閑話 無二の赤、愛しのファントム

 生まれた時から、誰もがぶち当たるという『言語の壁』とやらを感じた事がなかった。


 大人の難しい言葉も、幼い妹の泣き声の種類も、庭にやってくる猫が食事を要求する鳴き声も聞き分けられた。

 成長と共に文字という形で壁にぶつかるが、学習すればどうにでもなった。


 跡取りの長男、優秀な次男。親の期待を一身に受ける兄達のおかげで、三男として生まれた男の生き方はまさに自由奔放。島国の生活はそれなりに安定していたが、刺激が足らず、海を越えて国外を飛び回った。

 どの国に行っても言葉が通じれば、コミュニケーションも容易であった。

 顔を知ってもらい、築き上げた人脈が家業に良い縁として繋げた事で、母国の家族は大層喜び、ますます男を自由にさせた。


 理解ある家族、豊富な資産、生まれ持った稀な才能、その全てを生かし伸ばす才覚。

 あまりにも楽勝な人生だった。


 ――うっかり、異国の娼婦に一目惚れするまでは。




「あとは何を解消すれば一緒に来てくださるか、教えていただけませんか?」


「何度も言ってるだろう。あたしはこの国から出るつもりはないよ」


 はぁ、と呆れたように振られる事、数十回。これでもまだ対応としては改良された方だ。


 とある国のそこそこ大きな炭鉱村。

 命懸けで働く鉱夫達の生活を支える一人として出勤していく女に、旅の途中で立ち寄った男は一目で恋に落ちた。

 あまりにも外見が好み過ぎて思考はバンク。彼女の職業も男にとって都合が良く、足取り軽く娼館へ。初めましてもロマンスも何もなく、浅くて浅ましい出会いとなった。


 仕事の一夜が終わってようやく本題。

「一目惚れしたのでお付き合いを!」と告げたところで女はおべっかの上手なお坊ちゃんだと冗談として受け取り、「あたしが気に入ったならまた明日おいで」と営業返答。


 男は馬鹿正直に毎日通った。

 連日顔を出しては「一目惚れです! 付き合ってください!」と同じ告白を繰り返す事一週間。良い金蔓が出来たと受け流され続けてさらに一週間。

 女の休息日にも当然やってきた男は他の娼婦に目もくれず、しょぼくれて帰っていった話が女の耳に届いた事でようやく、男の告白が冗談ではない可能性に気付いた。


 そうして一ヶ月。

 ひと月で女が相手したのがその男だけだった事で、「あんたの気持ちはよくわかったよ」と男の想いがようやく届いた。


「――! っでは、私の、」


「いや、あんたの恋人にはならんけど」


 試合内容変更に伴い――第二回戦、開幕。

 交際を拒否されても男は諦めず、交渉が始まるもどちらの意見も通らず、膠着が続いてさらに一週間。

 しかし、惜しみなく愛を注ぎ込んでくる男と今日も今日とても寝台の上に腰掛けて顔を合わせ、延々と不毛なやり取りを繰り返す職場環境に、女の方が根を上げた。


「あのねぇ、お坊ちゃんは知らなかったかもしれないけど、あたしを買い取りたいなら支配人オーナーに直談判すりゃ終わる話なんだよ」


「勿論存じてます」


「はぁ!? 知ってるなら何だってこんな何日も、」


「何故って、貴女の同意なく話を進めたら拉致になってしまうので」


 女は絶句する。たったそれだけの理由が、この一ヶ月で男が使った金額に見合うとは到底思えない。最初から買い取ってしまえば、無駄に時間も金も浪費しなかったのに。

 馬鹿な事を口にする男は、至極大真面目な顔で商品おんなに向かい合い、無駄ではないのだと説く。


「ここから連れ出したい気持ちはありますが、ここは貴女にとって居住の地。私は貴女を攫いたいわけではなく、共に旅立って欲しいのです」


「だから、あたしは、」


「そう。だから、こうして口説いているんです。ここから連れ出して欲しいと願ってもらうために。貴女が築き上げた多くを手放して、私の手を取っていただくために」


「――――……」


 女に大した愛国心はない。住み慣れた環境を捨て、名前すら知らなかった国に海を越えて行く事に不安はあれど、不満はない。

 築き上げたものなんて大層なものも持っていない。男が用意すると誓う夢のような生活が現実となるなら、一刻も早く連れて行けと急かすところだ。


 ただ、一つ。たった一つだけ、どうしても手放せない物があった。


「……あたしは、娘が一番大切なんだ」


「え?」


 女の爆弾発言に男は間抜けな声を漏らし、思考が追いつくと寝台から滑り落ちながら血の気が引いた顔を床に伏せた。


