分岐 全ては灰の中

「……そのおばけ絵画が原因なのかは、これから確認してくる。君達は帰宅しろ」


 ざわり、と体の内側をヤスリでなぞられたような不快感が込み上げてくる。虫の知らせのような唐突な悪寒に菫は眉を顰めて、胸を擦った。

 不安、心配。落ち着かない感覚に相応しい名前が思いつかない。

 このまま帰っていいのか、何故帰るべきではないと思うのか――何かを確かめておきたいと胸がざわつく。


「一人で、大丈夫?」


「もし魔術師こちら側に関わる物だった場合、君達がいる方が問題だ」


 それは、確かに。ぐうの音も出ない正論だった。

 アルカの体調も悪く、菫がついていったところで何かが出来るわけでもない上に迷惑をかける可能性もある。


「……うん、アルカも体調悪そうだし、先に帰ってるよ」


 ただ見に行きたい、アルカが怯えるような、昴生が警戒するような危険なものではないと確かめたい。

 そんなよくわからない動機でついていくのは良くない。意味が分からない事を言い出したと心配をかけてしまうかもしれない。具合が悪いアルカを蔑ろにしてまで押し通すべき気持ちだとも思えない。

 行く意味がない理由をいくつか頭に浮かべても揺らぐ気持ちは収まらなかったが、菫はざわつきを胸の中に留めた。


「そうしてくれ。それと片岡、この現象が自然発生しているものだったら教材として利用する予定だから、また体調を崩す覚悟しておいてくれ」


「ぶっ飛ばしてぇ……」


 何でも利用しつつ弟子の体調を顧みない師の相変わらずな対応と、元気はなくともしっかり怒りを露わにする様子に菫は思わず笑みを零した。



 電車に乗って最寄駅に向かい始めると、アルカの体調は良くなっていった。

 やはりあの場に留まっていたのが原因か、と二人の間で結論付けて、安堵したり、『次回』の可能性に小さく呻き声と笑い声を漏らしつつ、無事に帰宅した。


 一人でいたくないとアルカに強請られたので菫は快諾し、二人で織部家に帰った。


 明日は土曜日、休みの兄もアルカが泊まった翌朝はだらけ過ぎないので、菫にとっても都合の良い。

 今年の初め頃まで『兄にとって良い妹である事』が最重要だったため、気付いたら生活環境を快適にし過ぎていた。


 兄はけして自堕落ではないが、一緒に暮らす家族が黙って何でもやってしまうのが当たり前だと思う環境は良くない。という事で生活の中で少しずつ、今まで何も言われなかった事を言うようにしている。

 しかしそれだと小言ばかりになってしまうので、言外に悟らせる事も取り込んでいる。今回アルカが泊まりに来る事で、兄も午後まで寝過ごすのは避けるだろう。


 アルカは兄と会えるし、兄はかっこつけるために生活リズムの維持に努める。

 その双方が菫にとってもメリットであり、泊まりの夜も楽しいので、一石三鳥どころではない良い事づくめなのだ。


 ……まぁ、兄にとって良い事なのかは、菫にとって預かり知らぬところではある。

 尋ねても誤魔化されて終わるだろう。何かしらきっかけがないものか。



 ――と、薄ら考えていた事が翌朝、実際に起こるとは思わなかった。



「菫! 菫、起きろ! アルカちゃんでもいい! 二人とも起きろ!」


 扉を激しく叩く音に菫は体を起こす。カーテン越しに見る外は薄明るく、正確な時間はわからないが日が出て間もないのはわかった。

 珍しい、どころか兄の切迫した声色から緊急性すら感じられる。菫は寝ているアルカを揺さぶりながら声を張る。


「お兄ちゃん、どうしたの!?」


「避難指示が出てる! 昨日の夜に火事が起きて、火がこっちまで広がってるらしい! とにかく、家を出る支度しろ! 電車も止まってるから!」


「か? へ……?」


 避難指示? 火事? 電車が止まる?

