


「私が示せる手段は、『限りなく正しい形の死』だけ」


「正しい形の、死?」


「そう。……私としてはあまり望ましい結果ではないけれど、一番穏便に、痛み分けで済む」


 差し出されたそれに手を伸ばし、それを振るう事が出来れば、容易く命を刈り取れるのだろう。何も説明されず、何一つ信用出来る話でもないのに、母の苦しみを終わらせる糸口だとユリウスは直感した。


 しかし、同時に矛盾にも気付く。

 ユリウスでさえ容易く扱えそうなそれを使いこなせないわけがない。誰よりも母のために動き、安らかな終わりを望んでいる父が、母のためにそれを振るえないなんてありえない。


「……そんな。それは、おかしいです。だって父は、母に」


「そうだね。でも、彼は迷ってしまったんだ。愛する者の命を諦めきれなかった。それは、仕方ない事だろう?」


 青年の言葉は責めるわけでもなく、むしろユリウスに向けるものと同じ――幼子に話しかけるような穏やかで優しい大人の声色で、父の躊躇いを肯定した。

 父は強く言い切っていたけれど……やっぱり迷っていた。迷わないわけが、なかった。

 それをわかってしまったユリウスの目頭が熱くなる。悲しくて、もどかしくて、目が開けてられなくなり、言葉も出せなくなる。


「彼は悪くない、ただ少しだけ弱かった。揺らいでしまう覚悟では、これを持たせられなかった。扱い方次第で一生が狂うくらい危ないものになってしまうようでね、どうしても必要な措置なんだ」


 ユリウスの頭を撫でる青年の言葉から、初めてハサミを使った時の記憶が瞼の裏に浮かぶ。

 上手よ。楽しいね。でも危ないから使う時は大人と一緒にね。幼き日の家族のように見守られて、褒められて、温かく包まれるようで……。


「だからこうして、彼に預けていたものを回収したわけで――さて、君はどうかな?」


「私、は……」


「君の望みは、その後に背負う重みに見合った覚悟が伴うものかい?」





 鳥のさえずりが聞こえる。


 目を開き、握り締めた手を伸ばした先には自室の天井だけで他には何も見当たらない。青年も鎌も当然どちらも存在していない。

 体を起こしたユリウスは夢心地が抜けず、寝台に腰掛けたまま放心していた。


 不思議な青年だった。起きて改めて考えてもユリウスにとって知らない人だが、心当たりの名前はあった。

 魔術師の始祖、アーノルド・モルゲンシュテルン。


「夢、……夢を見ただけ、」


 拳を開いてみるが、見えるのは何もない手のひらだけ。

 それなのに、ユリウスの独り言を否定するように何かを受け取った感覚が、手の中から離れなかった。



 朝食を取らないまま、ユリウスは母の部屋を訪れていた。


 陽の光はカーテンに遮られ、機械と配線に占められた部屋は、正常に起動しているランプがあちこち光っている。

 その中で母は眠っていた。

 布団に覆われた両足の膝から下は平たく、両腕はもう肩に近い短さしか残っておらず、片方の腕には義肢の形をした装置に埋められている。


「……おはようございます、おかあさん」


 ユリウスの声を感知した瞬間、収音した機材がカタカタと音を鳴らし、母の目が開く。

 数秒、そのまま待ち続けると母の枕元のテーブルに紙束とペンを固定する器具が動き始める。カリカリとペン先が紙の上を走る。


『おはよう、ユリウス』


 綴られているのは母の返事なのに、母らしくない筆跡と簡素な返事は未だに慣れない。

 ユリウスはマイクに音が拾われないように小さく嘆息し、紙束から今書かれた紙を取り、一番上を白紙にする。


 母の内臓はほとんど機能していないらしい。手足も壊死して昨年切断処置され、褪せて、萎れて、枯れる直前の花のよう。

 父の魔術具によって声を届け、母の意思は筆談で返ってくる形に変わってしまったが、まだどうにか会話は成立している。母の脳機能が弱ってしまえば、それさえ叶わなくなるだろう。


