五章 魔術師たちの島
本編
谷底の温室
ユリウス・ブルーメンタールという名の子供がいた。
産業発展が進み、観光地として名を広めた国内最大の州、その中の小さな村で生まれ育った。小麦とトウモロコシ畑が広がる雄大な土地にぽつりぽつりと建てられた家々のうち、ブルーメンタール家は村の中で一、二を争う大きさの立派な家だった。
客人を招いても部屋が余るほど広い家で、ユリウスは父母と母方の祖母の四人で暮らしていた。
「おかあさん! 見てください、今日はたくさん見つけました!」
色も形もそれぞれ違う木の実を
寝台に横たわっていた母、リーリエは元気いっぱいに帰宅した我が子の楽しそうな表情に頬を緩ませてゆっくりと体を起こす。焦茶色の髪を耳にかけて、森の香りが漂ってきそうな籠の中を覗き込む。
「あら、本当。すごいわ! ユリウスのお気に入りはどれ?」
「これです! 今までで一番、大きいでしょう! これは食べれます?」
「んー食べてもあんまり美味しくないわよ。これと、これも。村長さんちの
母と同じ焦茶色の頭を撫でられてユリウスは嬉しそうにはにかんだ。
母はユリウスが物心つく前から病床の人だった。
時には内臓の病気で顔色悪く、時には大きな怪我を包帯で覆い隠して身動きが取れず、横になっているのが常であった。立って歩いている姿のほうが珍しく、同じ食卓に座るどころか一緒に外に出かけた事もない。母が出かける時は、父が病院に連れていく時くらいだ。
「ユリウス」
母の部屋から出てすぐ、父に呼び止められてユリウスはぎくりと体を強張らせた。
「またリーリエの部屋に外の物を運んだのか」
「う……はい。でも、ちゃんと水で綺麗に洗って、乾かしてから持っていきました」
体の弱い母の元に綺麗な葉っぱだと見せに行き、細菌まで運び込んでしまったのは幼いユリウスにとって心痛な出来事だった。
それでも寂しそうに外を眺める母を慰めたくて、ユリウスが集めた成果を楽しそうに触れる姿を見たくて、祖母に相談してこっそりと運び続けていた。
見つかってしまった。怒られるだろうか。しょんぼりと項垂れていると先程母に撫でられた頭を、父にも撫でられた。
「次からはリーリエに見せる前に、私に見せに来なさい」
「おとうさんも木の実、みたかったんです?」
「……そうだ、ユリウスの素晴らしい成果を、私はこの上なく見たい。リーリエに見せる前に私に見せてくれ。約束出来るか?」
「わかりました!」
父は落ち葉も木の実も興味なさそうに見えていたので、ユリウスは少し意外な打ち明けが嬉しくて頷いた。
実際、父は興味なかったのだろう。
持っていけば母は喜び、ユリウスの想いも浮かばれる。ただそれだけ。そのためには同じ轍を踏んではならない、点検する口実としての言葉だった。
それほど時間はかからず、ユリウスは環境の緩やかな変化と共に理解する。
学校に通い始めた頃から母の体調は悪化していった。父が何度も母を病院に運び込み、貴金属が少しずつ減っていき、元々古い家の改修が後回しにされていくつか使えない部屋として封鎖され、母だけでなく父と祖母も顔色悪く沈んだ表情でいる事が増えた。
外で拾い集めてきた木の実は父に見てもらえず、当然許可ももらえないため母の元に持っていく事が出来なくなった。その空しさと、体の成長も伴って、持ち帰る習慣も消滅してしまった。
もしかしたら母は、あまり長くないのかもしれない。
ふくよかだった母の頬がこけて、布団の下に隠れた枝のような手足を見るたびにユリウスは苦しさと寂しさを覚える。
そして毎日顔を合わせながら少しずつ、離別の覚悟を決めていた。
「リーリエは、死なせない」
一度、不安に駆られて母の容態や余命を問いかけた。その時父の返答がそれだった。
子供を心配させないための言葉だったのか、可能な限り治療を続ける決意表明だったのか、ユリウスには判別出来なかった。
わかったのは、遠くを睨み付けるような血走った父の目が、やたら恐ろしく見えた事だけ。
進学と同時にユリウスは実家を離れ、学生寮で生活するようになった。正直、ユリウスにとってあまり喜ばしくはなかった。