 非常事態のオンパレードに菫は夢の中にいるような錯覚を覚えるが、枕の横に置いていたスマートフォンの画面をつけた。


 メッセージアプリに通知が来ている。クラスメイトのグループ内で、明け方にも関わらずメッセージがいくつか届いていた。

 避難指示の警報アラームで起きた。学校付近に住む人に向けて火が近付いてるから避難を訴えるものと、不安や案じるものがいくつか。


 トップニュースにも上がってる。

 延焼が止められず住民に避難指示。火事による架線断線。警報が出されている地域の中に自分の住む地名が含まれていて、じわじわと現実味が増していた。


「――――!」


 火事の発生地点。商業ビル――昨日、球技大会をするために降りた駅名が、近隣として書かれている。


 何故か、その駅前で別れた少年の顔が思い浮かんだ。

 何かわかったら連絡する。そう言ってたのに、昨日の夜から音沙汰ない。連絡がないのは何も無かったからではないのか。


「おい! まだかかるか!? 早く!」


「あっ……ごめん! もうちょっと待ってて!」


 ぞわぞわと背筋に張り付いた怖気に硬直していたのを兄の急かす声で気付く。

 不安も気になる事もあるが、とにかく避難が先決だ。頭を切り替えたところでようやく、アルカも起き上がった。


「アルカ、起きた!? 良かった、今、避難指示が出てて、すぐに家を出るから支度して!」


「――――うん……わかった」


 アルカの反応が鈍いのは起きた直後のためだと思い、菫は違和感に気付かなかった。




 家を出発して一時間。避難所として開放されていた学校の体育館で腰を落ち着けた。


「はい。妹と一緒にアルカちゃんも避難しています。また移動するかもしれないので、念の為、私の連絡先もお伝えしておきます。番号は――」


 アルカの養父妹――後見人である岡田奈津美にも避難状況を報告をして、今は夕昂が同行者として話をしている。


 電車は本当に動いてなかった。バスもタクシーも乗れそうになくて、大通りは見た事ないくらい渋滞してて、空は真っ黒な煙が広がっていて。

 見慣れない光景の中だったせいか、一時間歩いただけなのに菫は結構な疲労を感じていた。

 通話を終えた夕昂が戻ってきて、携帯電話をアルカに返す。


「まだ燃え広がってるらしい。ここも避難区域になったら移動するから、今のうちに休んでおけよ」


「うん……家、燃えてないといいね」


「家は最悪引っ越せばいい。はぁー……今日が休みで本当に良かった。出張先で火なんて聞いたら、生きた心地しなかったわ」


「アルカと一緒だったし、多分大丈夫だったよ」


「お前達はそうかもしれないけど、俺はそうでもないんだよ。まぁ、アルカちゃんと一緒だったのは不幸中の幸いだったな。避難中はすぐ連絡取り合えなかっただろうし」


「…………」


 昴生に昨日のその後を問う内容と安否を確認するメッセージを送ったが、返信はない。既読も付かないのは、まだ朝が早いからだろうか。


「家……どこに住んでるのか、聞いておけばよかったな……」


「……大丈夫だ。早く返事くるといいな」


 電池の消耗を抑えるためメッセージの通知は切ってしまった。真っ黒な画面を無意味に見下ろして俯く菫の頭を夕昂の手がわしわしと撫でる。

 慰めの言葉もそこそこに、夕昂は背負っていたリュックを下ろし、中から水のペットボトルと缶詰を取り出す。


「ほら、二人とも水飲め。朝から飲まず食わずで歩いて疲れただろ。食べれるうちに食べとけ」


「……ありがとうございます」


「あ、ありがとう。……お兄ちゃんの分の水、ちゃんとある? 無かったら半分こしよ」


「大丈夫、あるある。こんなこともあろうかと、念の為三人分入れてあんだよ」


 夕昂が背負っていたリュックは非常袋として準備されていた物だ。普通なら入ってる食料は家族分――二人分のはずだ。数日分あるとはいえ、避難が続けば足らなくなる可能性はある。