「…………」


 祖母の嘆きを、父の意志を、そして夢の中で手を差し伸べてくれた青年の言葉を、ユリウスは心の中で反芻する。自分の胸に手を当てて、自分はどうしたいのか、改めて考える。


 もし、あの夢がユリウスの幻覚でなければ、為すべき事は一つだけ。

 しかしその前に、母に確認しておく事がある。


「もし、今日がおかあさんの最期の日なら、会いたい人はいますか? 遺しておきたい気持ちはありますか?」


 少しの間の後、再びペン先が文字を綴る。


『会いたい人は、ユリウスとクラウスとお母さん』

『伝えるものは既に伝えてある』


「……わかりました」


『私は今日死にますか?』


 回収しようとした紙の余白に続きが書き足され、ユリウスは一瞬硬直する。

 視線をずらし見た母の顔に恐怖の色は見えない。意を決し、新しい紙を上に変えてから問いかけた。


「そうだったら怖い、ですか?」


『怖い』

『嬉しい』

『寂しい』

『安心する』

『不安がある』


「……そう、ですか。少し待っててくださいね」


 短くちぐはぐな答えだが、ユリウスにとってどれも共感出来るもので、込み上げてくる涙を堪えながら一度部屋を出た。


 祖母と共に戻ってくると母の側にいて欲しいと伝え、祖母は不思議そうにしつつも無菌室の内側へ入り、母の視界に入るように寝台の傍らに身を寄せた。

 そのまま部屋に残るユリウスに母はゆっくりと瞬きをして、ペンが動く。


『クラウスは外出?』


「まだ部屋だと思います。でもごめんなさい、おとうさんは呼べません。もしかしたら、邪魔をされてしまうかもしれないので」


 父の本心は母を死なせたくない気持ちで揺らいでいる。

 もしも妨害された場合、ユリウスでは父を説得する言葉も、抑え込まれたら反撃すら難しい体格差を覆す術もない。むしろ、ユリウスも覚悟が揺らぐ恐れすらある。


 母からすれば、悲しい宣言だっただろう。胸を痛めつつ恐る恐る顔色を伺うと、優しく目を細めて、『理解を示す』と文字が書かれた。

 ……母の言葉として再翻訳するなら『んー確かに!』あたりだろうか。

 実際のところはわからないが納得はしてくれているようで、ひとまず安心する。


「ユリウス、あんた一体何がしたいんだい?」


「……今、出来る事をやります」


 先の不安から目を逸らし、自らにも言い聞かせるように告げて、ユリウスはポケットに忍ばせていたものを取り出す。


 母に見せられなかった木の実の大半は捨ててしまったけれど、色艶が気に入ったものや大きなものなら、見た目や触り心地で楽しんでくれるだろうと煮沸して乾燥させて、本棚の隅に転がして残していた。

 父の許しを待たずに見せておけばよかったと今更ながら後悔する。この先も心のどこかで引き摺り続けるのだろう。そんな予感に、瞼を下ろす。


 手のひらの上の小さな未練を握り締め、魔力を込めていく。

 夢の中で示された母を呪縛から解き放つもの。命を刈り取る恐ろしいもの。瞼の裏に思い浮かべながら形を作り、手の中に確かな重みを感じられたところで目を開くと、死神の鎌がそこにあった。


 御伽話のような存在、始祖アーノルドから授けられる武器、〈方舟遺物アークレガシー〉。


「ああ……夢じゃなかった。でも、これなら」


 この一振りで、確実に死なせられる。どこを刺せば痛みがないかわかる。

 ユリウスは鎌を握り締めながら、直感のように理解したそれらの事実と死を自在に扱える恐ろしさ――まるで、本当に死神に変わってしまったような自分自身に、腕が震えた。


「おばあさんは危ないので、そこから絶対に動かないでください」


「は? ユリウス、何の冗談だい? 急にパントマイムなんてし始めて……」


「……?」


 困惑している祖母の反応にユリウスは首を捻り、そこでふと思い出した。


 祖母は魔術を使えない。だから見せびらかしてはいけない。

 幼い頃は父母から口酸っぱく言われ続けていた事。教えるのは父、成果を誉めるのは母。成長と共に誉めてもらう機会から離れたせいですっかり忘れていたが、祖母の前で魔術を使ったのは初めてだった。


 魔術を使えなくなる魔術師の存在は学んでいた。魔術師の両親から自分が産まれたので、祖母も当然元魔術師であると思い込んでいた。

 扱えずとも、見る目は衰えず。

 しかし、祖母の反応はまるで見えていない――魔術師ではないように見える。


 その疑問は、後々父に尋ねればわかるだろう。

 ユリウスは頭に浮かんだ謎を一旦避けて、祖母が見えていないのを想定した上で鎌の刃が触れないように気を引き締め、振り被る。


「おかあさん、愛してます。……さようなら。おやすみなさい」


 もっと他にたくさん、言いたい言葉があったはずなのに、涙が溢れそうで何も出てこなかった。

 落ち着くために一呼吸していると、ペンが走り出す。


『愛してる』

『私も愛してる』

『私の可愛いユールヒェン』

『嬉しい』

『愛してる』


 カリカリ、カリカリ。ペンは止まらず、紙いっぱいに文字が綴られていく。収まりきらないとばかりにペンが動き続けているのを見て、ユリウスは堪えきれなかった。


 ああ、Julchenユーちゃんと優しく呼んでくれる、母の声をもう一度聞きたかった。

 叶えられないものは伝えたくない。溢れそうになった想いを唇に噛み付いて抑えながら、ユリウスは刃の切先を、母の首に落とす。


 ふつり、細い何かを断ち切った感覚がした。


『愛してる』

『お母さん、ありがとう』

『ユリウス』

『さよなら』

『おやすみ』

『愛しのクルゥ』

『ごめん』

『ありがとう』

『素敵な人生だった』

『愛してる』

『愛し』


 忙しなく動き続けていたペンが止まった。

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