一番近い進学先でも移動に半日近くかかり、自宅からの登校は不可能。財政面も余裕があるとは思えず、近隣で仕事をもらおうと進学そのものを諦めていた。
それなのに、父はユリウスの進学費用は手をつけず確保しておいたと言う。
「魔術師の力で生計を立てられる時代も終わる。先の事を考えるなら、只人の学びの場に身を置きなさい」
両親の事も、傍らにいる祖母も、離れて暮らすのは不安も心苦しさもあった。
けれど、父の厚意を無碍にも出来なかった。年相応に外の世界への憧れもあった。背中を押されるままに、ユリウスは少し離れた土地へ進学を決めた。
年に数回の帰省のたびに、家の中は様変わりしていった。
家屋の老朽化は進む一方で、母の部屋に置かれた機材は増えていく。
医療器具と魔術具が雑然と置かれ、母が横たわる寝台を囲うようにかけられていたビニールカーテンが、ガラス張りの無菌室に変わった時は目をひん剥いた。
母も眠っている時間が長くなっているようで、帰省中に一度も話せないまま休暇期間が終わってしまう事もあった。
父も外出以外は自室に籠り続けているらしく、母と物理的な接触も拒まれた祖母は余程孤独な生活を過ごしているようで、帰省中のユリウスにべったりになった。
長期休暇が終わり、寮へ帰るのを本当に寂しそうに見送るので、何度退学を踏み留まった事か。
そんな日々を過ごし、十二歳の時。
母が余命半年と宣告を受けて治療を断られた後――八年間も延命し続けていた事実を、祖母の口から偶然聞いてしまった。
「クラウスには感謝している。リーリエが……娘が今日も生きているのは、間違いなく彼のおかげだ。けど、だからこそ、あたしはあの子が恐ろしい。リーリエがまだ、生きているのが信じられない」
高熱に魘された祖母の弱音と本音はユリウスにとって衝撃を受けた。
「みんな、みんな、戦争で死んだ。あたしの家族はもう、あんた達しかいないの。一体、あの子は何をして、何を考えているの。まさか、悪魔に魂でも売ったんじゃ……ああ、一人は嫌よ……」
「おばあさん、私がいます。ユリウスがここにいますから、どうか心を落ち着けて。ゆっくり休んでください」
「見てられない、心配なの、この幸せがいつか全て崩れてしまいそうで……」
ぐすぐすと泣き出した祖母だったが、涙が収まると「風邪が移るから部屋に戻りなさい」としっかり者の顔を取り戻して宣ってきた。態度の急変にユリウスは苦笑いしか出なかった。
祖母も己の胸中を孫に吐露するつもりはなかったのだろう。だから、祖母からは何も聞かないことにした。
同じ屋根の下で暮らしていた時から、父が少しずつ弱っているように見えていた。母の体調は一向に快くならず心労が絶えないためだと、そう解釈していた。
「手伝える事、か」
また、やつれてる。
祖母の悲痛を受けて改めて父と向き合うと、『悪魔に魂を売った』なんて比喩が大袈裟ではない衰弱ぶりが伺えた。
「はい。私はまだ未熟な身ですが、家族の一員として力になりたいんです」
家族の厚意に甘えていたが、卒業まで最低でも三年かかる。
父のように金銭面を支える事も、祖母のように生活面を支える事も、幼く有能でもないユリウスには出来ない。
ならば、せめて負担を減らす事は出来ないだろうか。そう考えた末に、ユリウスは父へ直談判を決めた。
母の異様な延命、祖母の不安、その両方を知った上で父を案じている事を伝えれば、父は神妙な面持ちでユリウスの話を聞き入った。
しかし、力になりたいという訴えを聞いた瞬間、父の眉間は寄せられて首を横に振った。
「お金が必要なら私も働きます」
「リーリエの事は継片家が支援してくださっている。子供がそんな心配しなくていい」
「なら、なら私の魔力をお使いください! おかあさんの命を繋ぐために魔術を使っているのはわかります。やり方を教えていただければ、」
「駄目だ。お前は何もしなくていい」
「どうしてっ……!」
心配で見てられない。祖母の言葉をそのまま借りたものがユリウスの気持ちでもあった。
父はもう一度首を横に振り、ユリウスを抱き寄せた。落ち着かせるように優しく包み、背中を撫でながらゆっくりと言い聞かせる。