 だから兄が格好つけて、自分の物をアルカに回したのではないかと菫は思ったけれど、兄の方が一枚上手だったらしい。


「そう、だったの?」


「そうだったの」


「……そっか」


 目を丸くする菫に、夕昂は得意げに笑った。

 確かに、よく泊まりに来る妹の友達が一緒に避難するかもしれないと考えた時、一人分多めに入れておいた方が安心出来る。

 重かっただろうに。何も言わなかった兄の格好つけに、菫は頬を緩ませた。




 パンの缶詰を三等分して食べ終わった後、嫌な予想は当たってしまい、避難区域に入ってしまったため移動を迫られた。

 次の移動先も決めておいたため、菫達は他の避難者より早く支度を済ませて早めに出発した。


 火が迫っているせいか、外の空気が悪くなっている。天気予報では晴れのはずなのに、煙のせいか薄く曇り、黒煙が近くから上がっているように見えた。


「消防車が間に合ってないのかな……?」


「かもな。……だとしても、気味が悪いな」


「何が?」


「森や山ならともかく、このへんは道路と建物しかないのに、こんな広範囲に延焼し続けるのはおかしいだろ」


 火は隣接しているからこそ燃え移る。余程激しく燃えているわけでなければ、道路を挟んだ向こう側は正しく対岸の火事だ。


 火災発生した駅から最寄駅の間にいくつも大きな道路があったし、川も越えていた。

 橋や線路を伝って火が川を越えて燃え広がる可能性が万が一有り得たとしても、何も対策されないはずがない。

 それなのに、現実は住民に避難を促すほど延焼は続いている。


「確かに、おかしいね」


「しかも、燃え広がり方もらしい」


「……真っ直ぐ?」


「そ。だから消火が間に合ってないんじゃなくて、誰かが放火しながら進んでるんじゃないかって話が出てて、気味が悪いだろ」


「それ……本当だったら、だいぶ怖いね」


 もし本当に放火犯がいるなら、二度目の避難を強いられた菫達の背後を彷徨いているようなものだ。

 ぞっと寒気がして、繋いだままのアルカの手を握りしめてしまう。痛いだろうと握力を緩めた時、アルカの手がするりと滑り抜けた。


「アルカ?」


「……………」


 俯いて立ち止まってしまったアルカを心配して菫も振り返り、他の避難者達の妨げにならないように端に寄った。


「どうしたの? 足、痛くなった?」


「……ごめん」


「いいよ、こんな時だもん。ちょっと待ってね、おんぶするから」


 背中を空けようとする菫の手を掴んで止めたアルカは、真っ青な顔で涙を落とした。突然、酷く思い詰めた表情に菫は困惑する。


「違う、違う違う、違うの、ごめんなさい、ごめんなさい、私が、最初から気付いてたら、こんな……私が見捨てたから、こんな、そんなつもりなかった、のに」


「アルカ……?」


「私、一緒に行けないから……菫はこのまま避難して。そうしたらきっと、もう大丈夫だから」


「はっ? えっ!?」


 アルカは支離滅裂な言葉を一方的に告げて避難者の人波に逆らって歩いてきた道を戻り始めた。

 混乱しているとはいえ、そのまま見送るわけがない。菫はどうにか腕を伸ばしてアルカの袖を掴んだが、アルカの足は止まらず、菫も踏ん張ってみるが力負けしてしまう。


「待って、何の話!? ねぇ、アルカ!?」


「アルカちゃん!」


 菫の横から夕昂の腕が伸び、アルカの肩を掴んだ事でようやく立ち止まった。

 少し息の上がった兄の姿に菫は逆に安堵する。


「今は戻っちゃ駄目だ。何か忘れたなら、警報が解除されてから、」


「……夕昂さん」


 振り返ったアルカは少し迷ったように視線を泳がせるが、すぐに決意を固めて、微笑んで、目を見た。


「夕昂さんは、菫と避難してください。お願いします」


 瞬間、現実感を失った。

 ふわりと心地よい香りに包まれて、アルカの声だけが耳の奥に染み込んでくる。目を開けながら眠っているような陶酔感が非日常の喧騒を遠くする。


「――……、そ、うだね?」


「え……っ」


 は、と異常に気付いた時には遅かった。

 アルカの言葉に同調した夕昂が、アルカの肩を掴んでいた手を離し、代わりに菫の肩と腕を掴んで「周りの迷惑になるだろ、さっさと避難するぞ」と言ってきた。


 意味がわからない。何が起きたかわからないが、何かが起きた。

 兄の喋り方も菫と二人しかいないようなもので、急にアルカの存在が見えなくなったかのように人の流れに乗って、避難所への道を進み始める。――アルカをその場に置き去りにして。


「ま、お兄ちゃん待って!」


「忘れ物は諦めろ! とにかく避難所まで行くのが先だ!」


「まって、待ってよ、ねぇ! アルカ! アルカ!」


 人の流れに乗って数歩進み、止まる事が出来なくなった菫は置いていってしまう友人を呼び続けるが、振り返ったその時にはもう、アルカの姿は見えなくなっていた。





「……なるほどなぁ、力でゴリ押し。あーいう事も出来ちゃうんだ。……あー、くそ。あいつの言う通りじゃん。魔術師なんてろくでもない」


 独りぼっちで、独り言をぼやく。


「……いや、もう、あいつなんて言う資格、私にはないや」


 誰にも拾われず、誰のためにもなれず。


「……応援するって言ったのに、全然出来なかったなぁ。しかも、私が継片を嫌いだからって、……気にしなくても良い、なんて思って……助けなかった。見捨てるとか、最低だ」