「もッ、申し訳ない! 恥を忍んで申し開きさせてもらうと、既婚者だと思い至らず……!」


「安心しなよ。旦那はもう随分前に岩の下敷きになって、今は独身だから。そうじゃなくって、」


「?」


「だから、あんたを一番には出来ないって話。二番目でもいい?」


 娘の、次。

 言葉の意味を理解した男の表情は一転して明るくなり、迷うまでもなく即答した。


「はい! はい、もちろん! ああ、では、次は娘さんとお話をしなければ。一緒に来てもらえるようにお願いしたいので、顔合わせの機会が設けていただきたく、」


「いいよ」


 手を握ってこようとした男の手を避けて女は立ち上がる。

 呆気に取られる男を放置して退室した女は布一枚を両手に抱えてすぐに戻ってきた。


「これがあたしの娘だよ」


 そう告げて薄汚れた布を広げた。

 突然の事で目を見開いたまま唖然とする男の反応を見て、やっぱりこうなるか、と女は失望する。


 ここまでは何度かあった。何かを勘違いしたおとこが女に愛を囁いて、共に居たいと夢を語る。

 ――しかし、娘を見せた途端、夢から覚めたように態度を一変させるのだ。


 自分を『ただのボロ布』以下に見られたと激昂、女の言葉の意図が読めない事に対する怯え、適当に合わせようとした話の齟齬を突くと豹変。色んな反応が見れたが、彼らは共通して『娘を大事にしたい』という女の譲れないものを否定した。


 今回も、同じだと思い込んでいた。


「――――、綺麗だ」


「え、」


 今までの客の中で一番若いその男は、今まで見た事のない反応をした。

 まるで初めて宝石を知った子供のような純粋な驚きと感動に目を輝かせて、込み上げる興奮を堪えるために震える息を吐く。


「この、」


 彼の口が呟いた瞬間、女の全身が粟立つ。


 ――そんなはず。

 だって、今まで誰も娘を見る事は出来なかった。

 薄汚れた一枚の布を、これは娘だと主張を折らない女の不気味さに、話を聞いた者は皆離れていった。


「もしかして、ここに描かれている彼女の目は赤色、ですか?」


 男の稚拙な問いかけに揶揄う余裕もなく、女は声が震えないように虚勢を張るので精一杯だ。


「……見りゃ、わかるでしょ」


「いえ、……恥ずかしながら、私は色盲なのです。瑞々しい青葉の色も、サザンカの花の鮮やかさもわからない。それなりの才と運に恵まれた揺り戻しなのか、風情の味を知らぬ男でして」


 時折、男の言葉の言い回しが拗れすぎて何を言いたいのかわからなくなる。

 ただ、色の違いがわからない事と、それを恥じんでいるのは伝わった。女にはわからない感覚だった。


「だから、これほど力強く鮮烈な、美しい色を初めて見たのです」


 片膝を床につけたまま、布に目を奪われる。陶酔するように溢れた男の言葉に偽りは感じられない。それが、信じられなかった。


「美しい……? この、悪魔のような色が?」


 異国の青年の目には、女の最愛の娘が映っている。それが事実だと受け入れてしまったら、自身の芯が折れてしまいそうだった。

 女の声は震え、嘲るように言葉を続ける。


「赤い目は血を啜った者の証なんだろう? それだけじゃない、呪われて色が抜けた髪。肉が透けた肌。泣き声は野生動物を引き寄せる。陽の下を嫌う、全てこの子が悪魔だから――」


「――それは、貴女の言葉ではありませんね」


「――――」


 父親から受け入れられず、災いをもたらすと恐れられた呪いの子。故郷から迫害を受けて、それが当然だと思い込まされた。

 同じ色を何一つ持たず、それでも、自らの腹から生まれた子。


「貴女の娘は本当に、悪魔だったんですか?」


「は……本当に、悪魔だったなら良かったのに」


 一人で歩けるようになったら、泣く回数より笑う回数のほうが増えた。太陽の下に出られなくても、手を繋いで月夜を歩いた。髪を梳かれるのが好きな子だった。肌を撫でるとすぐ笑い出す、くすぐったがりだった。向けられる真っ赤な目はいつだって、愛情を示してくれた。

 娘は――アンは、普通の子供だった。


「もしアンが悪魔だったなら、手足を持っていかれたところで死んだりしなかっただろう? 斧で腕を断たれる前に、あの男共を殺してくれただろう!? ふ、あははッ……ああ、悪魔の体で作られた薬なんて毒だろうから、欲しがった奴らは全員死んだだろうねぇ!」