「ユリウス、私達の唯一の子。お前は私とリーリエにとって、希望そのものだ」
「私が、おとうさん達の希望……」
「ああ。勉学に励み、望む未来に進みなさい。例え夢の果てに辿り着けなくても、進む事に意味はある。私もリーリエも、それだけを願っている。私達の悪足掻きは付き合う必要なんてないんだ」
「悪足掻き……?」
「……いや、私達ではなく、私の、だな」
嘲笑のような独り言を呟いた父の顔を、抱き締められたユリウスは見る事は出来なかった。
だが、きっと見なくてよかった。声色がまるで泣くのを堪えているように感じられたので、見ない方がいいだろうと瞼を下ろす。
「妻をあんな姿にしてまで生かそうとする男を、お前の目にはさぞ愚かしく映っているだろう」
「それは……。それは、おとうさんがおかあさんを大切に想っているから、でしょう? おかあさんが笑っていてくれるのも、その気持ちが届いているからだと、私は思います」
母の状態が瞼の裏に浮かんで、一瞬父の言葉に頷きそうになったが、ユリウスは頭を振る。
起きる事も会話すらままならない状態でも、母は微笑んでいた。溌剌さが薄れ弱々しくなっても、明るく優しい姿は変わらない。自暴自棄な様子もない。
それはきっと、両親が同じ気持ちで、同じ方向を向いて信頼しているから。
快調に向かう日を、諦めていないから。
「おとうさんが必ず治してくれると、おかあさんも信じているんですよ」
「――違う」
ユリウスは、そう信じていた。
いつか母が元気な姿を見せてくれる、そんな夢を捨てられずにいた。父と母も同じ気持ちだと思っていた。
「すまない。すまない、ユリウス。お前には酷な話になる。リーリエは助からない。どれだけ手を尽くしても、手遅れだ」
父に強く抱き締められながらユリウスは呆然と「へ、」と言葉にならない声を出すしか出来なかった。
震える腕が、弱り切った声が伝染したようにユリウスの背筋が冷えていく。
「今、彼女を死なせられない。それだけの理由で命を繋ぎ止めているだけに過ぎない。――私は、一刻も早く、リーリエを楽にしてやりたい。リーリエもそう、思っているはずだ」
「どう、して、ですか?」
死なせられない? 楽にしてやりたい? 父は母に生きて欲しくないのか? 母はもう生きるのを諦めてしまっているのか?
頭の中を渦巻く疑問が多く、口から出せたのは曖昧な問いかけだけ。それだけで、子の心境を察した父は嘆息を漏らし、平静を装った声で応える。
「私達も、ユリウスと同じ気持ちだった。リーリエの体が回復したら、その先の未来を何度も、何度も夢見た」
だけど、と言葉は続く。
「それはもう叶わない。人間には寿命があり、リーリエはとうにその時を迎えている。彼女の辛苦を、私は鈍らせるしか出来ない。苦しみを抱えたまま寝台の上だけで生き続ける事を、私は願えないんだ」
「……それ、は……わかります」
生きて欲しくないわけではない。諦めてしまったわけではない。
命あるものはいずれ終わる。両親は離別の痛みと共に、その運命を受け止めているのだ。
ユリウスはそれを理解して、同時に自分も母との離別を受け入れる運命に直面しているのを自覚した。
そうすると、『今は死なせられない』の異様さに、心臓を撫でられたような不気味な心地がする。
「……おとうさんはどうして、おかあさんに生きる事を強いているのですか?」
一秒でも長く生きて欲しい。そんなありふれた当たり前の心を、父は『悪足掻き』と称した。そう思い込んだ。けれど、違うらしい。
その真意を問うために、強い言葉を選んだ。ユリウスが見えない位置で父は棘を飲んだような表情を浮かべる。
「……リーリエを、人として、弔ってやりたい」
「それが……今、おかあさんが死んでしまったら叶わないのですか?」
「ああ……。リーリエは火葬の後、海への散骨を望んでいる。その望みを、叶えるために――」
父の腕がユリウスをより一層強く抱き締めて、覚悟を示すように、血を吐くように告げる。
「この世界の呪縛から、彼女を解放する」
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