 助けに行ったところで、見捨てなかったところで、果たして一人で調査に向かった少年を助ける術はあったのか。

 方法の有無は関係ない。何もしなかった。何も果たせなかった結果が全て。


 誰にも責められなかったから、代わりにたくさん自分を責めて、人の形をしたよくわからないものは、同類の元へ歩みを進める。


 どうしてこんな騒動に発展してしまったのか、片岡アルカにもわからない。

 ただ、聞こえるのだ。こちらにおいでと仲間が呼んでいる。命を糧にして火を纏った仲間よくわからないものが近付いてきている。

 これ以上見て知らぬ振りをしていれば燃え広がる範囲が広がるだけだと、確信がある。


 ならば、大元を潰すしかない。もし敵わない相手でもこの身が足止めとして機能すれば、逃した兄妹に火の粉はかからない。

 その後、……その後は――。


 友達の好きな人を見捨てた。好きな人には怪物の力を奮った。いや、それ以前に、騙してた。

 人ですらない、役目すら終ぞ果たせず、この身はどこに、行けば。


「……私、もう菫の友達でいる資格、ないや」


 どうにでもなればいいと、思ってしまった。





 次の避難所に着いたところで、ようやく兄と落ち着いて話が出来たけれど、話にはならなかった。


「列で移動してたとはいえ、人が多かったからな……心配だけど、避難場所は話し合ってるし、靴紐が解けただけならすぐに追い付くよ」


「……そ、うだね」


 移動途中、アルカの靴紐が解けたせいで互いを見失い、逸れてしまった事になっている。

 違うのに。違うけど、菫が見えていた景色をそのまま伝えたら、兄がまるでアルカを置き去りにしたように思わせてしまう。兄が正常な判断をしていたとは思えないからこそ、菫は口を噤んだ。


 逸れた事にしておこう。今は、今だけは。

 何が起きているのか、何をするのが正しいのか。菫は一切わからず、一刻も早くアルカが戻ってくるのを待つしか出来なかった。



 どれほど時間が経ったのか、菫は避難所となっている小学校の体育館で縮こまるのを止めて、校庭に出た。

 新たに避難してきた人の流れや、校庭の端で持て余す時間を遊んで過ごす人々を見て探している金色が見つからず俯いていると、――空から何かが落ちてきた。


「――――ッ!?」


 ドッ!!

 地面が揺れる強い衝撃と、目の前で火花が弾ける業火の塊は、まるで隕石でも落ちてきたような光景だった。

 しかし落ちてきたのは、隕石ではなかった。

 ごうごうと揺らめく炎の中で人影がゆっくりと立ち上がる。その姿は菫より少しだけ小柄で、知っているようにも、知らない子供のようにも見えた。


 校庭にいた人々は突然降ってきた炎から距離を取るが、誰一人として逃げなかった。

 何が起きているのかこの目で確かめようとしていたのか、危ないと頭で理解しつつも赫赫かくかくたる存在感から目が離せないのか。

 誰もが息を飲み、張り詰めた静寂の中で煱中かちゅうの人が動き出す。


「ずっと」


 火を纏った触手がまるで乞うように伸ばして、指先が織部菫に迫る。


「ずっといっしょが、よかった」


 耳に馴染む心地よい声が、知らない子供の声が、同じ言葉を重ねて反響させて、菫の脳を揺さぶった。

 その嘆きが、よく知る友人のものだったのか、いつかの子供のものだったのか、はたまた非日常に足首を掴まれて動けなくなった菫自身のものなのかわからない。

 わからなくてもいい――熔けて一つになれば同じになれる。


 菫の意識はわけがわからぬまま、焼失した。

 さて、妹が次に『一緒』を求めるのは兄で、兄と共に体育館の中で熔けた人々が求める『一緒』は、友人か、恋人か、家族か、または物質か。




 そして、たくさんの『同じ』を一纏めに熔かしたその火は、さらにたくさんの『同じ』を求めて移動し、最後は国を、世界全土を一纏めに呑む事も可能だったが現実にはならなかった。


 それらは『死神』の一閃により終幕する。

 ――――愛も恋も友情も、全ては灰の中。

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