 ある日、アンは殺された。

 呪術師を名乗る男達によって、やれ目は何に使えるだ、骨は何が使えるだ、わけのわからない言葉を言われながら、あちこち持っていかれた。


 女にそのあたりの記憶はほとんどない。

 ただ、アンが本当に悪魔であってくれたらと、空想した。どんな姿になってでもいいからまた笑いかけてくれ、返してくれと、心の底から願った。

 ――そうして、血塗れの『ナイフ』を握っていた。

 五人いた男の三人が死体になり、バラバラにされたアンの体は殆どが置き去りという形で、女の元に返ってきた願いが叶った


「……貴女が失ったものの重さを、私では量り切れません。どれだけ想像を働かせても、理解する事はきっと、出来ないでしょう」


 男の声が聞こえて、ふと現実に戻される。

 感情を発露したのはいつぶりだろう。大粒の涙を零しながら女は顔を上げるが、視界がぼやけて男の顔が良く見えない。……きっと、痛ましい顔をしているのだろう。

 アンを目の前で失い、ボロ布を帰ってきた娘に見立てて心を誤魔化して、どうにか生きてきた。帰ってくるはずがないとわかっていながら、帰ってきてくれないかと待ち続けてしまう。弱く、愚かな女の一面を曝け出してしまった。みっともない。鼻を啜りながら顔を逸らす。


「……なんだい。はっきりと面倒な女だと言えばいいだろう」


「違いますよ。抱き締めさせてくださいと言いたいんです」


「今まで散々触ってきただろう。好きにすりゃいい」


 そうして女は大事にしている娘ごと、男の腕に抱き締められる。浅く浅ましく始まった二人の男女はそうして、恋人となった。





「しかし、本当に美しい絵ですね。貴女が描かれたんですよね? はぁ……素晴らしい才能です。つい瞳の赤色に目が奪われてしまいますが、服も肌も、背景まで鮮やかで……一体どんな画材を使われているんですか?」


「ああ……あんた、これは見える?」


「え? 今どこからナイフを出したんですか? えっ、何故ナイフで土を削っただけで色がつくんです!? あっ、ああっすごいっ、また知らない色が! 手品まで出来るなんて多才過ぎませんか!?」


「あー……あのね、このナイフも、色の土も、アミーの絵も見えない物らしいのよ。手品どころか、今のあたし達を誰かに見られたら土をほじくり返してはしゃいでる変人共として見えてるわけ。で、今まであたしにしか見えないものだと思ってたんだけど……あんたは何で見えてんの?」


「何で、と言われても……何故でしょう、わかりません。しかし、勿体ない。こんなにも美しいのに、私以外の誰にも見られないなんて」


「まぁ、アミ―の事はあたしとあんたでじっくり見てやればいいんじゃない?」


「そうですね。ところで、名前はアン、でしたよね? 愛称ならアニーでは?」


「アンは……あたしのアニーは死んで、もういなくなった。返ってこない。そう、思えるようになった。そしたらこの絵はあたしにとって、もう一人の娘みたいなものだと思っちゃってさ。散々アンの代わりにして今更だけど、そう呼んであげたくなったの。悪い?」


「とんでもない。私もこれからアミ―と呼ばせていただこうかと」


 彼らは共に国を出る支度を進めながら、穏やかな蜜月を過ごした。

 彼らにとって魔術も呪術も存在を認知する術はなく、互いにしか見えていない絵の仕組みも、女のナイフの希少性も理解出来なかった。しかし、彼らにとっては大きな問題もなかった。身近なものとして、互いを認識し合う見えない絆として、愛を育んでいった。


 そして恋人達は、共に国を出る事が出来なかった。


 人種や国のルールで阻まれたわけではなく、ハリケーンが国を蹂躙した。彼らが暮らしていた地域も激しい豪雨に見舞われ、洪水が発生し、泥水に呑まれた。

 一番大切な娘と、二番目に大切な男を助けるため、女は命を賭して誓いを貫いた。



 男は一人、愛する者に託された娘を大切に抱え、母国へと帰国する。

 短い蜜月の中で彼女に語った夢を、未来に繋ぐために。



「私の国には、一〇〇年大切にした物に心が宿るんですよ」


「へぇ。じゃあ、アミーもいつか話し出すかもしれないね。ははっ、ちょっと気が遠くなるけど、長生きしないとねぇ」



 およそ一〇〇年前、記録にすら残らなかった魔術師もどき達の、夢の話。

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